二日目の6月8日は山梨県から静岡県に縦貫道路をひた走り。

 途中、静岡市清水区にある(JR清水駅から徒歩5分余りの)

清水港の海鮮市場でマグロ舟盛りの昼食。

 

 流石しぞーか。舟の右横の小鉢には桜エビと生シラス、

舟の向こう側の黒い物は、ポットに入ったたっぷりの冷たい緑茶。

 美味しかったぁ。

 

昼食後は浜松へ。

 

先ずは、浜松市立博物館を見学。

上の写真は浜博のキャラクター。

下の写真は、展示物の中に「矢が刺さった鹿の骨」が珍しかったので撮影。

 博物館の外に出て、蜆塚貝塚を見学。

下の写真。

第三貝塚と書かれた看板の下に無数の白く見える点々が

捨てられた貝。

 手前に柱・穴と見えるのは住居のあと。

ここに居住した縄文人たちは家の近くに貝を捨てていたのですね。

近くには佐鳴湖(さなるこ)という湖がありますから、そこへ漁に行き、

また鹿の骨も出ていることから狩猟もしていたことが判ります。

 

下の写真。

 貝塚を縦方向に掘ったものをガラス張りで屋外に展示した日本初の展示方式。

さすが浜松。やらまいかの精神。

 

 シジミ貝だけでなく、他の種類の貝や動物や魚の骨も一緒にあります。

この地層だけで1000年分だそうです。

因みにこの遺跡は、かの「三方ケ原台地」の上にあります。

 

「三方ヶ原」といえば元亀三年のあの戦いですよね。

 

 浜博では、テーマ展として「家康伝承と浜松」展を開催しています。

展示品は、家康さんが浜松城在城期の浜松城跡(引馬城跡)や二股城跡、高根城跡などからの出土品。

江戸時代では、徳川十六将図、遠州三方ヶ原合戦図、酒井忠次時鼓打ち図など。

江戸・明治期の娯楽と言えば歌舞伎や人形浄瑠璃です。

歌舞伎狂言の演目である通称「酒井の太鼓」は上演され、錦絵にもなりました。

 

 酒井の太鼓とは、浜松城で酒井忠次が太鼓を打ち鳴らし城門を開いたことで、

武田軍が罠だと思い、城攻めをしなかった故事によります。

 そういえば、「どうする家康」でも太鼓はなかったけれど、城門を開いていたことで

「罠だ」と勝頼だったか信玄だったかが言いましたよね。

 

 展示期間は過ぎてしまいましたが、三方ヶ原に至るまでの武田軍の動きを示す資料もあったそうです。

信玄の書状には「三か年の鬱憤を晴らす」という信玄の表明がなされてあり、

これは家康さんが謙信さんと元亀元年(1570)に同盟を結んだことに対する怒りだと。

 この書状が書かれた時点で、武田軍は高天神城付近にいたと推定されるそうです。

高天神城を制するものは遠江を制するといわれるほど軍事面で最重要地点。

さぁ、どうする家康ですね。

 三方ヶ原って思っていたよりずっと広かったのが感想です。

やはり、現場は実際に見てみないと判らないものです。

 

 この後は今宵のお宿、雄踏(ゆうとう)温泉 THE  HAMANAKOさんに。

(続く)