沖縄に住む、現在42歳になる男性(U男さん)から体験談が寄せられましたので、紹介します。
強迫性障害→抗うつ薬→自殺願望→セレネース→入院
そもそもの精神科とのつながりは、U男さんが25歳のときに、強迫観念(恐ろしい言葉が繰り返し浮かぶ)と脅迫行為(手を決まった方式で洗う。頻繁にタオルで手を拭く)に悩まされた結果だが、それ以前から、U男さんはこんな状態にあったという。
「高校入学と同時に、感受性の減退し続ける感じを持ち、卒業の頃には離人症のような現実感のない状態になっていました。強迫観念はその頃から出始めました。
仕事には就かず、一時期のバイトや、たまに友人と会って遊び、普段は家にいるような生活でした。非常に恐ろしい連想を伴う、テレビで聞いた言葉が常に浮かんで来るので、友人と談笑していても、家族と食事をしていても、常に内心で怯えていました。」
そして、25歳で精神科クリニックを受診すると、強迫性障害との診断。抗うつ薬(三環系 アナフラニール)とレキソタン(ベンゾ系抗不安薬)の処方を受けたのである。
夜、その薬を飲み、翌朝目覚めると、たった1錠で……、
「劇的に効いていて、世界が地獄から天国になったようでした。性格も大人しい性格から社交的で積極的な性格に激変しました。憧れていても出来なかった社交性や積極性が楽々と発揮出来ました。後から考えると、実は躁鬱病的な体質を持っていて、薬の作用で躁転したんじゃないかと考えています。」
その後、抗うつ薬はSSRIの認可とほぼ同じ時期、アナフラニールからルボックスに変わった。
4年ほど服薬を続けていると、今度は、自殺願望が出てきた。主治医に告げると、医師は「困りましたねえ、薬でボーっとさせるしかないですね」と言い、新しい薬を処方。後で調べると、それは抗精神病薬のセレネースだった。
長年、抗うつ薬で別人同様になり、無理をしていたことと、セレネースの副作用のソワソワ感で軽いパニックに陥り、知り合いのカウンセラーに頼んで精神病院を紹介してもらって、2ヶ月弱、任意入院することに。病院では、薬の量も種類も増え、25キロ太ってしまったという。
統合失調症型人格障害
その後、U男さんはセラピーを学ぶため知人とインドに渡った(医師には英語で処方箋を書いてもらって、インドでも薬が飲めるように手配した)が、疲労困憊、結局10日で帰国することになった。
しかし、その後は病院に戻らず、手持ちのルボックスを少しずつ減らしていった。が、どうにも耐え難い状態になり、再び、最初のクリニックに相談に行った。
U男さんとすればそのとき非常な「生きにくさ」を感じていて、医師にも「生きにくさを解決したい」と訴えたが、今から考えると、その生きにくさの正体は、抗うつ薬による無理な頑張りから降りられないことによる疲労感と、ルボックスが切れたことによる禁断症状だったと思える。
しかし、医師はU男さんの言葉を聞くと、自信ありげに「わかりました、任せてください」と胸を張り、セロクエルを処方した。
結局、副作用で、U男さんは1日に20時間以上も眠るような状態に陥った。
セロクエルを処方されながらも、医師からは診断名をはっきり告げられることはなく、それとなく尋ねると「まだ解明されていない病気だ」と答えたり、別の機会には、「統合失調症ではない」と言ったり、またU男さんのほうから「強迫性人格障害ではないか」と尋ねると「違うと思う」と答えたり、どうもはっきりしない。
そんな状態で数年が経った頃、自立支援法の手続きで医師に書類を書いてもらったとき、U男さんはそこに「F21」という文字を見つけた。ネットで調べたところ、それはICD-10の分類で「統合失調症型人格障害」であることがわかったのである。
統合失調症型人格障害というのは
名前からするといかにも統合失調症と関係があるように感じられるが、まったく別物である。
にもかかわらず、処方は抗精神病薬のセロクエル(最終的には750㎎まで増やされた)である。その他、デパケン、ベンゾジアゼピン(さまざまなものをとっかえひっかえ)、抗ヒスタミン剤抗パ剤のヒベルナをU男さんは5年間飲み続けたのだ。
セロクエルの副作用は20時間以上の睡眠の他にも、ひどい状態になった。例えば――、
「脳が葛藤し、頭の中で興奮と沈静が喧嘩をして、難しそうなアインシュタインの方程式の意味とか数学の難問が寝る前に浮かび、そのまま気絶するように寝るというような感じでした。
やがて机の上の小物が四つ以上数えられなくなりました。四つ目を数えた時点で一つ目が何処だったか分からなくなります。同様に自分の思考や会話や視野の把握範囲も狭くなり、思考や会話が困難になりました。」
その後、体調がすぐれず(原因不明の腹痛が続いた)漢方薬を使える内科の医師にかかり、その医師から「抑肝散で抗精神病薬を減らすことができる。精神科の主治医に手紙を書いてあげる」とU男さんは提案された。しかし、その頃は「薬で精神がノックアウト状態、判断力がゼロに等しい状態だったので」断ってしまったという。
しかし、漢方薬による体質改善を始めた。それが2005年のことである。
インスピレーションが来て、減薬に取り組む
そして2007年の1月。U男さん曰く、
