中村先生が、鈴木正三について講義された時、目から鱗が落ちるとは、このような気持ちをさしていうのだろうと、驚喜したことを覚えています。
もやもやと霧がかかっていた部分がすっきり晴れ上がったような爽快さでした。
 それ以後、私は鈴木正三の思想に深く共鳴し、より確実に自分のものにせねばならぬと思うようになりました。
 仏教は、もともと実践の教えですから、幾ら学問をして奥義を極めても、坐して沈黙を守り、自己満足しているだけでは,

 何の役にも立たず、意味が無いわけです。
 宗教とは、仏教とは、等と教義について論争したり、儀礼儀式に拘っていては、真の仏教の精神は、見失われてしまいます。
 鈴木正三禅師は、その著書の中で、「一所懸命働いている時が、極楽浄土だ」と著しているように、商人は商業活動、役人は

それぞれの務めを果たすことが仏道なのです。 特別のこと、変わったことをすることが修行なのではなく、日常の当たり前のことを当たり前にきちんと果たすことが修行であり、大切なことなのです。
 いつの時代でも自助努力と自己責任がキーワードであることを常に思い、世俗界と精神面が渾然一体となった生涯をおくる事で

 本当の安らぎが得られるのです。
 後に、二王禅堂(単立寺・専修院)を建立するに至った大きな要因の一つは、この鈴木正三の思想を具現したく思ったからでもあるのです。
       鈴木正三(一五七九ー一六五五)
     江戸時代初期の曹洞宗の僧、元武士
     著書に「万民徳用」「驢鞍橋」(ろうあんきょう)等


 

定刻ちょっと過ぎに、その日の講義が終わった後で、先生に「かくれ仏教徒」のことについて、もっと詳しく勉強したいのですが

と申し上げました。
「かくれ仏教徒」というのは、先生の御著書「比較思想の軌跡」(東方書籍)の中に、以下の通り記されています。
 『天正十五年(1587)に伴天連(バテレン)が国外退去を命じられる前の十七年間、長崎は、実質的にはローマ法王の領地で

    あり、神社仏閣はすべて焼き払われ、住民はすべてキリシタン宗門への改宗が強制され、肯(がえ)んじない者は処刑された。』
 私の突然の申し出にたいし、先生は、
  「その事については長崎大学教授で光永寺住職の正木晴彦先生がお詳しいと思います」
とおっしゃって、その場ですぐに、正木先生宛にご紹介のお手紙を書いて下さり、あと必要な事柄は、ご自分で書き足すようにと言われました。
 早速疑問点など書き添えて発送しました処、正木教授からは、資料として「長崎市史」が送られてきて、中に「佛寺廃滅の時代」として、長崎開港当時のことがしるされており、大変参考になりました。
  私のような若輩者に対しても、常に真摯な態度でご指導下さる先生に感応し、私なりに仏道修行を続け「利他行」をすることが、先生に対するご恩返しと肝に銘じております。

 

定刻ちょっと過ぎに、その日の講義が終わった後で、先生に「かくれ仏教徒」のことについて、もっと詳しく勉強したいのですが

と申し上げました。
「かくれ仏教徒」というのは、先生の御著書「比較思想の軌跡」(東方書籍)の中に、以下の通り記されています。
 『天正十五年(1587)に伴天連(バテレン)が国外退去を命じられる前の十七年間、長崎は、実質的にはローマ法王の領地で

   あり、神社仏閣はすべて焼き払われ、住民はすべてキリシタン宗門への改宗が強制され、肯(がえ)んじない者は処刑された。』
 私の突然の申し出にたいし、先生は、
「その事については長崎大学教授で光永寺住職の正木晴彦先生がお詳しいと思います」
とおっしゃって、その場ですぐに、正木先生宛にご紹介のお手紙を書いて下さり、あと必要な事柄は、ご自分で書き足すようにと言われました。
 早速疑問点など書き添えて発送しました処、正木教授からは、資料として「長崎市史」が送られてきて、中に「佛寺廃滅の時代」として、長崎開港当時のことがしるされており、大変参考になりました。
  私のような若輩者に対しても、常に真摯な態度でご指導下さる先生に感応し、私なりに、仏道修行を続け「利他行」をすることが、先生に対するご恩返しと肝に銘じております。
 

