私と英語そしてスペイン語 | 北加発:アメリカ合州国、教育、人々、その他、なんでも

私と英語そしてスペイン語

私は日本人としては、少数派で、高校を卒業する時点までに、英語での聞く、話すが普通の人にくらべれば、少しできました。いまでもあるかも知れませんが、研究社のアメリカ口語何とかという教科書の上級を済ました程度です。


たまたま私の高校には外人の先生数人がいて、数学IIIはこの一人に日本語ででおしえられました。彼らとの日常的な接触が私に当たり前のことを教えてくれました。それは”顔つきや言葉が違っても、同じ人間なんだ。”という事でした。小田実さんが”人間皆、ちょぼちょぼや”といっていますが、私には幸いにも若い時の皮膚感覚としてこのことを理解できる機会があったと感じます。


大学に入ってから、’英会話”のクラスをとりましたが、同じ教科書の入門からだというので、やめました。ちょっとESSというところを覗いたこともありましたが、この人たち何してんだ、英語が話せりゃ、中身がなくても良いのか、ちょっと逆じゃないという印象をもったものでした。


私にとっての英語は単なる道具です。言いたいこと表現するためには、言葉がいる。そのためにその言葉を習うという事だけです。今はどうか知れませんが、私の若いころには、英語を話せるという事がある種のステータスになったり、大げさに言うと、アメリカ人(白人)になりたいという願望の一部が満たせるという錯覚があったような気がします。文化コンプレックスの裏返しといった

ところでしょうか。いまはどうなんでしょうか?


仕事でスペイン語を話す人たちと20年ぐらい毎日すごしました。必要にせまられ、夜学校にいきスペイン語の授業を受けて、1年の内には、仕事にかんする事にはスペイン語での不自由を感じなくなる程度は出来るようになりました。なにしろ、一日8時間の言語生活はスペイン語ですから

毎日上達します。0から始めるスペイン語でも毎日彼らと顔を合せ何とか言わなくちゃと言う日が続きました。この時は、習いたての語彙と言い回しを駆使してどんどん言うということをしていました。ジョン万的な経験でした。しかも彼ら先生たちは辛抱強い、何度でも分かるまで同じ事を言ってくれる、聞いてくれる、これは、助かりました。


私のとっては、スペイン語も英語と同じく、意思を伝達するための道具で必要なことが相手に伝わればいいのです。したがって、私のスペイン語には偏りがあり、昔の仕事の分野、日常の会話程度はできますが、学術的な話はできません。スペイン語では夢はみません。その程度です。でも例えば、メキシコに行きスペイン語だけで、その土地の人と仲良く生活できるとは思っています。まぁ将来必要になれば、その学術分野の語彙の勉強をまた、します。