『風姿花伝』、それは世阿弥が観世家の始まりや演技の仕様などを芸術論としてまとめた書。
家康さんが浜松城にいた頃、観世宗節が『風姿花伝』を書き写し、それは家康さんに渡り、
貴重な文献が失われずに済んだのです。
また、駿府城にいた家康さんは、秀頼の代になっても大坂城に仕候していた能役者に、以後は
駿府に詰めるよう命令しました。こうして、駿府には多くの能楽師や役者が集まりました。
江戸に移ってからも、観世流はお能を代表する流派となり、幕府の式楽とされました。
各地の大名が御殿内に能舞台を建設する時は、幕府に設計図を提出し、許しを受けなければなりませんでした。
その際、鏡板(能舞台の正面にある板)の絵は必ず松にすることが条件づけられました。
徳川は松平だからであり、松は神の依り代と考えられていたからです。
お能は、観世、金春(こんぱる)、宝生(ほうしょう)、喜多(きた)の4流派に分かれています。
加賀のお殿様は最初は金春でしたが、のちに宝生になりました。
参勤交代の際、長野市を中心とした北信濃(北信)を江戸と本国の通過点としたことで、
本陣や脇本陣、豪農や庄屋宅に宿泊した家臣たちがそれらの家に宝生流を伝えたので、
現在でも北信には宝生流を習う方がいます。
因みに私の父も趣味で宝生の謡曲を習い、私は父の練習を聞いていたので宝生のリズムで育ちました。
同じ信州でも、松本市では観世の方が優勢です。
これは先の大戦中に東京から疎開してきた師範によって伝えられたようです。
今川氏から家康さん、幕府によって保護された能楽は、今や世界遺産です。