民の声新聞 -8ページ目

【原子力空母】継続される横須賀の母港化。「東京湾の原子炉」に市民はYES?NO?

原発再稼働が議論される中で、忘れられている「もう一つの原子炉」が東京湾にある。横須賀基地を母港とする米海軍の原子力空母だ。2008年9月に「ジョージ・ワシントン」が配備されてから7年。今秋にも「ロナルド・レーガン」へ交替する。「米軍基地は観光資源」、「単なる交替で機能も同じ」と住民説明会も開かず静観する横須賀市に対し、市民グループが「1万人市民アンケート」を開始。日米両政府に市民の本音を届ける。「トモダチ作戦」での汚染への懸念も拭えないまま、市民は原子力空母を歓迎するのか?



【住民投票条例案は2回とも否決】

 「この街の主人公は私たちだ」

 10日夕、横須賀市内で開かれた集会で、市民グループ「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」の新倉裕史さんは語気を強めた。「吉田雄人市長は『単なる交替であって新しい事態ではない』と言うが、米軍基地の固定化・恒久化につながります。この先もずっと、横須賀に原子力空母が居座り続けるのです」

 「成功させる会」は、1万人を目標に横須賀市民へのアンケートを実施。①横須賀に配備されている原子力空母が、今年後半に交替することを知っているか②原子力空母に関する米軍、日本政府や横須賀市の安全対策をどう思うか③横須賀に原子力空母が配備されていることについて賛成か反対か─を問う。自由意見を記入する欄も設け、消極的容認派の葛藤が少しで多く寄せられることを期待しているという。あわせて市内5カ所で地域集会を開催。市の危機管理課長も出席して、住民の質問に答える。2013年8月に調査会社に委託して実施したアンケートでは「賛成」30.3%、「反対」37.9%、「分からない」31.8%だった(回答者1000人)。

 実は通常型空母から原子力空母に交代するのを機に、市民グループは母港化の是非を問う住民投票を行うべきだと直接請求した。一回目が4万1511筆、二回目は5万2438筆の署名を集めたが、横須賀市議会は2007年2月の本会議で賛成10、反対31で住民投票条例案を否決。2008年5月にも賛成8、反対33、退席1で否決している。

 今回のアンケートでも「賛成」が多数を占める可能性があるため、会のメンバーには慎重論もある。しかし、他市から転居してきた新住民など無関心層にも原子力空母の存在を知って欲しいという想いが強いという。中心メンバーの一人は「いろんな意見があって良い。皆で考えることが大事」と話す。呉東正彦弁護士も「原子力空母の交替を黙って眺めることは出来ない。現状で出来る最善のことをするんです」と語った。
20150511_102924.jpg
20150511_102758.jpg
原子力空母の横須賀母港化に関する「1万人市民ア

ンケート」を始めた「原子力空母母港化の是非を問う

住民投票を成功させる会」。関係者は「原子力空母

の母港化はやむを得ないが本当は嫌だという市民

の本音を掘り起こせるかがカギ」と話す



【母港化「市長が反対したら日米問題」】

 米空母が横須賀を母港とするようになったのは1973年10月の通常艦「ミッドウエー」が最初だ。その前年の1972年9月に開かれた晩餐会の後、時の横須賀市長・長野正義は在日米海軍司令官・バーク少将から空母母港化を持ちかけられる。「空母ミッドウエイが、横須賀をホームとし家族を居住させたい。それは国防費削減の考えから、海軍艦艇の本国帰投回数を減ずるためであり、協力願いたいということであった」(長野正義著「横浜・横須賀六十年 私の歩んできた道」より)。

 即答を避けた長野市長に対し、米海軍側は翌日、横須賀商工会議所の会頭を通じて「追浜の制限水域を解除するから空母ミッドウエイの寄港と家族居住を認めるかどうか、市長の内意を聞きたい」(同)と持ちかけてきた。市長はこれに先立ち、外務省でアメリカ局長から「政府としては家族居住は安保条約上認めたいと思うので協力して欲しい」、「原子力空母の寄港は現在全く考えられていない」と打診を受けていた。

 当時の心情を、長野氏は著書の中で次のように述懐している。

 「市長・長野が拒否するとしたら…まず追浜地先の埋立てはできない。ひいては、他の多くの接収地返還も遅延したり縮小されたりするだろう。更に考えねばならないことは、横須賀市は、米海軍のもっとも重要な基地なるが故に、市長が空母ミッドウエイの母港化を拒否することは、日米両国間の重大な問題となる…ただ家族を居住させたいということで、空母ミッドウエイ母港化反対は唱え難い…空母ミッドウエイが横須賀をホームとし家族を居住させることを認めて、追浜・久里浜・衣笠武山地区約269万㎡をもらうのが、横須賀市の将来のため得策だと考えたから取り引きしたと言う外はないと肚を決めた」