 ○月○日講義の始まる前、中村先生が片手に持った本をちょっと挙げて、
「この本『ブッダの真理のことば感興のことば』(岩波文庫)が重版されまして、出版社の方が、つい先ほどお持ち下さいました ので、良い機会ですから一冊ですが、出席者のどなたかに差し上げたいと思います」
と先生のお言葉が終わるか終わらないうちに、若い方が後方から「ハーイ」と言いながら演壇に向かって走りだそうとしました。
 その一瞬、先生は考え込んだような、困ったような顔をされ、
「皆さん、どうでございましょう。今日は遠い四国からこのお教室にお越しになっている西村かめいさんに、差し上げたいと思う のですが…」
とおっしゃったのです。

先生のお言葉なので、聴講生全員の拍手となり、その方は、少しバツの悪そうな顔で着席なさいました。


 先生の真前の席に陣取っていた私は、直接そのご本を手渡して頂いて、嬉しさの反面、私としては書店で買い求めるつもりでしたから、その方に申し訳ないような面はゆいような気持ちでした。
  ただ、このことは私だけにしか判り得ないことなのですが、何故か予感として先生がこの本を差し上げたいとおっしゃった瞬間に「ああ、私にくださるのだな」と確信していたのも事実です。
 以心伝心とでもいうのでしょうか、目に見えない心の糸があるのでしょうか? 

 先生とのご縁を想うとき、学問上の師として、理解、共感して結ばれていると実感する以上に、人間的相性というものが有るように思えてなりません。それは、学歴、性別を越えたもののようです。
 勝手な推測ですが、多分先生はその若い方に、先輩、年長者を尊重するという東洋の思想において顕著な「長幼の序」ということを、無言のうちに諭されたのではないかと思うのです。
先生のご著書の中でも、
 「仏典の中に《常に敬礼を守り、年長者を敬う人には、種々の事柄が増大する。すなわち寿命と美しさと楽しみと力とである》 とあります。年長者を尊敬する人は、長生きをするし、容貌も美しくなり、人生を楽しみ、力がついてくるという意味です。
 仏教の伝統、特に禅においては「老」とは、 尊敬の言葉になります。
 例えば「老師」というのは立派な先生という意味です。
 こういう年齢にたいする尊敬の態度は、日本人の間ではすでに封建時代から広まっていました。
 一例を擧げますと、中央政府の大臣を「老 中」と呼びましたし総理大臣を「大老」と 呼んでいました。
 井伊大老などは、まだ中年でしたが「大 老」と呼ばれましたね。       また個々の藩の大臣は公に「家老」と呼ばれました。    これは家の老人という意味ですが、一種の尊称です。若くてもそう呼ばれたわけです。」
 と記されています。
 

   新学期の講義で、中村先生は、先ず学問と文化の果たす重要な役割を話される。
  ついで「比較思想」と呼ばれている学問分野を開拓することに力をそそいだこと、そして比較思想の必要を唱え、その研究を始め    た頃は、学界からいろいろな批判があったそうですが、新しい学問のために、一番槍(戦国時代の勇者が戦場で真っ先に先頭に立    って戦死を覚悟で戦う)になることを決心したこと等、熱き想いを語られるのです。
  まさに「百万の敵といえども我れ行かん」の心意気を感じたのです。

  その勇気ある情熱に、本当の学者とはこうあらねば、斯く有るべきと強く感動を受けたのです。
 中村先生が御講義のとき私たちに
「日本文化を外国人に紹介するとしたら何を 紹介しますか」
 と問いかけられ、次のような体験を話して下さいました。先生がアメリカのフロリダ州に滞在されていた頃のことだそうです。
「あるパーティーに夫婦で招待を受けたのですが、その席で一人のアメリカ人が、私の妻の着物姿をみて《オー、芸者ガール》と   言って拍手するのです。これには困ってしまいました。
 日本の文化の偉大なもの、真実の姿が見失われ、誤った俗説が流布されて、そのまま固定観念として理解されたのでは、全く心   外なことです。」
 諸外国から見た日本が、いつまでもフジヤマ、ゲイシャでなく、日本独自の文化、伝統美意識があることを認識させるには、私達    一人一人が自国の文化をしっかり学び、教養を身につけねばならないのです。

