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弁護士法人FAS淀屋橋総合法律事務所のブログ

大阪市中央区北浜の、弁護士法人FAS淀屋橋総合法律事務所のブログです。所属弁護士によるニュース解説や、日々の暮らし、ご家庭、お仕事にまつわる法律問題などを取り上げるほか、所員による書評や趣味の話、付近の町ネタ、グルメ情報などお伝えしていきます。

 2023年11月、私は、ソウルで開催された労働者大会に参加するため、訪韓した。

 労働者大会は、当時22歳だった全泰壱(チョン・テイル)青年が、縫製工場における劣悪な労働環境の改善を求めて焼身決起をした1970年11月13日を記念して催される、全国の労働者たちが一堂に会する大規模集会である。

 韓国には、労働組合の全国組織として韓国労働組合総連盟(韓国労総)と全国民主労働組合総連盟(民主労総)の二つの組織があり、両労総が各集会を執り行う予定であったところ、私が参加した労働者大会は後者が主催した方になる。

 そして、今年は韓国の労働組合法が画期的な変容を遂げようとしていたところであったため、労働者大会も熱気を帯びることが予想されていた。韓国の労働組合法はその構成が日本の労働組合法に似てはいるものの、司法判断の集積により、韓国ではより(日本でも十分とは言えないが)背景資本への追及が制約を受けており、さらに、労働争議を行う労働者に対する企業からの過度な損害賠償請求が容認されがちであるという現実がある(より打撃が大きいのは、裁判所がその損害賠償請求権を被保全権利とした仮差押を認めことであるそうである。)。したがって、今春、民弁労働委員会の弁護士が中心となり、下請け労働者に対する元受け企業の責任を強化し、労働者に対する企業の過度の損害賠償請求を制限する内容を盛り込んだ労働組合法の改正案が国会に提出され、そして、それがなんと今年11月9日に通過していた。したがって、大統領が拒否権を行使さえしなければ、念願の法改正が実現することになっていた。

 そのような国会情勢と時期を合わせたかのように、今年の労働者大会は2023年11月11日土曜日の午後2時から行われることになっていた。ただ、労働者大会の開催場所については直前になるまで連絡が来なかった。移動手段等を計算しないといけない旅行者からするとやきもきするところではあるが、きくところによると、韓国の集会の場所というものは、いつも直前に決まるのだそうだ。警察許可の問題なのか、反対派との抗争を気にしているのか、その理由はよくわからない。大会の前日、ようやく集会の場所はソウルの西大門交差点であるという連絡が入った。現代日本の感覚しか持ち合わせていない私は、交差点で集会をやるという発想に新鮮さを感じた。

 当日の集会前、私は民弁(「民主社会のための弁護士会」という韓国の弁護士団体の略称)の若手弁護士である林藝智さんと一緒に昼食を食べていたところ、彼女から韓国の集会は反対派との抗争も激しいから気を付けるように、という忠告を受けた。「反対派も集まるために道路使用許可が必要ではないのか」と聞くと「必要である」とのことである。「警察は許可をするのか」と聞くと、「許可を出す」とのことである。これは日本の警察と大きな違いである。日本の警察は、一つの集会、街宣、デモの開催予定があると、その周辺で別の催しを絶対に許可してくれない。大勢が集まる催し同士が隣接すると人との流れが混乱するし、相対立する集会同士が隣接すると騒乱が起きるからだ、という理由を説明される。一度、私が企画した街宣が、大規模交差点の対角関係にある場所で他の団体と重複したことがあった。集会主催者同士は事前了解が得られていたにもかかわらず、警察署(曽根崎)が頑として許可を出してくれず、辟易したことがあった。そのことを林弁護士に話すと、韓国では表現の自由の一環として集会の制限はなるべくしてはならないということになっているから、他団体の存在を理由に警察は制限をかけられないとのことである。騒乱が起きれば介入をするが、それに至る前は両者の表現の自由の範囲内で社会にそれぞれの主張を訴えかけることを認める、というやり方は極めて真っ当ではないだろうか。さらに、韓国では、今まで集会の音量を規制する法律があったが、民弁の弁護士達の尽力により、数年前にその音量制限が撤廃されたとのことである。その結果、集会のサウンドは極めて大音量だとのことである。制限がないとその自由に気が付かないのであるが、そういえば日本には音量制限がない。しかし、日本においては音量規制がない利益を、どちらかというといわゆるヘイトスピーカー側が享受しているきらいがあり、なぜか街中でヘイトスピーチが大音量で流れるという現象が発生している。2022年に開催された神戸の「表現の不自由展」に参加した際、全国から集まった反対派の街宣車のスピーカーの音量には辟易したものである。

