下諏訪町には、信玄によって再建されたお寺さんがあります。

参道の杉木立と苔が美しい。苔の見ごろは6月半ばくらいだそうです。

山門が見えてきました。

山門を抜けて境内に入ります。

典型的な鎌倉建築ですが、これは江戸時代に再建されたものです。

 

慈雲寺は正安2年(1300)に開山されました。

「信玄の隠し湯めぐりの旅」に行って来ました(その①)で述べた

金刺盛澄(かなさし・もりずみ)の孫にあたる金刺満貞(諏訪大社の上級神官)が

高僧を招き、建立の運びとなりました。

 

その後、消失しましたが信玄が再建に着手しました。

本堂の屋根には武田菱と諏訪神社の紋所・梶の葉があります。

 

 下の写真は「天桂(てんけい)の松」。

甲府の恵林寺から招かれた僧・天桂によって植えられたそうです。

枝ぶりが見事です。樹木医が手入れしているんですね。

枝を切った後に消毒が施してありました。

 

枯山水の庭。

裏庭。これも信玄の命により作庭されたとか。

 信玄って民衆から7割も税金取って、こうやって神社仏閣に大金をつぎ込んだのですよね。

川中島の戦いだって民衆の血税から捻出した戦費。

 私の故郷・長野市を民衆の血税で荒らしまわった信玄なんて

好きじゃないわ。

 

チョット、時代は鎌倉にバックしますね。

「信玄の隠し湯めぐりの旅」に行って来ました(その①)で述べたように、

霞ヶ城の城主・金刺盛澄(かんさし・もりずみ)は、

弟の手塚光盛と共に木曽義仲の平家討伐に従軍しました。

 

 義仲の部下たちは京都で乱暴狼藉をはたらいたので、

頼朝が怒って義仲討伐の兵を向かわせました。

 

 義仲は討たれましたが、金刺盛澄とその配下の者たち60名は

梶山景時に預けられました。

(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではこの話は出ていません。)

 

 景時は、盛澄が弓の名手であることを知っており、このまま処刑するのは惜しいと考え、

頼朝に「弓の腕前を見てから考えた方が良いのでは?」と進言しました。

 

 頼朝は盛澄に暴れ馬を与え、鶴岡八幡宮で流鏑馬を行い、盛澄は見事に全部の的を射落としました。

実は景時は、盛澄に暴れ馬の御し方を密かに教えていたのです。

 

 頼朝はどこまでも意地悪で、今度は的を支えていた串全部を射るように命じたのです。

盛澄は今度も全部射ることができたので罪を許されました。

 

 前置きが長くなりました。この梶原景時は金刺家にとって命の恩人ということで、

下諏訪町には景時の顕彰碑があります。

 

 

 以前は別の所にあったのが、下諏訪駅から近いこの場所に移転したので、

見た感じは新しいです。

 周囲4本の柱と御幣(おんべい)で一種の結界が張られています。

 

 歴史上の人物とか事件とか事象は、思わぬ所で繋がっていて、

それらが頭の中の知識と実地とが結びついた時、

戦国時代の魔女の血は大いに騒ぎ立てるのです。

(完)