そうすることが、相手からも尊敬を得る唯一の道だと私は信じているのです。


 

(序)東方学院のこと
本当の学門を求めるものだけが集まって学ぶところに意義がある、との中村先生の熱い思いから、東方学院は寺子屋(中村先生はそうおっしゃいます)として開設されたのです。
 各個人の思想、信条を一切問うことなく、そして政府機関や、公の組織からは何の束縛を受けることもなく、学びたい人が自由に学ぶ学問どころという理念の下に運営されています。当然、国からも一切の援助、補助金も受ける事無く、民間の篤志家の方たちのささやかな善意のご寄付と先生ご自身の私財を基とした基金で運営され「清貧」をつらぬかれているのです。  東方学院の特徴としては、
 一、真に学門を極め、道を求めたい人々の学院
 二、学歴、年齢、職業、国籍、性別を問わない
 三、専門家の間の縄張り意識のない学院
 四、誰でも自由に学門を伸ばすことができる
 五、講師と研究会員との人間的な繋がりが緊密
 六、従来の大學ではなされていないテーマで斬新な講義や実習指導がなされる


「日本全体のことはどうにもならないが、自 分の為し得ることをその範囲内で実行しよ うと思っている」
 

東方学院において、中村元先生の最初の講義のときに私が強く感銘を受けた言葉です。
 中村先生の講義で学んだことは、学問(人文科学)とは常に実社会の役にたつものでなければならないということ、つまり仏法とは儀礼、法要ではなく、「人間として生きる真実の道をさしている」教えだという事実です。
 先生の講義の中でたびたび、法顕(ほうけん・三三五~四二二〉の話がとりあげられます。
 インドで生まれた仏教が中国に伝わってきたときに、法顕や玄奨(げんじょう)、あるいは名もない何人もの人々が、人間として真理を知りたい自分の疑問をはらしたいというその情熱で、中国からインドへ行くために、大変な旅を覚悟で身命をかけて数千キロの大砂漠を渡り、何年もの間、人として正しく生きてゆくための真理を極める学問を積んで帰国しているのです。
  それと同じように、日本からも東シナ海を渡って、遣唐使として中国に留学した多くの僧侶たちがいました。
当時は「四の船」といって必ず四隻いっしょに出航しています。四隻で出航しても、嵐などで海が荒れたりして、四隻そろって帰国出来たことはなかったと伝えられています。
「玄奨の場合は、二十九歳くらいでまだ若か ったのですが、法顕が求法の徒として中国 を出発したときは、すでに六十三歳になっており、それからさらにインドで十六年間 も修行しているのです。
  山賊の出没する砂漠を往来した多くの求法の徒、あるいは商いに命をかけて砂漠を行き来した行商人たち。   その情熱たるや

すさまじいものが感じられますねー」
と話している中村先生御自身が、感極まって数秒間、不動の姿勢になられます。受講している私にも、その感動が伝わってくるのです。
 真の学者というものは凄いものだ、そして学問は楽しく、奥深く、世の中の役にたつものだと感じ、その夜はあまりの嬉しさと感激で一睡もできませんでした。
 その感激を実生活に具現することが私の使命のように感じられ、私が仏道修行を志す端緒となったように思います。
注 法顕は中国・山西省出身で律僧。戒律を明らかにした典籍の不備を嘆いて、三九八年に長安をたち、十数年の歳月をかけて、中央アジア諸国、パミール、北インド、中インド西北インド、スリランカを経て四一五年に中国山東省に漂着したと伝えられて

います。
 

一九三九年 台湾 基隆(キールン)市 生まれ
一九六一年 専修大学 法学部卒業。
      (株)大映映画入社
一九六四年 香川県・高松 市ライオン通りに西村珊瑚店を開業。

                  東京支店(新橋)を始めニューヨーク、ヴァージニア、ハワイ、トロント(カナダ)各地に事務所を開設
一九八一年 家業のかたわら、永平寺 関東別院にて参禅修行
一九八三年 東方学院入学・原始仏教を専攻。      
      中村 元先生に師事。
一九八四年 大菩薩山 瑞岳院(永平寺修行道場)にて参禅修行
一九九一年 香川県 塩江町の大滝山に単立寺専修院を建立
一九九六年 専修大学出版局より
     『生きる、我が托鉢日記』を出版
 