 市議会は「空母母港化反対の決議を無視している」と長野市長を責めたものの、1972年11月の本会議で「空母母港化・艦船修理部共同使用反対」の意見書を反対23、賛成22で否決。12月の本会議でも空母母港化に反対する請願を反対22、賛成22のところを議長採決で不採択と決定した。かくして、横須賀市の空母母港化容認は決定し、以降「インディペンデンス」、「キティホーク」、「ジョージ・ワシントン」と計4隻の米空母が横須賀基地を母港としてきた。当初の政府の見解は「3年間」だった。
fakuto_14.gif
sandiego1.jpg
(上)外務省が2006年に作成した「米海軍の原子力艦の

安全性~空母キティホークから空母ジョージ・ワシントン

への交替に向けて~」では、「原子炉の事故は一度も起

きていない」と強調されている

(下)2006年8月、当時の蒲谷亮一市長が訪米。太平洋艦

隊航空コマンド司令官から「優秀な乗組員の選抜や、日

常訓練、原子炉の安全管理の徹底などを申し入れ、米海

軍側から確約を取り付けた」という

写真はいずれも、横須賀市HPより

【「米軍基地は観光資源」と吉田市長】

 横須賀市は一貫して静観の構えを崩さない。
 吉田雄人市長は、市議会で「原子力空母の母港撤回を国に求めるべきではないかという御質問をいただきましたが、そのような考えは持っていません」、「市民の安全・安心を守るべき立場の地元市長として、基地に起因する諸課題についてしっかりと取り組み、これからも言うべきことは言うという姿勢で、国に対して強く発言してまいりたい」、「現在では横須賀といえば基地というように、横須賀の知名度を上げていることも事実です。この基地のイメージをマイナスのものとして取り払うのではなく、その認知度を逆に生かして、マイナスイメージをプラスにしていこうと、基地そのものを観光資源としていかしていこうという取り組みを実施しているところです」などと答弁。

 記者クラブとの定例会見でも、原子力空母の交替に関する住民説明会を実施しない理由について「現段階で申し上げるならば、同型艦ということであるのが大きな理由です。諸元もすべて一緒という状況ですから」と答えている。
基地返還を「可能な限り」求めていくのが基本姿勢だが、あくまで「可能な限り」。声高に基地存在の是非も空母母港の是非も論じない。「事故は起こりえないが、起きてしまった場合の対策は講じている」と市側は強調するが、事故時のマニュアルなど現実には機能しないことは、福島の原発事故で証明されてしまった。
 集会で呉東弁護士は「トモダチ作戦に参加した『ロナルド・レーガン』は福島で高線量被曝し、乗組員が訴訟を起こしている状態。本当に除染できれいになっているのか」と語ったが、地元サンディエゴではこんな声を耳にしたという人もいる。

 「甲板、機械、戦闘機など、いくらやっても除染しきれるものではなかった。事情を知る市民から『すでに汚染されている日本に返せばいいだろう』と言われるようになった…」
 様々な問題を抱えた原子力空母が間もなく、横須賀を母港とする。新倉さんは言う。「もはや軍事力が決定権を持つ時代ではない。横須賀市民はそろそろ、勇気を出して米軍基地にNOと言っても良いのではないか」。


(了)

【4年目の福島はいま】「これからは悲劇を光に変えたい」~葛藤抱きながら母子を描く伊達市の画家

黒や赤で放射線に貫かれた子どもを描いたあの頃。画家は葛藤が続いているという。渡辺智教さん(40)=伊達市霊山町掛田=は、初心に帰ろうと自主避難先から帰郷。黄色や緑色を基調とした優しい絵を描き始めた。「原発被害者のかわいそうな画家」でなく、「怒りをストレートに描く画家」でもなく、原発事故という悲劇を「光」に変えたい─。再出発を機に、4年間を振り返ってもらった。



【明るい絵にも「3.11」の影がある】

 自宅の一角に設けたアトリエには、優しくわが子を抱きしめる母親を描いた作品が並んでいた。マスクをしたわが子の頬に、そっと手をあてる母親の姿は、渡辺さんの原点とも言える作品。改めて2年ぶりに改めて描いたが「マスクをしていることに意味があるのです。原発事故は収束なんかしていないのですから。僕の絵には必ず、『3.11』『福島』の影があるのです」。

