出来事は刻々とあらゆるところで生じて行き、人はそれぞれの観点で出来事を見て行っている。習慣的持続が維持されることもあれば、新たな観点が広がり始めることもある。

習慣的持続で得する人がいれば、損する人もいる。また新たな潮流に危惧しなければならない習慣的持続もあれば、ひとまずは気にしなくともよい習慣的持続もある。

ルネサンスは習慣的持続となったキリスト教にたいして、イスラム圏の新たな古典ギリシャ哲学などの動向に危惧を覚えたのが一つの要因だったと考えられます。新たなルネサンスにたいして習慣的持続のキリスト教関係者は、どのように思ったのだろう?自らの習慣的持続を脅かす社会の迷惑者と見なすか?イスラム圏を危惧した自らの文化圏を繁栄させてくれる一勢力と見なすか?

あるいは新たな免罪符販売にたいして習慣的持続のキリスト教関係者(ルターなど)は、どのように思ったのだろう?習慣的持続を新たな販売で脅かす社会の迷惑者と見なすか?教会財政を危惧した自らの文化圏を繁栄させてくれる一勢力と見なすか?

何か新しい動向が波及し始めると、単に一つの新たな見解が加わるだけではなく、色んな立場から色んな見解が派生するのだ。


イギリスの『囲い込み enclosure』も、はじめは一種の習慣的持続にたいする新たな動向であった。トーマス・モアは『羊が人間を食べる』と風刺し、ジョン・ロックは所有権と囲い込みの関係を労働価値説の発生と絡めて説明(『統治論・二篇』第五章)している。特にイタリア・ルネサンスのマキャヴェリ(1469-1527)やドイツ宗教改革のルター(1483-1546)にたいして、イギリスでは囲い込み評論のモア(1477-1535)が同時代の人物に相当していたことは重要であろう。

後々の資本主義動向に影響を残した囲い込み運動と考えられているが、それは単に囲い込みが行われ始めたことだけではなく、それを『囲い込み』と名付けることによって新たな習慣的持続の崩壊を問題化させたことも含めた上で認められる話である。

もし前者だけであったならば、習慣的持続を崩された人々による反乱が勃発し、長期化した社会的混乱期を迎えたであろう。確かにアメリカ大陸へ新天地を求めた勢力もあったのだが、イギリス国内でも新たな囲い込みによって習慣的持続を崩された人々の受け皿を用意する、そんな新たな分業意識の共有化が『囲い込み』という命名によって行われたと考えられよう。

マックス・ウェーバーは資本主義精神を勤勉性や分業秩序に求めた感じである。そしてカルヴァン派が新たな分業秩序を含めていたのにたいして、ルター派は内面的勤勉性に偏り新たな分業秩序の意識共有化が少なかった(旧来の分業維持は強かった)ため、ドイツでは資本主義精神に立ち遅れたと説明しているかのようでもありますが、しかしウェーバーは囲い込み運動『囲い込み』の命名運動が混在した中で築かれて行ったであろうイギリスの分業意識の共有化までは想定されてはいません。

ルネサンスは習慣化したキリスト教理念にたいして古代ギリシャ・ローマの原理導入を始め、ルターの宗教改革は習慣化したカトリック教会の免罪符販売にたいして聖書原典の確認を始めましたが、イギリスでは習慣化した土地利用にたいして新たな囲い込み体制が始まったわけです。

そうした社会的な混在状況からは、イタリアの国家理性、ドイツの歴史主義、イギリスの市民革命や保守思想(バーク)が現れ、イスラム圏とは異なった今日に及ぶ西ヨーロッパの台頭になったと考えられます。