「天国のお母さんの無念は私たちが晴らす」。大熊町から避難の末旅立った95歳~福島原発かながわ訴訟 | 民の声新聞

「天国のお母さんの無念は私たちが晴らす」。大熊町から避難の末旅立った95歳~福島原発かながわ訴訟

「福島原発かながわ訴訟」の第13回口頭弁論が22日午後、横浜地裁101号法廷で開かれ、福島県大熊町から神奈川県横浜市内に避難し昨夏、95歳で亡くなった母親に代わり、訴訟を引き継いだ次女(67)が意見陳述をした。大熊町では何不自由なく一人暮らしを謳歌していた母は、田村市内の避難所での過酷な避難生活を経てすっかり衰弱。要介護認定を受けるほどに。「家に帰りたい」。原発事故後、一度も自宅に帰ることが出来ずに旅立った母の無念を、娘たちが晴らすべく闘っている。次回期日は3月23日。



【かたいラーメンをかじった避難所】

 大正9年生まれのおばあちゃんにとって、避難所での日々はさぞかしつらかったことだろう。次女が語った「変貌ぶり」が、高齢者避難の過酷さを如実に物語っていた。

 「最初の避難場所で大熊町が手配したバスに乗り、あちこちを転々とした結果、3月12日にようやく田村市の避難所に入ることが出来たそうです」
 1976年、夫の退職を機に大熊町に自宅を建てた。同町を選んだのは、岩手県陸前高田市出身の夫が、大熊町に同じ「大野」という地名があることを懐かしく思い気に入ったからだった。夫は自治会長を務め、自宅の広間には多くの人が集まってにぎわった。震災の3年前に夫が先立つと、町内の墓地に眠る夫に見守られながら、一人暮らしを謳歌していた。生活の上で特段、不自由な点もなく「人生で今が一番のんきで良いよ、終の所として生きられるだけ生きていくよ」と話していたという。病院への送迎は近所の人がやってくれたが、寝たきりになるわけでもなかった。
 ところが、たどり着いた田村市の避難所は廃校となった小学校。体育館は既に避難者であふれており、保健室のような部屋に入れられたという。「6畳ほどの部屋に8人も詰め込まれ、寝返りも打てなかったと話していた」。

 2日ほど食事もとれず、ようやく配られたラーメンも水が出ないため調理することが出来るはずがない。そもそも廃校だから、水道が止まっていたのだ。「母は、かたいままのラーメンをかじるしかなかった」。水が出なければ当然、トイレもままならなかったという。
 こんな生活が、90歳を過ぎた高齢者に悪影響を及ぼさないはずがない。娘たちも母親の居場所を必死に探していたが、田村市内の避難所に身を寄せていることが分かったのは、ずいぶん後になってから。次女の夫と40代の息子が車で迎えに行くことが出来たのは3月26日。避難所での孤独な生活が始まってから、実に2週間が経過していた。

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天国の母親に代わり、法廷で意見陳述した次女。

「母の無念な気持ちを無かったことには出来ません」


【1度も帰宅できないまま天国へ】

 変わり果てた母親の姿に、次女は驚いた。

 「横浜に到着した母は衰弱しきっていて骨と皮だけになっており、涙が止まりませんでした」

 体力はなかなか戻らず、4月下旬頃まで寝たきりの状態が続いた。しかし、ようやく支え無しに歩けるようになったと思ったら、今度はリハビリ中に転倒して腕を骨折してしまう。そして原発事故から4カ月が経った2011年7月、とうとう要介護度3と認定された。周囲の支えがあったにせよ、大熊町では一人暮らしが出来ていた。その後、要介護度は4へと進行し、2012年5月には特別養護老人ホームに入った。
 次女は言う。「本当なら最期まで母を自宅で看てあげたかったです」。しかし、母親と同じように次女の身体にも大きな負担がかかっていた。仕事を辞め、献身的に母親の世話をしているうちに体調が悪化し「家族共倒れになりそうでした」。夫や息子、横須賀に住む妹も協力してくれたが、ストレスは想像以上だった。母親が老人ホームに入ってしばらく後、今度は次女が硬膜下血腫で手術を受けたのだ。手足や言語機能に障害が残らなかったのは何よりだった。
 「母は、原発事故で住む所を奪われ、自由気ままな生活も奪われ、交流のあった方々とはもう生きているうちに会えないだろうと寂しい思いをしながら避難生活を続けていた。そのような母を見るのは本当につらく切なかったです」
 2014年2月には要介護度5にまでになってしまった母親は2015年7月5日、終の棲家と決めた大熊町に1度も帰ることができないまま、天国へと旅立って行った。享年95。普通なら「大往生」と笑顔で見送られるのだろうが、哀しい「震災関連死」だった。原発事故がなければ、今年も大熊町で楽しい正月を迎えていただろう。しかも、母親の遺骨は横浜市内の墓地に埋葬された。夫は強制避難区域に指定された大熊町の墓地に眠る。原発事故は、連れ添った夫婦の亡骸までも引き裂いたのだ。

 「母亡き後、その無念な気持ちを無かったことにはできませんので、私たちきょうだい4人は、この訴訟を引き継ぐことにしました」

 大熊町は母親だけでなく、子や孫にとっても大切な「故郷」だった。「母を失ったのみならず、いつも帰る場所だったふるさとを失い、私たちは皆が集まる場所を失ってしまったという喪失感でいっぱいです」

 勇気をふりしぼって法廷に立った次女の姿を、天国の母親はきっと頼もしそうに見守ったに違いない。
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この日の口頭弁論で弁護団は、津波による全交流

電源喪失の予見可能性や避難の合理性について

主張した=横浜市中区・波止場会館


【前年には共有されていた浸水の危険性】

 この日の口頭弁論で、弁護団は津波の予見可能性と避難の合理性について論じた。

 栗山博史弁護士は、保安院の担当者間で2010年3月に交わされたEメールを紹介し、貞観地震と同じような規模の地震が再び起きれば、福島第一原発が浸水し、全交流電源喪失を引き起こす可能性があることが十分に分かっていたと主張した。Eメールには「防潮堤を作るなどの対策が必要になると思う」、「福島は、敷地があまり高くなく、もともと津波に対しては注意が必要な地点だが、貞観の地震は敷地高を大きく超えるおそれがある」などと書かれており、遅くとも震災の1年前には浸水の危険性が共有されていたことを伺わせる。栗山弁護士は「なぜ津波対策が先送りされたのか、国や東電は責任を問われるべきだ」と述べた。
 一方、小賀坂徹弁護士は「原告らは、放射線の影響を避けるため、自らや家族の命と健康を守るために避難している」と避難の合理性を主張。「原告らは低線量被曝の健康影響について客観的に判断したのであって、単なる『不安や恐怖』という主観のみに基づいて避難しているわけではない」と強調した。また、このようなたとえで避難の合理性を示して見せた。

 「雨が降って濡れそうだ、という不安ではなく、既に雨が降って濡れているから避難しているのです」
 原告団は秋以降、東京など他の訴訟と同様に、専門家の証人尋問や原告本人の尋問でさらに低線量被曝の健康への影響や国・東電の責任を立証していく方針。原告団長の村田弘さん=南相馬市小高区から避難中=は、国や福島県による住宅無償提供打ち切り決定に怒りを示しながら「震災関連死と呼ばれる方々の無念さを、私たちは腹に据えないといけない」と呼びかけた。
 次回期日は3月23日14時。横浜地裁101号法廷で開かれる。


(了)