今日は、実家のリノベーションの相談に行った。

 

そのあと、父と話をした。

 

それだけなのに、家の中が違って見えた。

 

ほんとの家の様子が見えたんだ。

 

自分では、前よりも普通に見えるようになってきた

 

ちゃんと見えてると思ってた。

 

 

 

でも、そこに、いろんな記憶の断面があって、

それをまだまだ同時に見てたんだ。

 

 

 

家の中は、ただ、広いスペースのある空間が広がってた。

 

廊下があって、その先に部屋がある。

父の本が並べてある。

 

それだけだった。

 

 

 

この視覚の変化はなんだろう?

 

本やドキュメンタリーに出てくる人の話が

より理解できるようになった気がした。

 

ある醜形障害のモデルさんは、

自分をとても醜く見ていた。

 

見えてる通りに見えていなかった。

 

それが、周りには理解されなくて、

いろんな誤解をうんでいた。

 

わたしは、醜形障害ではないけど、

家の様子を、小さい時のイメージのままで見ていたことに

あまり気がついていなかった。

 

 

 

知識としては、気がついていたし、

実際とは違うことは、わかっていたけど、

どうしようもない、仕方のないことだった。

 

 

 

ここまで、部屋のイメージが違って見えたのは、

初めてだった。

 

だから、より変化を感じられた。

 

こんなに普通の部屋なんだ。

 

 

 

他の人といるときは、その人にあわせ、

家の様子を普通に見えていたのだと思う。

 

自分の感覚の変化を感じられたことで、

より学んできたことが理解しやすくなった。

 

 

 

自分のことは、客観的に観察するのは難しい。

 

 

 

視覚の変化を言葉にすると、

 

時間が二重になってるような、

 

過去のフィルターの中から見てるような、

 

水中から空を眺めてるような感じ?

 

 

 

うまく説明できない。

 

当人にとっては、それはとてもリアルな体験で、

現実味がある。

 

そして、それが本当じゃないということも、わかっている。

 

 

 

同じ家で育った兄弟は、何も問題なく成長してるし、

わたしのような問題はない。

 

 

 

わたしは、普通より、とても敏感な赤ちゃんだった。

赤ちゃんのときの記憶もある。

 

社会人になり、普通に過ごしていたと思ったけど、

どこか無理があった。

 

 

 

繊細な部分を無理に普通の人にあわせて、

知らない振りをしたり、無理することで、

よけい疲れたり、他の人の感覚と一緒になったりして、

混乱もしていたように思う。

 

でも、やっかいな感覚として封印するのではなく、

客観的にその部分を学ぶことで、自分をより知ることができ、

強くなれた。

 

繊細だからこそ、より繊細に人に対応することもできる。

 

 

 

同じ繊細さを持っている人から

「それは、ギフトなんだよ」

って言われたのは、だいぶ大人になってからだった。

 

繊細さが弱さではなく、強さに変わった瞬間だった。