今川家は京都の将軍家と縁が深かった関係で、京都から様々な文化人が駿府に招かれました。

お能の始祖・観阿弥もその一人です。

 

 義元さんは家康さんに、太原雪斎さんによる高度な学問を授けたばかりか、

武士の教養のひとつであるお能の仕舞も練習させました。観世流直伝ですね。

 

 そのような教育を受けた家康さんの仕舞は、秀吉主催の宴席で秀吉から高い評価を受けました。

 

 家康さんが生涯で仕舞した演目は記録として残っています。

書名は忘れましたが、それは現在、静岡市立歴史博物館の3F特別室に展示されています。

 

 さて、家康さんが好んだ演目【「松風」のあらすじ】です。

 

 一人の旅僧が須磨海岸に着き、そこに海女の姉妹「松風」と「村雨」の墓標の松があることに気づき、読経します。

すると2人の美しい女性が現れ、彼女らの家に泊めてもらうことになりました。

 僧が在原行平の歌を詠み、「松風」と「村雨」の松に経をあげて弔った旨を話すと、

2人の女性は「実は私たちは松風と村雨の幽霊です。行平様に寵愛され、彼の死後もその愛の妄執に捉われ、成仏できずにいます。回向して下さい」と頼むのでした。

 

下の写真が、僧に恋の顛末を語っている場面です。

そうして、行平の形見の衣装を纏うと、恋の苦しみを狂わし気に舞い始めます。

下の写真の右側の女性がその場面です。

 僧は熱心に読経を続け、幽霊は夜明けとともに姿を消します。

お能はBGMに和楽器や謡(うたい)が入ります。

その謡の最後の一行に、幽霊が消えた後の情景が盛られています。

それは「後に残るは松風が吹くばかり」。

 

 1時間20分の上演時間の前半と後半に見せ場があり、前半は静、後半は動の美しさがあります。

家康さんがこの演目のどこを愛したのかは知りません 

 

 これは私の想像ですが、もしかしたら家康さんは最後の一行「後に残るは松風」をずっと胸に秘めていたのかもしれません。

古典において「松」と「待つ」を掛詞(かけことば)にするのは常識です。

 秀吉の次に自分に吹く風を待っていたのかもしれません。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の悠長さで、表向きはおっとりして秀吉を始めとした他の武将を油断させ、

裏では粛々と一剣を磨いていたのだと思います。

 

 これって、尾張の”あのお方”、「大うつけ」と言われながら誰が味方で誰が敵かをじっくり観察していた”あのお方”から学んだのかもしれません。