北条を攻めるための出陣命令は、京より東側にいる大名に対しては例外なく発布された。

 関白殿下に一度として謁した事のないものも同様である。

 その中の一人に伊達政宗という男がいた。


 関東に惣無事例が出された後も、東北を攻め回り、長年上杉と睨み合っていた会津の芦名家をも攻め、芦名義広を会津から追い出した。

 その伊達にも当然、小田原に来るように命令があったのだが、なかなかその姿を現すことは無かった。

 諸侯にも動揺が走り始めていた。

 なぜなら、伊達が小田原に来なければ、北条征伐の後、その軍がそのまま東北に向けられるのは必然だからである。


 しかし、来た。

 鉢形城を攻めていた我らにもすぐさまその報は届き、景勝様を残し急ぎ小田原に来るように命じられた。


 伊達政宗、どんな男かと思っていたが、なかなかの男である。

 髪を切り、白装束で現れたその男は今にも切腹をしかねない様子で関白殿下の前にひざまずいた。

 それを関白殿下は、いつもの大声で「よく来られた」と答えた。

 その瞬間、その場に張り詰めた緊張感は解けたが、狐につままれたような思いを持った人たちも少なくないだろう。

 とにかく、伊達政宗の命は赦され、関白殿下の東北征伐は未然に防がれた。

 大道寺政繁が守る松井田城はやはり簡単には落ちなかった。

 前田、真田、上杉の連合軍であったが、逆にそれが機動力を落とし、思うような作戦に直ぐ取り掛かることが出来なかった。

 結局、周囲の城を落として松井田城を孤立させつつ、糧道を断つ作戦が取られた。


 松井田以外の周辺の城、砦はいとも簡単に落ちた。

 金山城や足利城などは、攻める前から投降してきた。

 上杉ともよく争った北条の上州勢がこれほどまでに腰抜けになっていようとは、寂しい思いこそ湧いてくる。


 とにかく松井田城は一瞬のうちに孤立無援となった。

 もちろん大道寺は、これで降伏するような男ではない。

 再び松井田城を攻めることになった。

 今度は、攻め口を分担制にすることで各軍がそれぞれの作戦で戦うことが決められた。


 成果を挙げたのは真田軍である。

 松井田城の水源を断ち、それによって大道寺が降服を申し出たのだ。

 城兵は助命、大道寺親子は小田原についてから関白殿下の沙汰しだい、そして、今後小田原までの先導軍となることで条件がまとめられた。


 真田信繁は見違えるほど立派な男になっていた。

 関白殿下の命を受け、本日春日山城から出立する。

 多くの諸侯は駿府城に集まるよう命じられている。

 しかし、上杉軍は駿府に向かうのではない。

 前田、真田らと共に東山道の諸城を攻略して小田原に向かうようにとの命令である。

 その最初の目標は上州松井田城だ。

 松井田城は碓氷峠の麓にあり、城兵は二千余と聞いているが、攻めるのは簡単ではないだろう。

 城を守る大道寺政繁もまた、北条家の草創期から仕える家に生まれた勇将である。


 我ら東山道軍は真田の上田城に集合することになった。


 実は我ら上杉の出立は他の諸侯達より早い。

 前田殿をはじめ、ほとんどはまだ居城に留まっている。

 これにはわけがある。

 ひとつは上杉に反意がないことを示すためである。

 また、もうひとつは景勝様が真田の次男信繁に会いたがっているからだ。

 信繁は二年程春日山で人質として過ごしたが、その後京に移された。

 関白殿下が希望したからだ。

 そこで、久々にゆっくり話がしたいなどと景勝様は希望した。

 景勝様が自分からそのようなことを言い出すのは珍しいことであり、実行されることとなった。

 私も実は楽しみにしている。

 真田昌幸。

 信州上田に居を構える男である。

 以前、真田が北条、徳川と戦うというので上杉に協力を求めてきたことがある。

 協力とはいえ、真田は次男源二郎を人質として出す覚悟でもはや上杉に降ったといっても良い状態であった。


 真田がそこまでする理由は何か。

 上州沼田領である。

 真田も北条も自らの領分であるといって聞かないのだ。


 北条と婚姻を結んだ徳川も真田に対し、沼田領を北条に引き渡すよう命令し、戦になった。

 その後、上杉を通じ関白殿下に従うこととなったが、この沼田問題について関白殿下はなんともいえない結論を出した。

 沼田の城は北条に、それ以外は真田のものと決まったのだ。


 さらに問題は続く、沼田城に入った北条勢が、それ以外であるはずの名胡桃城を攻め取ったのだ。

 真田は堪えて、関白殿下に訴えた。

 北条には詰問状が出された。

 しかし、まともな返事は返ってこなかった。

 そして関白殿下は北条に対して手切れを通告した。

 関東攻めの戦がはじまることは明らかであった。

 佐渡攻めは一月を必要としなかった。

 羽茂高持、佐原利国ともに敵ではなく、最も強力に抵抗していた本間高茂も島から逃げ出す有様であった。

 まあ、千数百隻もの舟で挑んだのであるから当然のことではある。


 この戦はあくまで関白殿下に背く者を上杉が討伐するというかたちをとらざるを得なかった。

 それによって上杉による佐渡の領有は認められた。

 しかし石田殿を通じ、佐渡を一城で治めるようにとの命令も受けることとなった。

 それによって、佐渡を治める責任者は一人、それも信頼の置けるものではならなくなった。


 誰を佐渡に置くかは頭を悩ませる事案となった。

