小田原を降服させた後、殿下の軍は会津へと向かった。

 そこで、小田原攻めに参陣しなかった葛西、大崎、石川、白河といった者たちの所領と、期限に遅れた伊達の会津、岩瀬、安積の三郡を没収した。


 その後殿下は京へお戻りになったが、我らは奥州に残り、検地を致すことを命じられた。

 私は、上杉景勝殿の軍監として出羽の検地を任された。

 検地の内容は畿内をはじめとした他の地域で行っているものと変わりがないが、この新しい方式についていけない者たちも多く、難渋する事が予想された。

 とりあえずは指出をもって検証する事にし、さらに、現地旧来の単位による計測を認めた。

 しかし、記帳の際にこれを全国の基準に換算し直す事にした。

 これが、なかなか手間のかかることであり、数を改ざんしているのではないかといった不安のの声も出てきた。


 尾浦というところでは一揆も起きた。

 三千の一揆勢が尾浦城にいた代官を取り囲んだ。

 私はすぐさま駆けつけ、鎮圧する事に成功したが、この時、上杉家の家老である直江兼続殿の兵さばきと処置は素晴らしかった。