フィリピンの激戦地・コレヒドール島の訪問慰霊記 | Making Our Democracy Work! 石井登志郎オフィシャルブログ Powered by Ameba

フィリピンの激戦地・コレヒドール島の訪問慰霊記

先ほどマニラから帰って来ました。今回は、以前から一度は行きたいと思っていたコレヒドール島に行く機会を作れました。マニラから高速船で一時間の、マニラ湾の入り口にある小さな島ですが、その重要な地理的条件により、日米のフィリピンにおける戦闘の中でも一番の激戦地となった島です。

 

たった9平方キロしかない小島でありますが、その戦死者数は一万人以上を数えます。日本軍だけでは4,500人以上とされています。特に敗色濃厚となり「I shall return.」の言葉通りフィリピンを奪還しに戻ってきたマッカーサー率いる米軍に追い詰められたコレヒドール島の3,000人にも上る日本軍は、無謀な作戦によって玉砕を余儀なくされます。日本軍戦死者の慰霊墓地には、20歳前後で散ることを余儀なくされた日本軍の若い兵士の名前が刻まれています。例え戦争に負けたとしても、死ぬ必要がなかった命があまりにも多かったことは、まさに為政者、司令官が責めを負わざるを得ないものです。政治家の責任は、極めて重いと改めて感じました。

 

元日本兵の野中義治さんと言う方の「コレヒドール島玉砕記」と題した手記には、以下のように記されています。

軍とは名だけ、まったくの無装備・無戦力のまま、いわゆる負けいくさの冷酷さとひあいのなかで玉砕した防衛軍将兵は五千人をこえる。

その全員が歓呼の声にゆうやく父祖の地をはなれ、じゅん国の意気もたからかに幾度かの戦いに死線をのりこえてきたつわものばかりであった。その歴戦の勇士たちが唇をかみ切るほどの無念さと、身をふるわせてもやり場のない焦慮のうちに、むなしく散華して行ったのである。

日本軍名「桜隧道」のマリンタトンネルの中で一瞬に戦没した三千数百人の将兵の中に「万歳」の声は一つもない。

断末魔の口から出る声は母の名であり子供の呼び名であった。

その戦況があまりにも凄惨であったがために、生存者の誰もが口に出しては言えなかったのではないかと思われる。

 

 

日本軍戦死者の慰霊墓地からほどない距離のところに、フィリピン政府によってつくられたフィリピンの独立に至る足跡をたどった施設があります。そこで私が見てショックを受けたのが、第二次大戦時の日本軍による残忍な様子を表した数十枚の絵画が掲示されていました。いわゆる慰安婦とするために強制連行しようとしている様子であったり、日本の軍人が農村で民間人の首をはねているような絵です。中国や韓国でなくフィリピンでも、70年前の歴史がこうした形で掲示されていることに、何とも言えない気持ちとなりました。

 

先般、来日したフィリピンのアキノ大統領が、日本との訪問軍地位協定(VFA)の可能性について言及したとされています。自衛隊がフィリピンで活動する可能性について、現実的な議論に入るとの指摘もあります。アキノ大統領にしてみれば、南沙諸島で傍若無人な振る舞いをする中国をけん制するためには、アメリカだけでなく日本の影響力も必要と考えてのことでしょう。現在、国会で審議されている安保法制の議論では、ホルムズ海峡での有事についてよく言及がされますが、実際の国際情勢としては、フィリピン(およびベトナム)との関係をどう位置付けるかの方が、よりリアリティが強いと思います。一方で、コレヒドール島を訪れて再認識しましたが、日本の背負う歴史の重さは今なお続いており、それに正面から向き合うことなく突き進むことは許されるものではありません。

 

無念の中に散り、南の島に眠る英霊に思いを来す、印象深い機会となりました。

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