戦の中多くの人足を要し建設された伏見城は、地震によって脆くも崩れたらしい。

 前年、聚楽の第を徹底的に破却した後だけに、太閤殿下の自慢の建造物が相次いで破壊されたことになる。

 聚楽の第は秀次殿の切腹にともない殿下の命令によって壊されたものであるが、此度の地震はその因果であるとの噂も既にあるようだ。

 私は実際現地にいたわけではないが、造られたばかりのあの美しい城が崩れていく様を想像するだけで切なさを感じることが出来る。


 この地震の際、最も早く伏見に参じたのは加藤主計頭殿であったと聞いた。

 彼は、伏見の屋敷に謹慎中であった(私はその事実も知らなかった)のだが、変事に際し、門を出て伏見へと向かい、殿下を護衛したとの事である。

 この功により謹慎を解かれたということだが、そもそも謹慎自体、石田殿小西殿などの講和派による讒言が原因だという見方もあるようだ。

 加藤殿を中心とするといっても良い抗戦派と講和派との対立を考えれば充分にありうる話である。

 既に明の使節が殿下に拝謁する用意がなされている。

 そうした中、戦の中心にいて正直に戦況を殿下に伝える可能性の高い加藤殿は石田殿、小西殿にとっては邪魔な存在とも言えるのだ。

 しかし結局、加藤殿は謹慎中であるにもかかわらず、殿下に上奏する機会を与えられた。

 これはさすがの石田殿も予期し得なかったことであろう。

 殿下は今まで聞かされていなかった多くの事実をはじめて耳にしたことだろう。

 それを全て信じるとまでにはいかなくても、講和派の行動に疑問を持つだけでも、講和を結ぶことが難しくなるに違いない。