カレンダー絵紹介③ | 夕光優歌

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今年のカレンダー()が販売されたという事で猫村2!

突然始めた「ほぼ月1♦︎2017カレンダーの絵紹介♦︎ねこ

3回目です猫(②はこちら)



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今回は2月にゃんこねこおほしさま

 

 

顔の主要パーツだけで、床に寝そべる猫を表現しています。

なのでちょっと下の目がむにっとしてるのです。

 

原画はポストカードサイズなので、

A3カレンダーではだいぶ引き延ばしてますあせ

 

 

この子のグッズはミニ缶バッチとポストカードがありますよsei

 

 

この子にも特にモデルはいませんが、

昔飼っていた白猫によく似ているなと 完成してから気がつきました。

 

 

 

 

ちょっとその子の話をさせてください。

!割愛していますが長くなりますので(生死に関する記述もあります)

苦手な方は今回はここまででお願いします。ペコリkirakira*

※絵とは直接関係のない話です。

 

 

 

 

 

 

 

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その子の名前は長かったこともあり宝物として伏せますが、仮ににゃんとします。

にゃんとは私が5歳くらいの頃、親の転勤により引っ越した先で出会いました。

(親が転勤族だったので、道内各地を点々としていました)

 

家にくるようになった頃には既に成猫だったのかな。

短毛で緑の目のキリッとした男の子でした。

 

 

その町(近所に鮭が遡上する川や森がある、村みたいな所でした)での私の記憶の最初にはもうその子がいて、

気が向いたときに家に気ては 窓辺で鳴いてご飯をねだり、

次第に家の中にまで入ってくるようになりました。

 

布団に入ってきたり、一緒に留守番したこともありました。ねこ

私が起きた途端に飛び去ったり、留守番中も「もう外に出たい」アピールされて最後まで一緒だったことはありませんでしたがあせ

 

Tracks+゜ Tracks+゜ Tracks+゜

 

 

当時家の隣には猫を10匹以上飼っている方が住んでおり、そこでもお世話になっていたようです。ベロ

しかし、しばらくしてその方は飼い猫とともに引っ越して行きました。

 

その後私たち家族も転勤が決まり、町から離れることに。

 

小学1年生の頃です。

 

 

「にゃんはだれが面倒見るの?」「次ここに住むひとが猫嫌いだったらどうするの?」

 

 

 

私の訴えに親が押切られる形で、猫もつれて引っ越そうと決まりました。

 

 

野良で気ままだったにゃんは 家猫になりました。

 

 

Tracks+゜ Tracks+゜ Tracks+゜

 

 

しかし、にゃんにとってこの選択が正しかったのか 私には未だ分かりません。

 

猫の中でも、白猫は特に環境の変化に弱いらしく、だいぶストレスがかかってしまったのかもしれません。

 

何が根本的な原因だったかは分かりませんが、

引っ越し先で一緒に過ごせた時間は とても短かったと思います。

 

 

 

 

というのも、にゃんとの新しい生活で はっきりと覚えているのは 

去勢手術後に水色のカラーをつけて それをぶつけながら机の下に入ってきた事。

体調を崩して病院通いが始まり、いつしか唾液すら飲み込めなくなってしまった時、

友達が家にきて、その子を「かわいい」と言ってくれた事。それくらいなのです。

 

 

元気なときに一緒に遊んだりもしたはずなのに、家猫になって存在が「あたりまえ」になってからの事をあまり思い出せません。

転校先に慣れるのに必死だったのか、それともにゃんのほうが身を潜めるタイプの猫で遊んでくれなかっただけか、、

 

後者だといいのですが、当時は病院も 世話も 母任せになっていたのは確かです。

 

 

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にゃんの最期は安楽死だったそうです。

 

母から 亡くなったと伝えられた時、みんな泣いていました。

 

 

 

死の持つ意味を 人はいつから理解するものなのでしょうか?

私の場合はこの時ではありませんでした。

 

 

当時の私には  みんなが泣く理由が 「死」の持つ本当の意味が まだ理解できませんでした。

 

 

亡がらやお骨なども見せてもらえなかったので現実味が無く、

「なんで悲しむの?またきっと会えるよ」と 根拠のない自信すらあったのです。

 

 

 

なんて 冷たいやつだと思われるかもしれませんが、

当時まだお葬式なども経験しておらず、「生きているもの」と「死んでいるもの」を

繋げて考えられなかったんだと思います。

 

 

 

分からないのと 家の沈んだ空気が耐えられなくて 笑顔を作ってみたりしました。

 

 

その時 その場にいた一人から「冷たいやつだな」と言われた事は、今でもよく覚えています。

 

 

それなのに 引っ越してからの事を、ほとんど思い出せないのは悔しいです。

 

 

この子に関してだけ言うと 実は未だに近くにいる気さえしています。

写真を持っておらず記憶だけなので 尚更そう感じるのかもしれません。

 

 

 

 

今でもにゃんの話をしようとすると、やんわり話題を避けられてしまうのですが、

今度実家で写真など残ってないか探してみようと思います。

写真に縁のない家族なので(撮ったり描いたりするのは私だけです) ちゃんと残っているかは微妙ですが;

 

 

 

 

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長々と読んで頂きありがとうございました。

 

今の時代餌付け(半野良時代にしてたのは多分これにあたりますよね)や引っ越し、扱い方、安楽死など批判される方もいると思いますが、この絵の紹介をするにあたり、

この子の事も書いておきたかったので 記載させて頂きました。

 

 

 

私が猫を描くのは この子の存在が大きく関係しているかもしれないですね。

 

 

ペコリ