 


 さて、いよいよ集会に参加するため、会場に近づくと、まず目に飛び込んできたのは建設現場にある足場資材を用いて入念に組み立てられた特設の大きなステージと、その上に設置された大きなモニターである。そして、そのモニターの両サイドには大きなスピーカーがわざわざクレーン1台ずつを用いて吊り下げられている。また、モニターには各編集された動画だけではなく、会場の参加者の様子も映し出されているのであるから、会場のあちらこちらにモニターと接続したカメラが設置してあるということになる。そして、そのステージ前には、全国から集まってきた労働組合の方々が列をなして並んでおり、あまりの数の多さに最後尾を確認することができない。労働組合ごとに上着、鉢巻、帽子、そして旗が異なるから、その色合いもあざやかである。また、道路上で行う以上、参加者の参加形態は長い列の形になるため、それに配慮をして、約500メートル置きに、集会先頭と同様にモニター及びスピーカーが設置されている。私は、このような機材をふんだんに用いた集会を見たことがなかったため、これらにいくらかかるのかあちこちに聞いたが、誰も明確な回答は持っていなかった。そもそも労働組合にそれだけの資材やスキルがあるのか、イベント会社に丸投げをしたらすっかりやってくれるのか、資金はどうやって集めるのか、そのあたりも気になったが企画した人たちに聞かないとわからない。ただ、後から聞いた話によると、労働者大会に参加する人たちの費用に関しては動員費などが支給されるわけではなく、すべて自腹でバスを用意して地方から参集するのだそうだ。それだけ、目的意識が高いということなのか、当然というべきか。

 


 そして、集会自体の内容についてであるが、女性のスピーカーと歌の多さが印象的だった。スピーカーが女性というだけではない、演説がまた力強いのである。私は韓国語がさっぱりなので具体的な演説内容は分からなかったが、その口調から、大勢の前ではっきりとわかりやすくメッセージを伝えるということに慣れている様子を感じた。歌が多く、そして歌が大人数かつ広範囲の集会でそれなりに盛り上がることができるのも、巨大な音響装置のおかげなのであろう。

 その後、午後4時前後からデモが出発した。大統領府に行くデモ隊と、労働庁に行くデモ隊に分かれていたようであるが、数万人の人数でデモをするのであるから、出発だけでも相当の時間がかかった。デモの行進中、機動隊様の人たちが整然と道路沿いに並んでいるのは目にしたが、日本でよくある「4列で歩いてくださいね!」などといった警察の声かけや、保育園の遠足の見守りかのごとく周囲をうろうろされることはなかった。デモはシュプレヒコール中心ではなく、デモコースの途中途中には定期的に合唱団や打楽器団が配置されており、盛り上げてくれていた。

 


 デモ途中、林弁護士から聞いていたように、プラザソウルホテルの前で、韓国で保守派と称される集団がこちらのデモに対して抗議をしているのを目にした。何人かの人はアメリカの星条旗を掲げていた。しかし、こちらの数万人もの人数に対して、彼らは100人前後にしか過ぎず、その抗議の声はこちらに全く届かなかった。

 最後、ソウル市役所前の交差点でデモはお開きとなった。急遽デモのゴール地となったその場所は、いきなり通行止めになったようで、周囲では自動車がクラクションを鳴らして怒っていた。しかし、私たちデモ隊はそれらをものともせずに演説を聞いていた。後から聞いた話だが、本当はデモのゴール地点はもっと先にあったにもかかわらず、時間の関係か交通の問題か、警察が進行を阻んだのだという。一見は日本に比べて韓国の警察は道路上の集会の自由に理解があるように見えたが、実際にはそれなりの強権的な捜査機関としての性格をまだ色濃く残しているとのことである。