 霊山町に生まれ育ち、福島東高校から早稲田大学教育学部へ。漫画研究会に所属していたことはあったが、「美術の成績はずっと『3』でした」。父親との軋轢もあり、うつ病で大学を休学したことも。その際、レシートの裏面に動物の絵を描き始めたことがきっかけとなった。アルバイトをしながら絵画教室に通い、デッサンとイラストレーションの勉強をした。

 母子や動物を描き続けていたところに、予期せぬ大地震と原発事故。画家として、本能的に原発事故後の子どもたちを描いた。黒や赤を基調とした当時の絵は、原発事故がもたらした被害を鋭く伝えている。「まだ手探りの最中です。葛藤しています」。画家として表現者として、どのように福島の状況を発信していくか。見る人が後ずさりせずに伝えるにはどうすればいいか。模索している毎日だ。
20150321_093950.jpg
20150321_094102.jpg
避難の末、初心に帰ろうと故郷に戻ってきた渡辺さん。

温かいタッチで子どもの命の大切さを訴えていく

=伊達市霊山町掛田


【黒い絵は時に人を傷付ける】

 今年に入り、避難先から福島に戻ってきた。「画家として初心に帰るためかな」。原発事故直後、原因不明の体調不良が続いた。頭をよぎったのは被曝への不安。当事者として多くの市民運動に参加し、避難先の兵庫県では地元の人々の前で福島の状況を話すこともあった。「原発事故に対する怒りのエネルギーで突っ走ってきました。でも、怒りを吐き出すことに疲れてしまったんです」。

 福島から離れて、県外の人々がどこかで他人事としてとらえていると感じてしまう事があった。無関心に対するいら立ち。原発事故が起こした「怒り」は、倒れた幼い子どもが放射線に貫かれている絵、「ぼくたちは〝モルモット〟なんですか?」というコピーとなって表現された。それらはインターネットで拡散され、時に誹謗中傷の対象にもなった。

 「黒い絵は、そこに込められた波動の力が大きすぎます。時に見る人を傷付ける。ただ叫ぶだけ、吐き出すだけでは『作品』とは呼べない」

 当時の感情を否定はしない。見る人が引いてしまうような絵を描いていて良いのか。他人をなじることも、それはそれで自ら〝放射線〟を放っていることになっているのではないか…。自身の怒りの源が、幼い頃の父親からの抑圧であったのではないかとも感じた。転機になったのが2013年6月、沖縄を訪れたことだった。

 「福島に対する無関心と言うけど、僕たちも沖縄に対して無関心だったんですよね。捨て駒の福島、捨て駒の沖縄…」

 広島や長崎にも行った。そして決めた。「原発避難者である絵描き」、「かわいそうな絵描き」ということで自分を売り物にするのはやめようと。ただ、これだけは譲れない。「原発事故後の体調不良。その自覚症状を経験していない人に、僕の絵を評価されたくはない」
20150321_094344.jpg
20150321_094352.jpg
原発事故直後に渡辺さんが描いた作品には赤や黒

が使われ、被曝の危険性をストレートに訴えていた。

「当時の感情は否定しないけれど、これでは怒りを

吐き出しているだけ。作品とは呼べない」と振り返る


【誰にも裁けない県外避難の是非】

 市民運動から離れることにした。「デモに参加しない人の中にも、脱原発を訴える人は多いですからね」。かといって原発事故の被害、とりわけ被曝の危険性を否定しているわけではない。「親が子どもを必死に守ろうとしていることは、風の記憶に子どもに、しっかりと残っています。放射線防護に取り組むことが正しいのか、福島県外に避難することが大げさかどうかなんて、誰にも裁けませんよ」。

 放射能というフィルターを通して福島を見ると、すべてが美化されてしまうようにも映るという。「『福島』は自分を特別視させてしまう」とも。放射能というフィルターを外してこそ見えてくる原発事故後の福島。それをどう表現していくか。昨年はスランプでほとんど描けなかったが、少しずつ見えてきたものがある。

 「僕たちの世代で悲劇を光に変えたい」

母親がそっと手をあてるわが子の絵から、一日も早くマスクが外れる日が来ることを願って。



(了)

「専門家の話を真に受けていた」~原発ゼロ訴えるも、在任中の原発推進は詫びぬ小泉純一郎元首相

巧みな話術は健在。「専門家の言葉は嘘だった」と聴衆をする元首相はしかし、在任中の原発推進に関して最後まで詫びなかった─。東日本大震災から丸4年となる11日、小泉純一郎元首相(73)が福島県喜多方市内で講演し、「原発ゼロ」「再生可能エネルギーの推進」を訴えた。「原発は安くて安全」という専門家の進言を「原発の技術に疎く、真に受けていた」という小泉氏。脱被曝には言及せず、福島県民への謝罪も無し。雪の中、孫の被曝を案じて駆け付けた母の想いは、元首相の胸には届かなかった。


