作家という病気 | 学白 gakuhaku

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精神科医 斎藤学のコラム

先々週土曜日(2015/6/27)早朝8時過ぎのANA広島行きの飛行機に乗ろうと13番入口から入って69番ゲートに向かっていた。15分はかかりますよとグラウンド・スタッフに警告されていたのでなるべく早足で歩いていたら、荷物運びのカートを操車している初老の男性に「乗りませんか?」と声をかけられた。

一泊二日のこぢんまりしたワークショップと聞いていたし、朝の支度も面倒だったので、いつも使っているバーバリーの書類鞄をそのまま提げて出ようとしたのだが、洗面セットに最小限の下着を入れたズタ袋がもうひとつ欲しくなって、振り分け荷物のヨタヨタ老人と見破られてしまったようだ。お声をかけて頂いたのは有り難いことだが折角の運動のチャンスなので丁重にお断りして歩き続けた、と言っても動く歩道を乗り継いだだけだが。

年に数回の広島ワークショップのうち、空港隣接のホテル内コッテージを使うものはアドバーンスドコースというか、数年来私との会話が連続している方々なので、各自との対話には摂食障害などの症状行動の話題など出て来ない。「そんな時代もあったねと、いつか笑える時も来る」と中島みゆき風の「時代」がきてしまっているのが、私たちの言語空間だ。

例えばある男性(20代)は血まみれの臓器と解体した四肢という自己像を直視できるようになってから、急速に自己意識の統合が進んでいる。このあたりの「自己意識の統合」問題については他日、ゆっくり話したいので今回は省略。とにかく今の彼は、その身体を東京に運んで私(「まとまった自己」のモデル)と日常的に接するための工夫(職業と住まい)を具体的に考えられるようになっている。

他の女性(主婦)は、ここ数年来の文章教室での努力をついに恋愛小説への挑戦へと進めた。いよいよ小説なるものを書いてみたところ、文章教室での評価は散々だった。というのも、ヒロインが愛の対象とした男との出会いがきちんと書けていなかったからだ。ヒロイン、つまり自分の性衝動に直面するとひるんでしまうので、男と出会うあたりの話しに現実味が欠ける。

その主婦の話を聞きながら、一昨日会ったばかりの村山由佳さんのことを連想した。村山さんは今や当代きっての恋愛小説の名手だと思う。その彼女の比較的長いロマンス小説を読み終えたばかりだったこともあって、素人と玄人の間にあるのはスキルの問題だけなのだろうかと考えてみた。要するに、人を小説家という「病人」にするのは何か?ということだ。

村山さんはその日、私に呼ばれて私の集団精神療法の場へやってきたのだった。その場にいた所謂患者さんたちは、いつもより多く50~60名くらいか。時々このようにゲストを呼んで来診している皆さんと交流して頂いている。以前お招きした際は、彼女の著書『放蕩記』が話題になっていた頃で、私たちの話の中心も「母親問題」だった。今回の話題は更に絞られて「愛とセックス」。

後日、この日会場にいた女性が「彼女のアルトの声には癒やされる」と言った。なるほど、そう言われればそうだ。はっきりした標準語(実家の神戸のことを話すとき以外は)。話の内容に緩急はあっても、落ち着いたゆっくりした発音で、舌足らずになることがまったくない。この会話法で、かなり具体的なセックスの話をするから、意外性がある。刺青を入れているから華がある。以前は3カ所だったが、背中の方に増えたと笑うからショックを受ける。その日の出で立ちは地味な黒に見えたがシースルー。ミーティング終了後舞台にいる村山さんを取り巻く女性たちの注文に応じて、胸と背中のタトゥーの一部をごく自然に眺めさせていた村山さん。

人の顔というものには好みがあるだろうが、彼女の顔から悪意、ひねくれ、憤りのようなものを読み取るのは難しい。嘲り、冷笑、皮肉の類いも似合わない。頽廃、疲弊、荒廃とは無縁。というと惚れただけだろうと言われそうだが、そういうわけではない。というか、惚れるというより、親戚縁者の中のケナゲな娘と思えてしまう。私、老人だから。

ケナゲな勉強少女が汗をかきながら、「小説家」になっている。それがうまくいって無邪気に笑っている。夜の9時過ぎまで私たちの酒に付き合い、素面のままジープに乗って去ったかっこいい村山さん。





で、彼女が「作家」とすれば、小説は書けないと言いながら、結構達者なエッセイで日常の鬱屈をブログに載せたりしている人々とどこが違うのだろう。作家と言ってもいろいろいるし。

決定的な差は視点や手法といったところにあるのではなくて、覚悟の質量というか根性にあるのかも。私のところへ患者としてきていた人の中で、歴としたプロの作家と言える人は3人。うち一人は「中村うさぎ」のペンネームで有名な人で、今よりずっと名の出ていなかった頃にショッピング・アディクトとして来院なさっていたが、そのことを人前でも堂々と言うので私もここに書けるわけだ。

後の二人のウチの一人は残念ながら病没なさった。他のおひとかたとは、ここ何年かお会いしていないが、「なぜ作家は作家なのか?」という問いにスッキリと答えて下さった、と今になって思う。その人はプロの作家として多産であった頃、貧乏だった。一息ついたところで結婚した相手はお金持ちで、しかも「好きにお書き」と言ってくれる素晴らしい男性だった。で、結婚して数年たってみると、彼女は気力を喪い作品を出せなくなってしまった。「うつ病にでもなったのではないか」と思ったから、私のところを訪ねてくださったのだ。その彼女から「書けるようになりました」とか「書くっきゃないんですよ」とか言う言葉が出て来たのは3年前くらいのことだった。

夫の会社が傾いて、豪邸を引き払いそれまでの何分の一かの狭さの家に移ってから、彼女は気力を取り戻し、再び多忙な作家生活に戻って行った。

病気というものの本質の一つは「その人から個性を奪うこと」だと思う。結核患者はドイツ人でも日本人でも変わらない。フランス留学中一番ほっとした寛げる場所はサンタンヌ病院の病棟の中庭だった。その庭にいた人々は日本でなじんでいたのと同じ病気・精神分裂病の人々だったからだ。

このことと関連する、もうひとつの病気の本質は「自由の喪失と選択肢の減少」だと思う。
病人になると、その人に固有の動作の幅が喪われて、病気に固有の動作が目立つようになる。

COPD(慢性閉塞性肺障害)の人や、SLE(全身性エリテマトーデス)の人は、病気の進行に連れて、その人の個性より、その病気の個性が顕著になる。私たちが嗜癖(アディクション)を病気と定義するときに念頭に置くのもこのことである。

アディクションは人の生につきまとう寂しさへの怯えに備える簡便でしかも強固な防衛法だが、その進行にともなってその人から個性を奪い、その人は姓名で呼ばれるより「ジャンキー」(アヘン嗜癖者)などと呼ばれる機会が多くなる。

作家と呼ばれる人は明らかに書くことを渇望し、淫している。しかも一つ書き終えると、次が書きたくなるようなのでアディクションに特有の「充足パラドクス」(渇望が充たされることで、かえって渇望が強まる現象)の定義に一致している。一見、書くことで個性を磨いているようだが、書かねばならないという強迫に取り憑かれている点に個性はない。その結果、生み出される作品は、作家業という病気がもたらす爛れや膿のようなものだが、その異臭が読者やファンを魅了するのだから、所謂「ポジティブ・アディクション」(プラスの嗜癖、例えばランニング、ワーカホリズム、ストイシズムなど)に属するものだろう。