その懇親会の席で、ある出席者の方から、
「西村さん、あんたは中村先生のような素晴 らしいお師匠さんに出会えて良かったね」
と声をかけられました。
そうです。
不思議な運命の力で、中村先生とお近づきになれたことは、私の終生かわらぬ至宝であると今も思い続けています。
 夕食をとりながら、話題は各方面に及び、和やかに時が過ぎてゆきました。
 翌、九月七日には中村先生のご尊父の故郷香川県財田町へご一緒しました。
旧い縁戚を訪ね、一軒ごとに菓子折を携えて、淡々とにこやかにねぎらいの言葉をかけられて辞するお姿は、世界的学者とは思われぬ謙虚な態度でいらっしゃいました。
 同日午後、先生は慌ただしい四国路の旅を終えられ、空路帰京されました。私にとっては思い出深い、充実した二日間でした。
 後日、先生から「御令室様」と家内宛に葉書が届きました。
「昼間のお仕事で疲れておられるにもかかわ らず、懇親会の席では長時間立ったままで お世話いただき感謝しています。そのとき の姿は観音様のようでした」
と書かれていました。
 懇親会の席で初めて先生にお会いし、その温厚なお人柄、人と接するときの御姿勢を目の当たりにしていた家内は、この葉書のお心遣いにいっそう感動し、以来私同様、中村教の篤き信者となったのです。
 この記念講演以降、東方学院香川地区教室ができ、年に一回、中村先生の講演会が催されるようになりました。                  主催者側の意向は、できるだけ多くの聴講者を集めること、そして夜には大きな宴会を催すことのようでした。
そのため、参加者の中には、テレビに出演しているタレント学者だと思ってやって来る人もあり、話が面白くないからと居眠りをしたり、夜の宴席では「有名人」との記念撮影だけを楽しみにしている人がいたりで、私から見れば、先生にはお気の毒な、まったくの時間の浪費としか思えない状況だったようです。
 比較思想の必要性を感じ、その基盤となる東洋思想を普及させるには、まず地域の政財界の指導者層へ働きかけるのが早道、と考えていた私の見解との相違は否めませんでした。 せっかく中村先生を招聘するのですから、人数は少なくとも本当に学びたい人が集まって真剣に学び、思想を「生きたもの」にするべきと考える人々の、勉強する集いでなければ意義がないのです。
 中村先生は来県のたびに、私の店(珊瑚店)にお立ち寄りくださり、
「川六(近くのホテル)に泊まっておりましてね。御商売はどうです、うまくいっていますか」
と私たち夫婦と雑談をされるのが常でした。
 また、何度目かの御来県の時、父上の故郷である香川県財田町の公民館で講演をされるというので、当時まだ小学生だった末娘と家内を伴って会場まで車で馳せ参じたことがありました。開演前にちょっと御挨拶をと控え室へ伺いましたところ、奥様もご一緒で、なごやかに談笑していたのですが、何度か末娘に笑顔を向けられて、
「ぼっちゃんは、何年生におなりですか?」
「ぼっちゃんは、なかなかお利口そうなお顔をしておいでです」
「男のお子さんにしては、大人しいですね」
などと話しかけてお気遣いくださるのです。 最初に家内が、蚊の泣くような小声で
「いえ、あのー、女の子なんですが…」
 と申し上げたのですが、お耳に入らなかったようで、側で奥様が気を揉まれて、先生の袖をそっと引きながら、小声で
「あなた、お嬢様だって、さっきからおっしゃってるじゃありませんか」
とお口添え下さって、先生もすっかり照れてしまわれたこともございました。
 娘のいでたちも超ショートカットで、地味な色のセーターとズボンという格好だったせいもあったかと思うのですが・・。
 そして、お会いする毎に口癖のように言われるお言葉をその折にもおっしゃられ、
「学問はきっとお続けになるように、覚悟し て堪え忍んで勉強してゆけばいつかは芽が でるものです。たとえ評価が没後であろうと、何をなそうとしたか、それ自体に大きな意義があると思うのですよ」
と繰り返されました。
 プライベートな場でも先生のさりげない一言に心うたれ、そのたびに勇気が湧いてくる思いでした。
 丁度その頃、東方学院で学び、瑞岳院(永平寺)での参禅修行を通して私が体得したことを具現するには、大きな組織の中では困難であること、また地方の公開講座に興味本位で参加している人たちといくら話し合っても、しょせん書生論にすぎないということに気づきはじめました。
 仏教の教えを具現するには仏道修行の基本である独りでの修行を重ね続け、「利他行」を心がけることだ、と確信するに至ったきっかけは、この東方学院香川地区教室の一件だったのです。
 そうして私が山岳禅堂「専修院」という単立寺の建立を決意した理由のひとつもこの一件が絡んでおります。