<<ブログ 319>
6.09菅総理、初の国会党首討論から素直に感じたこと
残念ながら・・・
心に感じる、心を揺らす言葉がなかった
なぜ???
総理そして野党党首のみなさまも「話す」が大半、「語る」は極小・・
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「話す」と「語る」何がちがうのか
~私の変わらない想い~ by 入道
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今回も東京秋葉原を基地として様々な形で世界への羽ばたきをされている
私のちょっとだけ?歳の離れた友達
画家の田中拓馬さんがご厚意で素敵な挿絵を画いてくださいました。
拓馬さん、ありがとうございます。
田中拓馬さんのサイトも訪ねてみてください。
http://tanakatakuma.com/
https://ttakuma.thebase.in/
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●2021年6月9日、16時から菅総理の初の国会での「党首討論」(国家基本政策委員会合同審査会)が開催されました。
●夜のニュース等で拝見させていただきましたが、「議論の歯車(目的)」が合っていない、歯車を合わせようとしていないから議論にならない」、「討論になっていない」。残念ですが今回も正直にそう感じました。
●いつものように?今回も与野党双方が、菅総理そして野党党首ともに、自分たちの言いたいことを言っているだけで、素直に今回もそう感じました。「国策(本来、与野党共通の目的のはず)を決める国会(=国の会議)の「討論」「論議」にはなってはいない」、素直に今回もそう感じました。
●しかも多分、ご自身の「想いをご自身の言葉にした」ものではなく事務局?担当の人たちが顔寄せ集めて作成した質問書そして答弁書?の「文字」を読んでいる・・・・・。
★「討論」なのですから、細かな数字等については同席している事務局などが答えてもいい、それ以外は「答弁書」なしで両者ともに「自分の想いを自分の言葉」をぶつけ合う「場」であって欲しいと感じてなりません。
★私の言葉でいきますと党首討論の「場」は「話す」のではなく「語る」「場」であって欲しいと想います。
★『話す』と『語る』。似た言葉ですが何が違う、何が異なるのでしょうか。
挿絵は田中拓馬画伯 画
●この2つの言葉に対する「私の40年来、変わらない『想い』」を記していきたいと思います。
●「話」と「語」。この似ている二つの漢字を先ずはじっくりと眺めていただきたいと思います。
●いかがでしょうか、何か感じとられましたでしょうか。
●私は、もう40年以上前になりますが、とある時にこの二つの類似の意味を持つ漢字「話」と「語」に次のような意味合いをいきなり感じとりました。
●『話』と言う漢字を左右で分解してみますと「言」と「舌」になります。
●同じように『語』の漢字を分けますとそれは「言」と「吾」。
●この勝手な分解から私の自己定義に入ります。
★「舌」は「した・べろ」で「吾」は「われ・自分」。
●こんな勝手な漢字の分解からいつものように私の勝手な解釈に入りました。
話す=舌(した・べろ)+言
語る=吾(われ・自分+言
挿絵は田中拓馬画伯 画
●私が想う二つの漢字の意味合いはここから生まれてきます。
★ふたつ共に共通なのは「言」であり、「言う」は「言葉を発すること」。
★と、すると二つの漢字の違いはおそらく「発する根本の違い」なのでは、そしてその違いを「舌」と「吾」で示しているのだと私は感じたのです。
★私の勝手な解釈・想いの結論を記していきます。
★相手(=他人)のこと考えることなく自分本位で言葉で口にすることが「話す」であり、相手(=他人)の存在を心にとめて尚且つ自分責任で自分の心を口にすることが「語る」ということ、これが私の変わらない解釈、自己定義です。
挿絵は田中拓馬画伯 画
★違う表現をしますと二つの漢字の違いは『相手(=他人)に対する思いやりの心が存在するのか』から生じてきているのかも知れません。そう感じます。
★妙な表現になりますが発する言葉の意味合い(目的?)が「自分第一(自分本位)」なのか「人間第一(人間本位)」なのかの違いなのかも、と想うのです。
◆対話での大切なこと、それは「相手の存在・相手の心を常に感じていること」だと想います。対話以外においても、何をするにしてもそのことを忘れてはだめですし、そこをきちんと意識していれば「思いやり」とか「気働き・気配り」は無意識のうちに自然と生まれてくるのだと私は思います。
◆必要なのは「話す」から「語る」への変化に挑戦!です。
●誰に対しても、いつでも「舌(した・べろ)で話す」ことから「吾(われ・自分・こころ)で語るようにしていきたい」と想い続けています。
●そうなれば、「愚痴」「まずい状態の他人への責任転嫁」「他人を悪者にし、自分を悲劇の主人公にして局面から逃げ去る」なんてことはきっとなくなると思うのです。
●相手が解ろうが解るまいが自分で口にしたことで「話した」のだから、で終わらせては絶対にだめです。
●相手がきちんと理解してくれるまで「語らなくては」「語りつづけなくては」。
●何故ならそうする人間が大人なのですから・・!!。
●対話で『相手に対しての思いやり・気配り』があって初めて「話す」から「語る」の段階に変化するのかな、とも感じます。
挿絵は田中拓馬画伯 画
●そして・・・・「自分の想いを自分の言葉で、そして自分の責任で『易しく優しく』語る」ことを重ねていくことで私は人前での場が苦ではなくなりました。
大勢の前で・・・・話そうから語ろうへの想いの変化。
今回も最終行にまでお眼を進めていただきましてありがとうございます。
話すと語る・・・・・
なんとなく使っている言葉なのですが
自分勝手にでも定義付、違いを明確にすることで
自分としてはっきりと区分することができます。
話し続けるのではなく語り続けていきたい
改めてそう感じています。
ありがとうございます。
にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ 入道(入村道夫)