【「福島の事故で嘘に気付いた」】

 「この雪で中止になると思ったが、こんなに大勢来ていただいた」。さすが、絶大の人気を誇った元首相。何を言えば聴衆が喜ぶか心得ている。「よくも、未だに政府が嘘をついているなと呆れますね」。原発再稼働を進める安倍政権を斬ってみせた。

 小泉氏の言う「原発の嘘」とは①絶対に事故を起こさない②一番コストが安い発電③地球にやさしいクリーンエネルギー。
 「お前は首相在任中、原発を推進してきたじゃないか。今さら原発ゼロを訴えるのは無責任だ、と批判を受けている」と自ら切り出した小泉氏。在任当時を「原発の技術に疎く、専門家の話を聴いて『そうかなあ』と真に受けておりました」と振り返り、4年前の福島第一原発の事故を見て「専門家の話は全部嘘だと分かった」と語った。

 「原子力規制委員会の田中俊一委員長ですら『安全とは申し上げられない』と言っている。原発は、ひとたび事故を起こせば大変な事になる。人が住めなくなる。事故を起こしてはいけない産業なんて、常識的には出来ないだろう」と再稼働の流れを批判。コストに関しても「こんなに金のかかる原発産業を一番安いなんて、よく言えるね。電事連も直そうとしない」、「6000人もの原発作業員の防護服は毎日、交換しないといけない。その費用だけでも大変だし、処理方法も決まっていない」と話した。

 原発の安全基準についても「日本が一番厳しいと言うが、アメリカやフランスなどと比べてどこが厳しいのか誰も語らない。逆に、世界の人々は『日本の原発はテロに一番弱い』と言っている。呆れますね」と斬って捨てた。

20150311_220537.jpg
20150311_220030.jpg
「『原発は安全で低コスト』という専門家の話を真に

受けたが、全部嘘だった」と語った小泉純一郎元首相。

福島県民への謝罪は最後まで無かった

=喜多方プラザ文化センター


【「再稼働で核のごみ増える」】

 講演では「核のごみ」についても言及した。

 「一昨年、フィンランドのオンカロ(高レベル放射性廃棄物の最終処分場)に行ってきました。『オンカロ』は、フィンランドでは『隠れ家』や『洞窟』という意味のようですが、今や最終処分場の代名詞になってしまった」、「岩盤で出来た島に建設中なんですが、地下400mに2km四方の広場を造って保管する。それでも、わずか2基分しか収容できない。絶対に掘り返してはいけないと掲示をすると言っても、その言葉を10万年後の人類が読めるかどうか真剣に議論されている」などと語った。

 日本における最終処分については「私が総理の時に処分地を決めなかったのは政治の怠慢だと言われた。原発を再稼働させれば核のごみは増えるわけで、再稼働せず『もう、これ以上は増やさない』と宣言した方が(候補地住民の)理解を得られるのではないか。政府主導で最終処分地を決める時代じゃない。呆れちゃいます」と話した。
 原発に代わるエネルギーについては「代替案を出さないのは無責任だと言われるが、一人では出せるものではないし、出すべきでもないと思っている」と話し、「原発産業は全部、沿岸にある。冷却のために大量の海水を吸い上げるが、プランクトンも一緒に吸い上げてしまうため生態系を変えてしまう。死骸がパイプを詰まらせるために塩素系の薬品を使うし、温水を海に戻す。クリーンでも何でもない」と批判。原発政策をやめるよう訴えた。

20150311_222231.jpg
20150311_222406.jpg
(上)原発事故は、汚染廃棄物の「焼却・減容」という

新たな問題を住民に突き付けている

(下)小泉氏は福島県内を隈なく巡り、「脱被曝」にも

思いを馳せて欲しい=福島市大波地区


【「脱被曝」と「脱原発」は同じ事?】

 「原発ゼロでも停電していない」、「原発ゼロ社会は必ず今より良い社会になる」、「日本人は常にピンチをチャンスに変えてきた。やればできる」などと再生可能エネルギーへの転換を訴えた小泉元首相。講演を主催した会津電力の佐藤彌右衛門社長を「もう原発はやめよう、子や孫に安全な社会を作ろうと努力されている」と持ち上げてみせた。
 だが、国のトップとして原発政策を推進してきたことへの謝罪は無し。原発事故でいまだに子どもたちが被曝の危険にさらされていることへの言及も無かった。講演後の会見では、政治部記者らから安倍政権への想いや戦後70年の談話問題などに質問が集中。私が「子どもたちの脱被曝についてはどう思うか」と質問すると、足早に車に向かいながら「同じ事だ。対策という意味では同じ事だ」とだけ答えた。

