ルクレティウス『事物の本質について』 | 松野哲也の「がんは誰が治すのか」

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治癒のしくみと 脳の働き

 フィレンチェの人文主義者ブラツチョリーは、1417年にドイツの修道院で、「事物の本性について」の著作物を発見した。ルクレティウス(共和ローマ期の詩人・哲学者  紀元前99年頃-紀元前55年)の長編詩の写本である。

 それがイタリアだけでなく、ヨーロッパのルネッサンス、さらには近代世界の展開全体に及ぼした影響がいかに大きなものであったかは、英語圏の文芸評論家グリーンブラットによって『1417年、その一冊がすべてを変えた』(柏書房)の中で語られています。

 

 

 ダンテが描いた中世の宇宙には当時のヨーロッパの社会が反映されており、それは霊的にかつ階層的に組織されていました。宇宙の中心は地球で、天球と地球は隔たったままであり、すべての現象が比喩によって目的論的に説明されていた。また、神と死は恐れられ、この世界の構造は、実際に存在する事物に先立つ永遠の形態によって決まっている、とされていたのです。

 ところが、ルクレティウスの世界にはそのようなことがありません。神への恐れはなく、この世界には意図も原因も存在せず、宇宙は階層状になっていず、地球と天は隔たっていない。そこには、自然への深い愛と穏やかな没頭があり、私たち自身が自然の一部であるという認識、男や女や動物や雲は素晴らしい全体の有機的な一部であって、一切階層は存在しない、という認識があるだけです。

 さらに驚くべきことは、ルクレティウスの詩のそこかしこに、ガリレオやケプラーやニュートンたちが理論を打ち立てる際に用いた概念のルーツがみてとれます。例えば、空間における直線運動。すべての根源である物質ー原子ーが存在し、それ等が組み合わされて複雑な現実世界を織りなすという発想。この世界の入れ物としての空間といった概念。

 そして何よりも、たとえ人生が有限なものであったとしても、穏やかで静かに暮らすことができる。なぜなら、私たちは、死の先に何も存在しないのだからこそ、死を恐れるべきではないのです。

 

 ルクレティウスの文書が再発見されたことで蘇ったこの精神宇宙のこだまは、さまざまな著者の記述に響き渡っていることがわかりました。ケプラーからガリレオ。ベーコンからマキャベリ―、モンテニュー、ニュートン、ドルトン、ダーウイン、アインシュタインに至る著作まで。

 

 

 

  事物の本性について』の第4巻の最後には、これまでに書かれたなかでタブーから最も解放された愛に関する荒々しい記述があります。愛を、最も野蛮で肉体的な根源へと引き戻した1節です。

 

  ついに二人が四肢を絡め、

  若さの花を楽しむとき、

  その肉体が来るべき悦びを予期し、

  絶頂に達して、女の畑にヴェヌス(ヴィーナス)が種をまく

      とき、

  二人は貪欲に互いにしがみつき、

  口の中の唾を混じり合わせ、  

  そして、唇を(互いの)歯に押し当て、  

  互いの息を吸う ー

  だがそれは無駄なことだ。

  なぜなら女の体からは何物も切り離せず、

  男が全身で女を貫き、

  その体に没入することはできないのだから。

 

 

 かってここまで愛の本質に、その苦悶に、その飢えに近づいた者がいたでしょうか。ルクレティウスは、愛をとことん裸にしたまさにその瞬間に、その名状しがたい本性をつかもうとしたのでしょう。

 

  しかしそれは、この長編詩の冒頭を飾り、全体を歓びで満たしている官能性でもあるのです。それを要約すると次のようになります。

 

  「おお、ヴェヌスよ、官能の神よ、あなたは春であり、太陽であり、欲望であり、動物の多産であり、大地の肥沃さだ。あなたを前にして、冬も、悲しみも、死も逃げ出す・・・・・あなたのためなら、広大な海も笑い、穏やかな空も果てしない光に輝く」。

 

  

 

  私たちはぐるぐる回っている。常に同じ場所で・・・・・・・。

  私たちの人生への渇望は貪欲で、人生への飢えは飽くことを知らない。

                   (第3巻、1080-84)

 

 

  ここには人間の一生のすべてがあります。原子も、宇宙も、物理的フィ-ルドも、見えるものも見えないものも、怖れも、死も、死に直面した人間の悲劇的な問いを前にした落ち着きも、宇宙の一生が形作る渦も ー さし込む陽光の中で踊りきらめく埃から、遥か遠くの無窮の未来におきるであろうこの世界の消滅まで。

 

 

 

 以上の記述は、レンマ的知性ではなく、AIやコンピュータが最も得意とする論理主体のロゴス的知性の範疇に属するものではないでしょうか。