九州の一揆征伐以来たいした戦もなく、ただただ検地など政策を行う事が多かった。
石田治部は水口城主となっていたが、ほとんど京で政務を行っていた。
昨月、敦賀城主であった蜂屋頼隆殿が亡くなった。
頼隆殿には子がなく、蜂屋家は断絶となってしまった。
私は、いつもと違った様子で出仕を命じられ、正装して聚楽第へと向かった。
そして、殿下に越前敦賀五万七千石を頂く事になった。
私にも城が与えられたのだ。
敦賀はその町こそ良く知らないが、郷里の近江にも近く、また、琵琶湖の西を通れば京に出るのもすぐである。
敦賀領は、蜂屋殿が敦賀に城を建てるまでは、金ヶ崎に城があった。
そこは殿下の思い出の地である。
私が殿下に仕える前の話ではあるが、朝倉・浅井の挟み撃ちに遭った織田軍が、殿下の軍を殿として退却をした。
殿下が織田家の中で認められ始めたのもこの頃からだったという。
私は城主、そして領主として、殿下のため、領民のためにこれからも尽くしていかなければならない。