    形骸化してしまった、葬儀と法要のみを重要視している現在の仏教界の流れを真実の仏教思想を伝える流れに変えない限り、日本の未来は、益々拝金主義や享楽主義が横行し、矛盾とエゴの充満した社会が続くと私は考えます。
人生に正しい指針を与える仏教思想を伝えるには、仏教指導者が一般の人々に、その教えを正確に伝承、伝達しなければならないのです。
世界各国には沢山の伝統、文化が受け継がれていますが、人の心に種をまき花を咲かせ強く影響を与えてきたのは宗教なのです。
 私は四十歳にして東方学院(理事長・故中村元博士、東大名誉教授)の門をたたき、仏教思想を学ぶなかで、商人として生きるだけではなく、仏の教えとの共生の可能性を見出しました。そしてそこから、人生のリズムを変え、新たな人生を確立したいと思い立ちました。
 世界に通用する普遍性をもった禅修行を選ぶとともに、鈴木正三(江戸初期の禅師)がその著書「万民徳用」で説いている「一生懸命働いているときが極楽浄土」という言葉に出会って深く共鳴し、自分自身の実生活で具現すべく実践しているのです。
 ますますグローバル化する二十一世紀において、一神教(自分の信じる神以外は邪教とみなす)では具合が良くないわけで、人間の多様性を認めることが大切なのです。
 今の社会に合わない伝統や因習に捕われることなく、現代社会に受け入れられる良い伝統を始めることも大切なのです。
 禅宗は教義に拘泥することなく、普遍性をもって、伝統的な日本人の生活そのものの中に生きているといえるのです。
 私事で恐縮ですが、拙著「生きる、我が托鉢日記」を専修大学出版局より出版して数カ月で、早々と地元香川県の書店で哲学・宗教の部でベストテンにはいり、また全国的にも好評で版を重ねたことは思いもかけなかったことで、全く驚いてしまいましたがこの事は、ささやかながら、社会的なご支持を頂けたのだと、有難く思う次第です。
 今の時代、宗教とは何か、と迷っている人々も多いようですが、仏法の教えで一番大切なものは何かと考えれば、答はおのずと出るはずです。
 人の運命は信仰と同じようです。神仏を信じる心が強まると、自分自身にとって必要な人や物に自然に出逢い、自分の進むべき道が確立してゆくものなのです。
 私自身、特別な志も目的もなかったのですが、目に見えない神仏の「はからい」で、必要な人との出逢いがあり自然に物事が成就している事実を、他の人々にも知らせたく思うのです。
  実際、精神性を重視することで私の人生も、少しづつ変化をとげ、予想外の展開をしていることは、私自身不思議に思えるほどなのです。
 十年近く前のことになりますが、四国山脈の県境に、禅堂を建立するべく行動を起こした時、周囲はそれを道楽と受けとめ、変わり者あつかいをする人がほとんどでした。
 あれからかれこれ十年の月日が経ち、黙々と自分で決めた自分の道を歩み続けて参りましたが、お蔭様というのでしょうか、この厳しい経済状況の世相において、親から受け継いだ家業を維持することができ、新しく始めた事業も極めて好調です。
 家族一同健康に恵まれ、子供たちもそれぞれの道を自分の力で歩みはじめました。
 今後私のなすべき務めと申しますか、使命とは、世俗(商業活動)と精神性が日常生活で渾然一体となる私自身の体験を一人でも多くの方に伝えることだと心得て、日々修行に励んでおります。
 精神的な人生を送るということは、別に特別の生き方をするという意味ではないのです。



 

Q:何故庵治町が「セカチュー」のロケ地に決まったの?

