今、大阪の森友学園問題の関連で稲田防衛大臣の教育勅語に関する国会答弁『丸覚えさせることに問題がある、と言うことはどうなのか』『教育勅語に流れている核の部分は取り戻すべきだ』が論争になっています。
また政府が質問主意書に対して『適切な配慮のもとに教材等で用いること自体問題ない』と答弁したことが余計に混乱を招いています。

この件は、しっかりと場合分けして、教育の現場で対応すべき課題です。

なぜならば、教育勅語を推奨する意味で教材として使用することは、国会決議で明確に「NO」とされているからです。

昭和23年6月19日、衆参両院は、衆議院「教育勅語等排除に関する決議」 参議院「教育勅語等の失効確認に関する決議」をいずれも本会議において決議(全会一致)しました。

例えば衆議院決議文はこう述べています。「既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。(中略)ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し…」と。

特に「国民道徳の指導原理」としている点は、ひとえに国会や行政、教育現場のみならず「国民の道徳規範としての教育勅語は排除する」ということを意味しており、また「これら詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観」であると明確に位置付けている点は、詔勅総体を排除することを意味しているのであり、教育勅語を「部分的だから、一部が道徳的だから」推奨することは、全会一致の国会決議において排除されたのです。

また、注目すべきは、本会議決議にいたる数日前の衆議院文教委員会(当時)における会議録では、当初の原案にあった「もとよりこれらの詔勅の内容は部分的にはその眞理性を認められるのであるが」という文言が「それは率直に削ることにした」と削除された経過が確認できます。
このことからも、部分的な眞理性の有無ではなく、教育勅語などの詔勅は、今後、公的機関のみならず国民の間でも排除することを決議したことは明らかです。

では「親孝行」「兄弟仲良く」「夫婦相和」は教育現場から排除されてしまうのでしょうか? それはナンセンスです。またそんな必要もありません。
教育勅語の有無に関係なく、これらは一般道徳として広く現代社会にも存在しており個々に強制はされないまでも、その徳目が教育現場で使用されること自体が否定されているわけではありません。
そして松野文科大臣が答弁している通り「歴史について理解を深める観点から」の教材利用、すなわち歴史事実を学ぶため、歴史を検証するため、ならば教材利用は否定されるものではなく、従来通り認められるべきです。

結論的には、教育現場において「部分的、であっても教育勅語を推奨する目的で教材として使用することは認められない。歴史事実を学ぶための教材としての使用は認められる。」ということではないでしょうか。

菅官房長官も記者会見で、同様の趣旨のことを述べていますが、平成26年にも自民党の下村文科大臣(当時)が「中身には今日でも通用する普遍的なものがある。この点に着目して学校で教材として使うことは差し支えない」と発言し、冒頭に記した稲田防衛大臣の答弁も出てきていることから、政府はあくまで教育現場における使用の解釈を統一するとともに、誤った使用方法があれば、過去に行ってきたように文部科学省による是正勧告を行うべきだと考えます。

いずれにせよ「部分的であっても推奨する目的では使用しない」ことを明確にする必要があります。

それにしても、籠池氏が幼稚園児に教育勅語を唱和させていたことは、国内外の大きな反響を呼んでいますが、籠池氏にとどまらず、見識を持たねばならぬ自民党の閣僚までもが、このように主権在君時代の聖典ともいえる詔勅を持ち出し、教育を語らねばならない理由は何なのでしょう? なぜ過去の権威を拝借したり、復古主義に流れてしまうのでしょう?

私たち日本国民は、誇るべき民主主義国家日本に生きています。

もし権力者たちが長期に権力の側に留まるがゆえに特権意識や忠君意識を強くしている傾向にあるならば、国民はいずれ権力者たちに従属することを強いられるかもしれません。

我が国が自由で民主的な国であり続けられるように、私たちはもちろん、与党議員こそが声を挙げるべきではないでしょうか。