秋といえば・・・
関ヶ原の戦いですよね!?
石田三成や徳川家康は有名なので、今回はちょっとマイナーな!?「鳥居忠元」について書いてみます。
(鳥居忠元は関ヶ原の前にすでに亡くなっているのですが…。)
鳥居忠元は徳川家康の忠臣でした。
姉川の戦いや三方ヶ原の戦いなどに参戦し、歩行に少し障害が残りました。
しかし、その後も徳川家の家臣として小田原の戦いなどにも参加します。
最終的には徳川家康が上杉討伐をする際、伏見城を預けられるまでになった武将です。
伏見城を死守しなければならない鳥居忠元に対し、
「兵が手薄で苦労を掛ける」
と徳川家康が伝えると、
「将来、殿が天下を取るためには多くの人手が必要だ。もし戦いが起こってこの城に攻め入られれば討ち死にする他ないので、一人でも多くの家臣を連れていってほしい」
と言ったそうです。
もうこれだけで感動です。
戦いはやはり発生し、石田三成率いる部隊が伏見城を攻めました。
これが伏見城の戦いで、関ヶ原の前哨戦となりました。
鳥居忠元は1,800人の兵力で伏見城に立て籠もることになります。
鳥居元忠は最初から討ち死にを覚悟で西軍と戦い続けました。
そして13日間の攻防戦の後、鈴木重朝との一騎打ちの末に討ち死にしました。
徳川家康は鳥居忠元の死をいたく悲しみ、伏見城の血染めになった畳を江戸城において、訪れた者に三河武士の鑑である鳥居忠元を偲ばせるようにしたそうです。
忠元の忠臣っぷり、すごいです…。
そういう家臣を大事にする家康もすごい…。