 拙宅(専修院別院)へ香川県詫間町、仁尾町の商工会、青年部の若者二人が訪れて、
「県関係者から聞いた情報では、香川県が東宝映画「セカチュー」のロケ地誘致に成功し、その場所は県西部の荘内半島に決定していると聞かされていました。 にも関わらず実際には庵治町でロケが行われた訳は「あじみなと番所」の親爺さんと「セカチュー」のスタッフの間に何か関係が有ると人づてに聞いたので、本当の処を知りたくてお邪魔しました、、、、、」というのです。

A: 香川県の誘致に応じ、現地視察のため来県した東宝映画の製作スタッフ達を県職員が荘内半島他数ヶ所へ案内したのですが、どの地域も製作映画のイメージに合わず困惑していた時、スタッフの一人が「ウラ屋島」へ行ってみようと言い出したそうです。

 彼が言うには、そこは小さな港町で屋島を背景に沈む夕日がとても素晴らしいと報道関係者から聴いたことがある。又そこには、変わった親爺さんがいて一日一客の予約制で ものすごく大きいタイを一匹丸ごと、地元特有の鍋料理で食べさせるそうです。 
   取りあえずその地域を視察してみようと庵治町に着いた丁度その時刻に、屋島と鬼ヶ島 の間に沈む夕日の素晴らしい景色に遭遇し、その神秘的な美しさと波しづかな入り江の湊町が、映画のイメージにピッタリ合うということでロケ地に決めたそうです。
私は香川県を教育産業(精神産業)の地域にしたいと、学生や企業の新入社員を始め一般の社会人にも正しい日本の伝統文化を伝承する場として、15年前、塩江町に禅堂を建立しました。
又、庵治町ではこの地域の活性化に繋(つな)がるとの想いから、サービス業(料理店)を営んでいます。
日本の原風景が保たれている湊町庵治町を広くセールスアピールするには、地域の特色を生かしたネーミングが大切でありブランド力をつける事で地域間の激しい集客競争に勝てるとの思いから、高松市街から見る屋島を「オモテ屋島」とするなら庵治町サイドから見る屋島を「ウラ屋島」と、30年前から、私一人でよびつづけているのです。
このネーミングを思いついたのは、東京、静岡県側から見る富士山を「オモテ富士」、山梨県側から見る富士山を「ウラ富士」と呼び、また、福島県会津若松市側からは「磐梯山」と呼び、県北部からは「ウラ磐梯」と呼んでいることにヒントを得たのです。
私は講演時等、あらゆる場で、また、メディア関係者が来店した折などに、庵治町の周辺とウラ屋島を背景にした瀬戸内海の景色は広島県の尾道市に勝るとも劣らない映画のロケ地として最適の立地条件を備えていると語り続けているのです。
同じ言を言い続けて30年、やっと「ウラ屋島」が週刊誌などの活字になるようになったのです。まさに信念を持って言い続けた言葉が言霊となって現実になったわけです。 
 

 2004年に興行収入85億円の大ヒットを記録し、日本中を「セカチュー」ブームに巻き込んだ注目作品。
 まさに 映画は大衆に訴えるメデイアでり又娯楽ソフトは経済と文化をつなぐ主役の一つであると改めて認識させられました。  

  映画全編の解釈  はいろいろあっていいし、観る人の想像力によって違った愉しみ方が有ると思うのです。
  映画文化の豊かさを伝えるには難しい知識などなくても観てよかった、愉しかったという  原風景が素晴らしいと思うのです。

 そして観た人達の人生が少しでも豊かになればよいのです。
  映画「セカチュー」ではどのシーンでも意図的に泣かせようとか、力んで感動を与えようとす  るのではなく、物語の流れの中で

  セリフや情景が、観ている人たちの心に響いて自然に涙して  いるから、見終わってからも、さわやかな余情があるのです。
  人として生まれ死んでゆくとき、未練がましいことをいうのは未だ「悟って」いないのです。
  自分の生まれ育ったた土地環境に喜びを感じて、アキのようにサクに宛てた最後のテープで
 「アナタに逢えてよかった! バイバイ、、、」と縁のあった人々に感謝して自分の一生を楽しかったと思って去っていく、その事が

 仏法でいう「悟り」であり、願わしい心境なのです。
  仏法伝道者としての私見ですが、映画「セカチュー」は、純粋な愛情の素晴らしさはいつの時 代でも、年齢性別に関係なく誰

 でも感動するのだということを伝え又、人としての生き方、 命の尊さ、更に現代社会に適した「死生観」を我々自身が日常生活

  の中で見つけていくこと  の大切さを示唆(しさ)していると思うのです。              合 掌