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セブ島の『宝物』の一つが『交通』だと聞いて不思議に思うかも知れません。

それは、セブ島でも日本でも、道路が市民生活とって欠かせない動脈であるのは当たり前だと思っているからではありませんか?

しかし、私自身の(団塊の世代ですが)子供の頃を思い出せば、家の前の道は、何より近所のこどもたちの遊び場でした。もちろん、母親たちの買い物のための通い道であり、通勤通学の道路でしたが、人が主人であって、車は、そういう人たちに注意して道を走っていました。

歴史を振り返ってみれば古来より、道とは、人と人、文化と文化、物産と物産が交流したロードであり、また生活するステージでもあり、そこでは人が主人公でした。

ところが現代では、道路は物資の輸送のためのインフラになってしまい、車は我が物顔で人を蹴散らしながら、しかも騒音と振動と排気ガスをまき散らしながら走っていて、人は車に注意しながら道路の端っこを歩かされています。

これが本当に進歩した文明なのでしょうか?経済優先と言う理念で人間が利潤の犠牲になっているのではと疑問に思います。また果たして、人が幸せに生きて行くために、これだけのモノが本当に必要なのでしょうか?

だから、せっかくセブ島にリゾートに訪れても、市内の交通渋滞や騒音や排気ガスには鈍感になって何も疑問に思わないと言うのは、現代人の脳が、現代文明に飼い慣らされて、勝手に自分は「リゾート」をしていると思い込んでいるのからなのです。

この現象は、明らかに人間文化の低下であり、人間性の退化にもつながる重大な事象なのですが、人間は都市化の中で、人工の環境に適応して行く中で人間らしい文化に不適応を起こしているのです。

写 真は、バンタヤン島のサンタフェで毎日繰り返されている道の交通の光景です。バンタヤン島では、町の主人公は人なので、道の主人も人だという常識がありま す。それでこの島では、車は人の通行を妨げないように注意して走行しますので、この島の道は、自ずから『穏やかな交通』の姿と成るのです。

私は、このバンタヤン島に来てから、人が住む町では人が主人公である暮らしを体験して、人間文化の感覚が徐々に戻って来て、道の主人公は人であったことを悟り、『穏やかな交通』の生活道路が『宝物』であったことに驚いたのです。


それでもし、あなたが、このバンタヤン島の道に出逢って、「穏やかな交通が普段行われている町で過ごす快感」が蘇って来なかったなら、人間性が退化してしまったと考えて間違い有りません。