平成三年五月十六日
  この年首都東京では、都庁新庁舎が新宿にその威容を顕した節目の年でもありました。
 新緑の若草色の鮮やかさが目にも心にも沁みこんで、五月晴れの空に向かって思わず深呼吸をしたくなる季節でした。
 中村先生の傘寿を記念して、東方学院で学ぶ研究会員が企画し、先生御夫婦と共に親しく日帰り旅行をするので参加しないかとのお誘いをいただきました。
 久しぶりに先生にお会いできる喜びに、うきうきした気分で、前日の五月十五日に高松より上京。
 残念なことに当日はあいにくどしゃぶりの雨でしたが、エアコンのきいた大型バスの車中では先生御夫婦と、皆なごやかに歓談したり、愉しそうな笑い声も聞こえて、私もはるばる参加した甲斐があったと、また日頃の慌ただしい日常の暮らしや諸々の煩わしさを忘れさせて頂いた心愉しい一刻でした。
 神田明神町前の東方学院を午前八時に出発し、神奈川県立金沢文庫(北条実時によって作られた日本最古の武家文庫)に到着したのはお昼少し前でした。
 我々が三々五々入館すると、早々に事務局の方がにこやかに近づいて来られ、懇切丁寧に館内を案内して下さいました。たぶん、前もって先生が御連絡してくださっていたのでしょう。いつもの事ながらその細やかな御配慮をありがたく思いました。
 先生は普段学問一筋の方とお見受け致しますし、またその通りなのですが、身近に接しておりますと、ちょっとした俗事に、思いがけないお心遣いをなさる一面をお持ちであることに気づかせられます。
 例えば、私がたまたま東方学院にお邪魔して、先生とお話中の折、事務局の女性が、多分先生の講演旅行のためだと思われるのですが、東京、大阪間の新幹線切符の手配の電話をかけようとしていた時、先生はその女性に、
「OO旅行社のOO君に頼みなさい。この前 の海外旅行では、OO君に大変よくして貰 いましたから、例え僅かのことでも、きっ と彼は喜んでくれると思います」
と指示されたのです。かたわらで拝見していて、なるほど、世界的な学者と呼ばれる方でも、一旅行会社の一営業社員に対して、これほどのお心遣いをなさるのかと感服したことでした。
 私事で恐縮ですが、私の会社は、海産物の通信販売も手がけておりますが、先生は、必ず、ご自身で、ご注文のお電話を四国の高松まで掛けてきて下さいます。
 先生は、特に「ちりめんじゃこ」がお気に入りで、家内など、先生の張りのあるどっしりとしたお声を聞くと有り難くて、緊張し、恐縮してしまうと申します。
 また、中村先生は、贈答品を使われるときは、かならず、ご出身地の松江のお菓子をご利用になるということです。東京のデパートの高級品を贈るより、その方が印象的であり、同時にたとえ僅かなお金でも郷土への貢献、広報活動につながるとのお考えからと伺っております。
 このようなお考えは、東方学院の若い講師の先生方にも影響を与えているようで、時折私に贈って下さる品物が、その講師の方の郷里の名産であったりするのです。
 話が、横道に逸れてしまいましたが、金沢文庫の館内を一時間ほどかけて見学させていただきました。
 そのあと先生御夫妻をかこんでの昼食会は、お昼時を少し過ぎておりましたが横浜中華街にある某有名大飯店で行われました。
 東方学院の研究生の司会で、二、三人の方がお祝いの言葉を述べられた後、遠い四国から参加したのだから何か一言、と私も指名されたので、一瞬躊躇しましたが、せっかくのお祝いの席ですから、気持ちだけはお伝えしたいと、さぬき風江戸弁?!で、日頃の先生への想いを述べさせていただきました。細かなことは、定かではありませんが、おおむね以下のような内容だったと記憶しております。
「中村先生、奥様、本日は、本当におめでと うございます。私は、先生の傘寿のお祝い の席に列席出来ましたことを心から嬉    

 しく誇りにおもいます。 そして叶うなら、ぜひ米寿のお祝い、白寿のお祝いにも、お声を掛けていただきたいと希望します。
 先生との出逢いから十数年、先生の教えを受け、ご著書を読み、つたない能力で自学自習を続けてまいりましたが、その学問、   

 思想を知れば知るほど、先生のお人柄に触 れれば触れるほど、その奥深さと広大さにとり憑かれてしまいました。
 揚げ句に、私財を擲って、四国の山中に国 際禅道場(単立寺)を建立するに至り、目下建設中です。
 想うに、何故ここまで決心して行動を起こしてしまったのか私自身にも解りません。
 目に見えぬ大きな力に導かれているとしか 考えられないのです。 これを人は、仏縁というのかも知れません。 私が、この  

 道場(専修院と命名するつもりですが)を建立するに至ったバックボーンに、中村先生のご著書にあった、

 〈日本全体のことは、どうにもならないが、自分の成し得ることを、その範囲で実行しようと思っている〉との一文が強い精神 

 的支えになっております。
 この秋には、専修院が落成致しますので、四国路へお越しの機会には、是非お立ち寄 りくだされば、嬉しく存じる次第です。
 世界に誇る、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋も 完成しておりますので、併せて観光もして 頂けると思います。
 つたない言葉で、言い尽くせませんが、お 祝いの言葉に代えさせて頂きます。ありがとうございました。」
 先生は、今日はとても楽しかったと返礼され、これからも学問を志す方たちの真っ先に立って新しい学問を開拓する必要があ 

 る、まだまだ悠々自適といった身分ではないと話されました。
 八十歳にしてなお、ますます学問に捧げる情熱の熱さ、強さその生き様(いきざま)の力強さを目のあたりにして、改めて先生の 

 人間として、学者としての凄さに感動し、学問の師としてだけでなく、人生の師として尊敬の念を深めたのでした。