関白、豊臣秀次様が高野山に蟄居、次いで切腹を命じられた。

 こんなことが起きてもいいのかと思いながらも、起こるべくして起きた事だとも思える。

 私が想像していたより早く起きたとはいえ、耳を疑うことはなかった。


 戦地における講和派と抗戦派の対立の火種は戦の前から京にあった。

 石田殿や小西殿には敵が少なくない。

 加藤殿や福島殿は公然と石田殿を否定していることもある。

 しかし、石田殿は人前でそのようなことを口に出すことはない。

 それでも、彼は殿下に直接申し上げることが出来るのだ。

 そこで何を言っているのかはわからないが、それが余計に気に入らない方々が多いのも事実である。


 この対立はいつしか北政所様と淀様を巻き込んだ対立となり、豊臣家を二分した争いとなってしまっている。

 今回の事件もその一端であると考えられる。

 淀様や石田殿の一派が拾い丸様を関白にするため、秀次様を追い落としたのだ。

 しかも、その子が見つかる事のないように徹底的に可能性を排除したとも聞いている。

 この事件に連座する人も少なくはないだろう。

 外から見れば、豊臣家の行く末を案じさせるだけの後味の悪い事件である。