9月4日、午前4時頃目を覚ました。穂高の眺望はいかに?と思い、小屋から出る。しかし、昨夜と変わらずでした。

 朝食は5時半、その前にコーヒーを注文したが、思いの外美味しかった。朝食には順番がなく、食堂にきた人達が積極的にご飯を盛りつけ、みそ汁やお茶を同じテーブルの方々のために用意してくださる。黙々と食べているが互いに連帯感を感じつついただく。

 

 朝食終了後、外が何かと慌ただしい雰囲気になる。外に出てみると雲が切れ始め、穂高や槍、前常念等の偉容が姿を見せ始めた。すぐ、寝床に戻りカメラを持ち出し、戸外に出た。

                                   

 

 「これが山だ」と高まる気持ちを感じつつシャッターをおす。

2500㍍前後に雲がたなびき、穂高連峰、槍ヶ岳の頂を際だたせてくれる。山そのものもいいが、山々にまとわりつく雲があって、一層山が際だつ。「これを見たいがために6時間の苦行に耐えてきたのだ」と自分を褒める。自分を褒めることの出来る感覚を実感することができるのが、山体験でもあろうか。

                                        

 

 頼んだ昼弁当をいただき、下山準備を始める。

同床の方はもう下山開始。スポーツドリンクを一本補給し、蝶ヶ岳頂上に向かう。頂上で普段はお願いすることがほとんどないが、自分を入れた写真のシャッターをお願いした。

 

 

 頂上で10分ほど、眺望を楽しみ、別れを惜しみ、そして下山路に入る。長塀山までは比較的平坦な山道をのんびりと歩く。

途中登山道を示すマークや赤布には、歩みを止めて確認しながら歩を進めるように心がける。一本道のようであるが、慎重に歩を進める。○○の池を過ぎ、「ああ地図の通りだ」と確認し、更に歩を進める。昨日、標高差1000㍍に耐えた膝や大腿筋の状況にも気を配りながら樹林帯の中をマイペースで下山する。

 約20年前、雨の中雨具を付けながらの下山場面を想起しようと心がけるが、その場面を呼び起こすことは難しかった。

 

 下山開始から3時間半を過ぎた頃から、大腿筋の疲労を感じるようになり、小休止の回数も多くなり始めた。次々と下山する方々を見送り、時には登ってくる人にも道を譲りながら小休止する。

 下山路でも、初めは蝶ヶ岳まで何キロの標識が多かったが、徳沢まで2キロの標識を見つけ、安堵の気持ちになる。

しかし、あと2キロが難行でもあった。ゆっくり、マイペースに心がけながら歩を進め、徳沢園の建物が見え始めた時、喜びを実感。

 

 徳沢の広場が天国のように見えた。

疲れているのだろうけど、疲労感や苦しさはない。

徳沢ロッジにたどり着き、預かった荷物を受け取り、ロッジのベンチをお借りして、着替えをし、「徳沢ビール」を飲み、昼食をとり、

リュックの入れ替えをし、午後1時過ぎ徳沢に別れを告げた。

 

 徳沢から明神へ向かう人々、みなさん元気いっぱい。

次々と私を追い越して行く。「バスの時間に合わせて急ぐのだろうか?」と思ってしまうほどだ。

ノートPCも入れたリュックの重さを肩に感じつつ、明神に辿りついた。上高地の今夜の宿、西糸屋山荘に電話を入れ、予約OKに安心。ソフトクリームで元気をつけ、明神橋を渡って上高地に向かう。午後2時前なので、敢えて長い距離である対岸コースを歩く。明神池や嘉門次小屋にも寄りたかったが、リュックの重さに負けてパス。このコースは木道が多く心地よい。

 

 上高地まで後2キロという地点のベンチに腰を下ろした。

私より高齢と思われる方も小休止し、会話となった。

この方は89歳とのこと。私の亡くなった兄より1歳うえだ。

急に親近感が湧く。5分少々の会話でしたが、二人切りの会話は心に残る。氏は若い頃肺を切除する病を患ったそうだ。

「年に一回でも、上高地の散策路を歩くのが、私の願いなのです。今回も来れたことをとても嬉しく思うのです」と語ってくれた。

そうしたご自分の願いを初対面同志で語れるのも上高地故かな?

と清々しい思いもした。

また氏は、私の兄の旧制中学時代の話に関連して

「旧制中学校、私たちが最後の予科練志願兵でした」とも語ってくれた。お名前も証さず、お互いに健康に留意し合いましょうと、別れた。心地よい邂逅であり、別れです。

 

 河童橋周辺は、やはり人が多い。何か別世界にきたようだ。

午後3時、西糸屋さんにチェックインし、早速コインランドリーに行った。言葉から推察して秋田県の女性のように思う。洗濯機は既に回転していた。本日の私の部屋にはまだ、宿泊者いなかった。8人部屋でした。西糸屋さんはこれで何度目だろうか?

1作年も西穂高の帰りお世話になった。

妻と一緒の時もお世話になった。4度めかな?