私のようにあの地この地と渡り歩く者には感じないのかも知れ

ませんが、地を拓き耕し、営々と豊潤な地に育てて、地とともに

生きてきた福島県浜通の人たち。


 そこが本当の故郷であるが故に易々と離れることを自分が許

せないと思うのはごく自然なことのように思います。

科学的に考えるとそこには住めないことは理解しつつも土地を

見捨てることは、自分の身だけでなく家族・自分史を消し去る自

死に等しいことでもあるのではないでしょうか。


 土ととも居てこそに未来があるのに。

原発事故はその地で善良に、未来を信じて生きてきた人々から

無慈悲に日常を破壊し、未来まで抹消してしまうモンスターなの

だと思います。

福島の方々の声が弱まりつつあるように私は思い始めています。海を隔てた地で何ができるか?


 最近、私自身も福島から離れ始めていると感じ、どうすべきか

考え直し始めているところです。

福島で困難中で闘っている人たちの声に、再び耳を傾け、当面

できることから始めるしかないとの思いになりつつあります。


 「それでも福島に生きる」人々の葛藤は、「フクシマ」と呼べる人々には伝わらないものかも知れないと感じてしまう微妙な距

離感がある」と書いた方に私もコメントを書きました。


 「福島に生きる」人々が、反原発を叫びつつも、福島の今を本

当に考えているのかという叫びだと私は思います。

そうした叫びをもっともっと大きな輪にしていくことが、私たちの

支援の中身なのだろう。


よく「フクシマでは未だ十数万人が避難生活を送っている・・・・・。

だから原発再稼働はやめるべきだ・・・・」


この主張は間違いではないけれど、福島の避難生活を強いられ

ている人たちをダシにする話はごめん被ると言われて返す言葉

はあるだろうか。福島の方々の思いに鈍感になりつつあるから、

平然と飛躍をしても距離感を感じなくなっているのではないだろうか。この距離感は放っておくと拡大していくだろう。

 今一度縮める努力を意識的にしなければならないと思う。

その第一歩は福島での闘いに連帯する行動を広げることではないだろうか。











            JR常磐線富岡駅前にて、2014年4月3日