オーストリア学派のメンガーやシュンペーターが経済学を独立的に体系化しようとしたことにたいして、ハイエクは再び歴史主義の領域を若干でも回復しようと、ルッジェロ、バーリンが示した二つの自由観を取り入れました。

そこで私が思う【二つの自由観】についての見解を述べますと、【消極的自由】とはイギリスに限られた特質であり、【積極的自由】はフランス、ドイツ、アメリカなど、イギリス的特質が浸透していなかった文化圏だったゆえに広まったものと考えます。ですから資本主義の発祥と消極的自由観が密接に関係しているのではなかろうかと見込んでいるわけです。



なるほどイギリスと言えば17世紀後半のホッブズやロックの社会契約が連想されまが、それはドイツのマルクスによって軽減され、オーストリア学派を含むメンガー、フランスのワルラス、イギリスのジェヴォンズらによる限界効用論 (1870年代) によって、恒常化した現になされている契約状況として社会契約論が扱われました。

そこで市民革命と社会契約論の関係について本家イギリスと参照フランスを比較しておきたいと思いますが、そもそも両国の相違はかなり大きいものであり、その後の世界史の動向を考察するための重要な要素が含まれています。

実際のところ、フランスの場合はルソーを基本とした【革命勢力の結集書】として社会契約論が用いられましたが、イギリスの場合は革命後の【議論の基準書】であって、革命へ向かうための教条理念とはなっていません。ホッブズの 「リヴァイアサン」1651 はクロムウェルの共和政 (1649) より後ですし、ロックの 「統治論二篇」1689 にしても陰で協力した権利の章典と同年でありまして、革命勢力を触発させた書ではありませんでした。

特にホッブズの場合は、王党派の立場にあったため革命勢力に追われての亡命 (1640-1651) であり、全く革命を先導してはいないのです。またロックの場合は王政復古後の改革側にいたために亡命 (1682-1689) しましたが、決してフランスのように社会契約論によって革命が進行したわけではありませんでした。

まさにイギリスの場合は、革命後の保守派と改革派に分かれた状況における議論のための社会契約論であり、【~からの自由】である消極的自由観と関係した考え方にあったと言えましょう。たとえばヒュームの 「原始契約について」1748 の時期においてさえも、王権神授説にあるトーリーと社会契約説にあるホイッグとして描かれているのでありまして、決して社会契約論一色のイギリスではなかったことを意味します。

それに比べてフランスの場合は、イギリスの市民革命を見習いながら革命実現のために社会契約論を用いたのであり、【~への自由】である積極的自由観にあったと見なせます。イギリス保守思想で有名なバークが著した 「フランス革命についての省察」1790 とは、まさしくイギリスの消極的自由観から見たフランスの積極的自由観についての書、あるいは積極的自由観に染まらぬようイギリスの消極的自由観を広めることとなった書と言えます。

またバークが保守トーリーの側ではなく、改新ホイッグの立場にあったことも重要です。フランス革命の国内波及を危惧した対仏大同盟 (1793-1797,1799-1802) の首相・小ピットはトーリーの立場であって、バークのホイッグとは立場が異なっていました。つまりバークは保守派の立場から国内の改革派を抑え込むために、当てつけでフランス革命を持ち出したわけではありません。 (むしろ改革右派からの改革左派への当てつけであった) あくまでも改革派として改革の意識や方法を問題としていたのであり、【改革派からの保守思想】であった点が重要です。



こうして市民革命の起源発祥イギリスと参照模倣のフランスが異なっていたように、資本主義においても起源発祥と参照模倣による浸透にもちがいがあるのです。ウェーバーの 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 も本家イギリスの参照モデルがない発祥精神が主題であって、後の参照模倣するドイツを始めたとした近隣状況に問題を投げかけた形なのでしょう。

まさしくイギリスは、市民革命と資本主義の両者の発祥地域でした。ウェーバーは起源発祥の資本主義精神を求め、その一つの限られた様相を説明しましたが、しかしそこには市民革命の起源発祥と並行していた【消極的自由観】も何らかの形で加わっていると想定できるでしょう。

いやイギリスの特殊性と言えば、大陸合理論にたいするイギリス経験論といった哲学史で認められている分類もありますから、ジョン・ロックの 「白紙からの経験形成」 なども関わっていたことでしょう。実際、「自由」 の概念にしても便宜上に使われる経験的な曖昧なものと同意するがゆえに、積極的ではない消極的自由としたイギリスだったと言えるのです。逆に言えば、新たな合理性のもとで積極的自由を創作し、結束行動にいたったのがフランス革命の結果なのです。



しかしイギリスで興った市民革命や近代資本主義も、やがては後々のイギリス国内を含めて模倣的に広がることになったのです。その模倣の結果は、「積極的自由」 positive liberty、「実証主義」 positivism、「実定法」 positive low となり、日本語ではわかりずらいのですが、いずれも 「ポジティヴ」 という歴史を追っ払う【前向き】なのです。

積極的自由はフランス革命によってもともとの消極的自由を追っ払い、実証主義はフランスのコントが提唱してから形而上学や宗教を追っ払いました。そして実定法は時代変化や国際関係の広まりを理由とする選抜少数者による新たな法律作りによって、各地域の自然法や慣習法を追っ払ったのです、

もちろん変革や改革は必要でしょう。しかしその変革方法には歴史主義の考え方がなく、ポジティヴの名によって変革実行の決断が即正統とされてしまっているのです。たとえるならば、もはや経済の現実を知ることよりもポジティヴに語る経済学者の権限獲得状況を知ることの方が重要であり、また人間の精神状態を知ることよりもポジティヴに語る心理学者の権限獲得状況を知る必要に迫られているのであります。



全く社会契約論にしてもイギリスとフランスでは大きく異なっていましたが、現在のポジティヴに影響を与えたのはイギリスを模倣したフランス的社会契約論によります。また時代推移を進化と見る考え方が起源発祥を見ようとしないのも一因でありましょう。ウェーバーは決して資本主義の起源精神を言い当てたと満足していたわけではなく、ここに【消極的自由観】と【経験論】の可能性を示唆しておきたいと思います。



続く