しのだの森のうらみ葛の葉 | 学白 gakuhaku

学白 gakuhaku

精神科医 斎藤学のコラム

昨日(5月7日)の午後2時半から5時まで、伊藤比呂美さん(詩人)をお招きして、我がクリニックの利用者たちと歓談した。私は1980年代の詩集『青梅』以来、彼女の読者だが、『あかるく拒食、ゲンキに過食』(平凡社)という本を共著したこともある。彼女は10代後半からの7年間拒食症女だった。

私には伊藤さんが何回も変身してきたように見えたのだが、昨日の午後、彼女自身の言葉で自分を繰り返し破壊し、それによって両親が、後には世間が期待するものから脱皮してきたと語ってくれた。

伊藤比呂美さん1


板橋から熊本へ、熊本からアメリカへという変遷。それに伴って「おまんこ」を連呼する女子高生詩人は「あたしは便器か」から、「胎児はウンコ」と詠いあげる「女の性の詩人」となり、親(特に父親)の期待を見事に裏切った。娘カノコの母親になると長編詩「カノコ殺し」を発表して、ジェンダー論者たちを置き去りにする。ところがこの子殺し詩人は、どういうわけか『良いおっぱい悪いおっぱい』の頃から「幼児を持つ母たち」の育児カリスマに祭り上げられ、これに耐えられなくなっての自己破壊が離婚と熊本脱出になったとの由。板橋から呼び寄せた両親を熊本に残して。

詩人は異国で言葉(日本語)を封じられることにより言葉を洗練し、苦難の後に大輪の花を咲かせた。それが『とげ抜き・新巣鴨地蔵縁起』(講談社、2007)というのが私の素人見立てです。この本のテーマは熊本に残した母と父をカリフォルニアと熊本の往還を繰り返しながら看取る話し。そこに基調低音のように説教節・信太妻(しのだつま)の一行が繰り返される。

 こいしくば
 たづねきてみよ
 いずみなる
 しのだのもりの
 うらみくずのは

漢字を入れて書くと、

「恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森の恨み葛の葉」
となって分かりやすいが説教節の風味は消える。

伊藤比呂美さんのは「かなもじ」の上に、「ふふふ」が入る。

 ふふふ、たづねきてみようらみくずのは。

のように。

どうやら比呂美さんは「しのだ妻」こと、童子丸、後の安倍晴明(平安時代、藤原道長の頃の陰陽師)の母に姿を変えていた白狐に自らを擬していたいらしい。たしかに彼女には「ふふふ、わたしほんとはたぬきだよ」と言いたいらしいと、いつも感じる。

先日、彼女宛に自著『「毒親」の子どもたちへ』(メタモル出版、2015)を送ったところ、共感した趣旨のメールを頂き、それと共になんと『新訳 説教節』(平凡社、2015)まで御寄贈頂いたので、これを機会に「お話伺いたい、皆で」とお願いしたわけ。御快諾頂いた上に今日は御著書『父の生きる』(光文社、2014)というお土産に恵まれた。私は新しい訳本『性嗜癖者のパートナー』(クラウディア・ブラック著、斎藤学訳、誠信書房、2015)を献呈した。

この木曜午後の時間はいつもだとクリニックのプログラム参加者に「古今の映画」を観てもらって、それについて私が一言言うという枠。で、先月からは「恋に落ちたシェイクスピア」、「十二夜」、「宝塚版・十二夜」、「ロミオとジュリエット」、「ウエスト・サイド物語」と来て、来週からは「もうひとりのシェイクスピア」、「ヘンリィ五世」(ローレンス・オリヴィエ監督主演)などを観ることになっている。シェイクスピア劇に出てくる人物たちは全て、我がクリニックの利用者と同質の人々なので、観ておいてくれた方が何かと便利なのだ。

また今日も話しが逸れた。次回は確実にシェアリング・グループの話しに戻す。