 そして、佐渡の代官は黒金安芸守、補佐役には青柳隼人、残りの者も皆、景勝様が家督を継ぐ前からの直臣と直江の家に使えるもので占めた。

 もともと佐渡にいた者は、今回の戦に協力したものも降伏したものも皆、島ではなく越後の本土で領地を与えた。

 ある程度の反感は覚悟していたのだが、もはやそれを口に出して言える者などいなかった。

 ついに景勝様が名実ともに越後を統一することが出来たのだ。

 越後に戻って来たが、やらなければいけないことは既に決まっていた。

 それは佐渡の制圧であった。

 不識院様が在世の頃は佐渡の豪族たちも上杉に臣従するかたちを取っていた。

 しかし、景勝様と御館の景虎殿が争うようになった時に日和見をはじめ、次第に独立していった。

 上杉に従わないということは、関白殿下にも従わないということである。

 いつ豊臣軍が佐渡を攻めてもおかしくない。

 というよりも佐渡の金山を関白殿下に狙われる可能性は非常に高い。

 そうなる前に、佐渡が越後の一部であるということを示す必要があった。

 関白殿下ご公認の下、佐渡を攻める。

 それは石田殿の口添えもあり、比較的簡単に認められた。

 認められたからには早くそれを実行しなければならない。

 越後の発展のためには、佐渡の金山は必要不可欠である。

 景勝様と私は、未だ京に留まっている。

 もっと中央の動きを見なければならないと思ったことも事実だし、豊臣様にゆっくり滞在するようにと言われていることも理由である。

 京にいるからには寺を巡り、名のある和尚たちと話がしたいと思った。

 このような時代だからこそ、冷静に時勢を眺めている彼らの話を聞きたかった。


 妙心寺の南化和尚と豊光寺の承兌和尚と話が出来た。

 この二人、面白いことに考え方が違う。

 南化和尚は反権力主義者で決して権力にこびることはない。

 それに対し、承兌和尚は権力に近づくことで、その教えをより広めようと考えておられる。

 どちらがいい悪いという問題ではないのだが、私は南化和尚に好感を持った。

 そして、妙心寺に何度か足を運んだ。

 どんな話をしたのかは、断片的にしか思い出せない。

 しかし、はっきりと心に決めたことがある。

 越後の民を大切にし、そのために私は働くのだ。

 越後を京以上に豊にしたい。

 その思いが私の中で強くなった。

 我らは京に着き、豊臣様に拝謁した。

 もはや断る事などできない状況であったのだ。


 三日前、京に着いた日に早速石田殿が見えた。

 近江に一万石と一条に屋敷を建てる土地が与えられた。

 これは、すなわち人質を置けという命令である。

 こうなることは私にも景勝様にも解っていた。

 しかし、我らは今回、人質を連れては来なかった。

 人質を出す事に不満があるというよりも、自ら進んで出す事に耐えられなかった。

 豊臣秀吉様からの命令を受け、はじめて人質を出すというかたちにしたかった。


 聚楽の第には豊臣家に既に臣従している諸侯の姿も見受けられた。

 景勝様は、豊臣様に勧められた座に一瞬躊躇った。

 前田利家殿より下であったからだ。

 しかしそれでもその座に座らないわけにはいかなかった。

 私も座の末席に着かされることとなった。


 諸侯の名乗りが終わると、豊臣様が言った。

 室にも京の有様を見せるが良い、越後の冬は寒いであろうからそのまま京に住まわせてはどうか。


 冬はどこに居ようが寒いのだ。

 それでもこれは命令にほかならない。

 太政大臣豊臣秀吉様が造営されたお屋敷『聚楽の亭』に帝が行幸されたらしい。

 帝が行幸なされたのであるから、上杉も来い。

 そう読み取れる書状が豊臣様から直々に送られてきていた。


 昨年、新発田を征伐した一月余後に関東と奥州に惣無事令が出された。

 我らとしては、何とか間に合ったと胸をなでおろしたものである。

 その後の上洛の催促であるからには、領国の安全を太政大臣豊臣様が保障しているのだから断る理由などないだろうといった思いも見えている。


 私個人は、京に行きたいと思っている。

 都にはまだまだ学ぶものもあり、また、中央の施政を見ることは今後の越後のためにも有益である。

 だが、景勝様はそうではないらしい。

 やっと越後の治政を本格的にできるようになったところなのに、なぜわざわざ京まで行かねばならぬのか。

 一昨年大坂に行って秀吉には頭を下げてきたではないか。


 それも一理あると思ったが、やはり、従うと決めたからにはとことん従わねばなるまい。

 どうにか景勝様を説得して、上洛が決定した。

 ようやく新発田重家を自刃させることができた。

 上杉軍は、一万騎以上の軍勢を持って新発田に攻撃を行い、加地城、赤谷城を落とした。

 残る五十公野城と新発田城は、孤立し、もはやその防衛能力もたいしたことは無かった。


 やっと越後を統一することができた。

 これで、ひとつ落ち着くことができそうだ。

 しかし、この越後をこれからは統治しなければならない。

 主だった敵もない中では、分裂して反目するのを最も避けなければならない。

 家中の思いをひとつにし、また、領民に対しても正しく統治せねばならない。

 豊臣や石田に付け込まれるようなことは避けていかねばならぬ。


 これからは統治者としての力量が問われる。

 必ずや、越後を素晴らしい国にしてみせる。