 翌日、ソウル市内にある全泰壱記念館を訪問した。全泰壱は、17歳のときに平和市場の縫製工場で勤務を始めたが、そこでの労働環境が悲惨であることを目の当たりにした。低年齢の少女達が低賃金で長時間労働に従事させられていた。全泰壱はその環境をどうにかすべく、組織的に労働運動をはじめ、労働実態の調査と労働基準法の適用を求めていった。しかし、労働条件はなかなか改善しない。そこで、全泰壱は労働基準法火刑式を取り行うことを決心した。ところが、式当日に警察等が解散させようと介入してきたため、全泰壱は自らガソリンをかぶって焼身決起を図った。当時22歳であった。これが1970年のことである。その後も長いこと労働運動は弾圧を受けてきたが、民主化運動による軍事独裁政権の終焉を経て、1987年に労働3法が改正され、労働運動が活発に行われるようになった。ただ当時は、まだ各種規制が強く、第二労働組合結成の禁止や企業内労働組合に限定するという制限などが存在した。しかし、1995年に民主労総が結成されてから、積極的に産業別労働組合への転換が進められてきた。それからさらに30年近くがたった韓国労働運動の風景が、私が前の日に見た労働者大会であり、そして、労働組合法の改正作業が行われている国会情勢なのであった。対して、日本の労働運動は、戦後当初は産業別労働運動が広がりを見せたかのようだったらしいが、大きな産業別の組織が解体分断した結果、次第に企業別労働組合が主流となり、21世紀に入ってから労働争議を目にする機会は大幅に減少した。全泰壱記念館の展示を見ながら、日本と韓国はどこで分岐点が異なったのかを考えざるを得なかった。

 その夜、韓国でずっと労働運動に従事してきたナムさんという方の話を伺う機会があった。そこでさらに、日本でも実現したらいいと感じた特筆すべき点が2つあげる。一つは、組合専従の話である。韓国では、軍事政権の時から、金の交付と独立性の問題は別の次元であるととらえられてきた。したがって、政府から労働組合の組織に国家的予算が配分されることもあるし、それと同じ論理で、使用者が実質的に組合専従者の賃金を負担することも組合の自主性を害さないと考えられている。ナムさんからは労使交渉の大きな柱は組合専従を勝ち取ることにあるとの話も聞いた。日本では、組合専従の費用を会社が負担をしている場合、それだけで(形式的に)組合の自主性が損なわれていると判断されるが、組合活動の専従者の重要性に鑑みて、専従者の費用負担の問題と自主性に関する判断は変えていくべきなのであろう。

 もう一つは、韓国で産業別労働組合が組織されてきた経緯・背景を聞いたところ、「その変化を余儀なくされてきたのだ」というナムさんの説明である。労働運動を本気で展開しようと思ったら、結局、労働争議や企業の倒産などにより解雇される労働者の受け皿を作っていかないとならない。そのためには、個々の企業別に対応していては埒が明かず、産業界一体として労働条件交渉をしていかないとならない、という必然的な帰結にたどり着くということである。日本においても、企業内労働組合制度をやめ、企業外で労働組合を立ち上げたうえで産業別・業種別に組織化することが可能であれば、労働運動の停滞からの脱却にまだ間に合うのかもしれない。

 そんなこんなで韓国訪問を終え、韓国の労働運動に圧倒されながら岐路についた。帰りの飛行機では、かねてよりの宿願だった、日本から韓国に留学に行っている間にスパイ容疑で投獄された李哲さんの『長東日誌』を読んだ。李哲さんと刑務所の中で出会った人たちのやりとりから、軍事独裁政権下における民衆の確固たる「闘争」の意思が伝わってきた。韓国の民主化を求める激しい闘争と労働運動の発展というものは、実は熾烈な軍事独裁政権によって生み出されたものなのかもしれない。そんなことを思いながら大阪に帰ってきた。そんな韓国でも、若者の政治離れや労働組合の組織率は低下していると聞くから、「平和」下においては、よほどの不断の努力を続けないと「闘争」の精神は維持できないということなのだろう。

 12月1日、尹大統領は労働組合法の改正案に拒否権を行使した。

 

弁護士 上林 惠理子