「読み方多彩な『源氏物語』その③女もいろいろ」を今日はお休みして、物語の作者である紫式部について書いておこうと思います。

 

 彼女の生年月日や本名は分っていません。何故なら、当時の女は皇后や中宮と言った天皇の后妃たちは公文書に名前を記されたので実名が判明するのですが、それ以下の更衣や女房、命婦といった低い階級の女たちは“その他大勢”なんです。

 

 それでは不便なので、宮中に宮仕えしている女たちは、父や兄の官名で呼ばれていました。

紫式部という名は父親が式部丞(しきぶのじょう)だったので、『源氏物語』のヒロイン紫の上に関連して紫式部と言われるようになりました。余談ですが清少納言も少納言の官名からきています。

 

 紫式部の父母の家系は、摂政太政大臣藤原良房(せっしょうだじょうだいじん・ふじわらのよしふさ)の兄弟を先祖にしている名門ですが、父母の代では受領(ずりょう=現代の県知事クラス)階級でした。同じ藤原氏でも低い身分です。源氏物語を読むうえで、この「受領階級」がキーワードになってきます。

 

 受領になると都から地方へ下るので、一流の貴族階級からは外れるのです。

 しかし、地方に行けば賄賂が集まるので裕福になり、都に帰りたくない人(帰らない人)も出てきます。後日「女もいろいろ」のコーナーで書きますが、源氏が須磨に隠棲して知り合った明石の入道(明石の上の父)はこのタイプです。

 私の勝手な想像ですが、地方に下って裕福になり、貴族社会から武士社会になった時、かつての受領たちの中からは、荘園を守る北面武士のような武士団(勿論、一番大きな武士団は源氏と平家ですが)を結成統括し、武士の頭領から地方豪族→守護→守護大名から戦国大名にと成長していった輩がいたのではないかと思います。おカネ持っていた方が融通が利きますし、官位だっておカネで買えたのですから。

 

 さて、受領が派遣される国のランクは、大国、上国、中国、下国に分かれていました。

紫式部の父・藤原為時(ふじわらのためとき)は10年ほど貧しい暮らしを(「光る君へ」の第1話あたりに雨漏りのする家が映し出されていましたよね)余儀なくされましたが、受領を任命されました。

 

 下る先は淡路で、これは下国です。為時の文才が役に立ち、「自分は寒さも眠気も構わず勉強してきたのに私の努力が認められず、下国とは悲しい」みたいな意味の歌を一条天皇に奏上しました。

一条天皇は自分の人を見る目が無かった・・・とひどく落ち込みました。

 

 何でも言ってみるものですね。

この頃、ライバルの藤原道隆一家を陥れた藤原道長は、握った実権を駆使し、乳兄弟の源国盛(みなもとのくにもり)が上国の越前守(かみ)になったので、国盛と交渉して為時と国を振り換えてしまったのです。これで一条天皇の機嫌が直りました。天皇がお気に召すように振舞うことも、実権維持に必要なんです。

 

 その頃、越前の国府は武生(たけふ)にありました。JR武生駅には紫式部ゆかりの地の看板が出ています。紫式部は父の赴任に伴い、越前に赴きます。

 赴いた紫式部に、藤原宣孝はしきりにラブレターを送りました。

紫式部は1年くらいで都に戻り、27~28歳の時、この男と結婚し、娘を一人もうけましたが、夫は間もなく他界しました。わずか3年足らずの結婚生活でした。

 その後、藤原道長にスカウトされて中宮彰子(道長の娘)の女房として宮仕えしました。

 

 娘の部屋に一条天皇に通って来てもらい、あわよくば娘に皇子を産んでもらうためには、天皇が興味持ちそうなイベントを仕掛けなければなりません。

 紫式部は、道長のスカウトにより作家としての才能を開花させ、天皇始め人々が興味を抱く物語を書き続けました。それが『源氏物語』です。

 「次はどうなるの?」「早く続きを知りたいわ」という女房達の声が聞こえてきそうです。