「頭では出来る訳がないと考えていたのですが、(薬によって)思考能力が落ちた隙にインスピレーションが来て、(漢方内科の医師の協力も得ながら)減薬を開始しました。
ベンゾジアゼピン系は12年間常に飲んでいたので、1ヶ月で白髪の塊が出来るほど苦労ました。結局8ヶ月で全てやめました。早過ぎたと言えば早過ぎでした。」
インスピレーションとは、テレビで沖縄県が舞台のドラマを見てのことだ。
「こんな美しい島に数時間もいれば、家で20時間も寝ているよりもよっぽど心身が癒されるんじゃないか。その思いを家族に話しているうちに、精神が活性化して、そうだよ!こんな薬を飲んでいちゃダメだよ! と確信しました。
自分は人格障害者だから、薬を飲んで一生大人しく無事に生きてひっそり死ねば安泰だと思い込み、全てを諦めていました。もう自殺と分からないように、表面上長生きだけして死のうと。しかし、どうせ死ぬなら、死ぬ前に一個だけこれ(減薬 断薬)を命がけでやってみたいと、その時に思いました。」
しかし、減薬はやはり「白髪の塊」ができるほど厳しいものだった。精神科の主治医にも薬をやめたいので協力してほしい旨伝え、(もし協力が得られないのであれば、精神保健福祉士を通して別の医師を紹介してもらうつもりである)とU男さんはいつになく熱を込めて話した。
「その時の情熱に反応したのか、いつからか生気をなくしていた医師の顔が、初診した十年前のように一瞬若返ったのが印象的でした。医師はベンゾジアゼピンは多分もう効いていないから、これは減らしても大丈夫でしょうと言いました。」
じつはそのクリニックには、ベンゾジアゼピンの離脱症状を警告するチラシが置かれていたが、医師は認識不足だったのか、あるいは12年服用ということであきらめさせるつもりだったのか、そのことについては一切触れなかったという。
減薬は1週間に1錠ずつ減らしていったが、今まで体験したあらゆる自律神経失調症や恐ろしいイメージを伴った非常に強い不安感や恐怖感に襲われた。夜は眠れず、息は苦しく、筋肉は引きつって痛み、唾も飲み込めなくなった。性急過ぎたかもしれないとU男さんは思った。
そして、1ヶ月後、医師に会い、報告すると、「じゃあ少し増やしましょう」と心配げに提案してきた。それまでは、性格的に、非常に従順な態度しか取れなかったU男さんだが、この時ばかりは怒りをにじませて拒絶した。これまでの苦労を水の泡にしたくなり一心だった。
それからはもう医師を当てにするのはやめて、自分なりに薬の特徴、効き方を勉強し、どの薬を先に減らせば効果的かを考えながら減薬を進めていった。
1月から始めた減薬はその年の10月に完全断薬に至った。最後に残したのはセロクエルとデパケンだったが、デパケンを減らしたとき、感情が爆発して家具に穴をあけるようなこともあったが、何とか乗り越えた。
「失敗したら、半ば発狂して、死んだり殺したりもあり得ると思っていたので、本当に命がけで全力で取り組みました。」
また、断薬後は、回復に向けていろいろなリハビリも実行した。例えば早歩き(セロトニントレーニング)や半断食など、自己流だが根気よく続けて、現在はかなり回復が進んでいるという。
セカンドオピニオンで人格障害は否定された
断薬後、 U男さんは、「統合失調症型人格障害は広汎性発達障害が誤診され得る、もしくは同じ物の別概念である」という説があることを知り、精神保健福祉士を通りして、発達障害者支援センターを紹介してもらった。そこで知能テストを受け、さらに病院を紹介してもらい、精神科医のセカンドオピニオンを得た。
結果は、「現時点で診る限り、何故『統合失調症型人格障害』と診断されたのか理解できない。『特定不能の広汎性発達障害』と言えなくもない、手帳が必要なら発行できるが、デメリットが大きいと判断するなら取らなくてもよい」ということだった。U男さんは発達障害の診断をそのときは断った。
ところで沖縄への移住についてだが、そのことについて書いているU男さんのメールを紹介する。
「投薬と減薬の体験の中で、潜在意識が丸出しになるような時期があり、関東に破局が迫っているような予感めいたものを感じていました。2011年の7月頃に移るつもりで(いたが)、震災が来たので切り上げて5月に移りました。新しい時代が沖縄などの地方から始まるので、そこに立ち会いたいというような、漠然とした気分もあったかも知れません。
また、そもそも強迫性障害という病気の原因になった親との非常に難しい関係があり、辛い思い出が多く、親もいる関東から、なるべく遠くへ移りたかったというのもあります。」
この思考のユニークさ、言葉の使い方……この部分もそうだが、メール全体ににじむ“独特”の雰囲気から、私もやはりU男さんの発達特性を感じて、彼にどのような子どもだったのかを尋ねてみた。すると、返事のメールに、実は数ヶ月前、本人が言うには、「かなり弱気な時期で、より正確な診断名についてアドバイスが欲しくなり」、発達障害を専門とする医師にメールを送り、その一部を私へも送ってきてくれた。
自身の特性について、また父母について、かなり興味深い文章なので、部分的に引用させていただく。 (つづく)