 娘が郡山市内に嫁いだという喜多方市内の女性は「確かに喜多方は原発からの距離があるけれど他人事じゃない。郡山の孫はもうすぐ小学生。被曝していないか心配です。本当はどこか遠くに避難させたいけれど…」と会場で表情を曇らせた。「だからこそ、小泉さんに先頭に立って頑張ってもらいたいんです」とも話したが、肝心の元首相は子どもたちの被曝問題にはあまり関心は無いようだ。

(了)

【4年目の福島はいま】出口見えぬ里山汚染。田村市の原木シイタケ農家が失った「山の恵み」

「出口が見えないんだよ」。30年以上、原木シイタケの露地栽培に取り組んできた宗像幹一郎さん(64)=田村市船引町=は言う。味も大きさも自信のシイタケ。だが、「50ベクレルの壁」が立ちはだかる。叶わぬ出荷。再びお客さんに喜んでもらえるのは5年後か?10年後か?─。未曽有の原発事故から今日で丸4年。「復興」「前向き」だけでは語れぬ現在進行形の汚染被害が、福島にはまだまだある。


【基準値下回らない「ほだ木」】

 「原発事故直後に比べれば、表面的には前に向かって進んでいます。その点では4年前とは大きく異なります。でも、私個人としては何ら変わっていない。自信とこだわりを持って届けてきたシイタケを売ることができないのだから」

 自宅横の里山に組まれた1000本のほだ木を前に、宗像さんは静かに語った。

 福島県内で購入したナラのほだ木は当初、20ベクレルだった。木を砕いて、おがくず状にして測定。50ベクレルを下回れば栽培に使用できることが、福島県の「安心きのこ栽培マニュアル」で定められている。だが、購入して2年を経た昨年10月、測定結果は130ベクレル。基準値を大きく上回った。木は表皮が一番セシウム濃度が高く、芯に近づくにつれて下がる傾向があるという。かといって、表皮を剥いでしまっては菌がそだたなくなってしまう。

 「土から吸うのか降り注ぐのか、メカニズムは分からないが…。結局、露地栽培では、ほだ木を50ベクレル以下に管理することなんて現実的には無理なんですよ。これが福島の里山の実態なんです」。副会長として切り盛りする「福島県原木椎茸被害者の会」のメンバーも、軒並み50ベクレルを上回った。田村市以外の、出荷制限区域外でも結果は同じだった。シイタケを育ててきた愛着ある里山。原発事故直後の土壌汚染は1㎡あたり1万~1万5000ベクレルあった。少し離れた都路地区の仲間の山は5万ベクレルにも達していた。

 わずか4年では、かつての「恵みの山」には戻らない。空間線量だけでは伝わらない汚染の現実。実際、宗像さんの傍らで、手元の線量計は0.15μSv/h程度だった。「空間線量が下がったからといって安全だと言えますか?この環境で、本当に子どもたちが安全に暮らせるのでしょうか」。
20150311_054225.jpg
20150311_054327.jpg
自宅横の里山に組んでいるだけで130ベクレルに

汚染した宗像さんのほだ木。桜の季節に向けて

シイタケも順調に育っているが、仮に100ベクレル

を下回ったとしても出荷は叶わない


【「里山の汚染は過去の話ではない」】

 「露地栽培が無理なら、施設栽培に切り替えてはどうか」。失礼を承知で、あえて尋ねた。しかし、これは愚問に過ぎなかった。

 「ハウスで管理すれば確かに楽ですよ。でもね、自然の中で育ったシイタケと人工のものでは、質が全く違うんです」

 こだわり続けた露地栽培。だからこそ、胸を張って、お客さんに届けることが出来た。今なお「基準値を超える放射性物質が検出されても良いから、宗像さんのシイタケを送って欲しい」という声が届くのが、何よりの証だ。福島第一原発から38kmの里山に降り注いだ放射性物質は、宗像さんのこだわりをも打ち砕いた。

 年齢の問題もある。「後継者がいるのであればまだしも、64歳を過ぎた私が、広大な土地や設備投資をするための多額の資金を用意することは難しい。10年後は74歳。元気なうちはシイタケの出荷は無理かな…」。

 あきらめて、賠償金を受け取るだけの生活を続けることもできる。「それでは悔しいからね」と宗像さん。里山の現状を伝えていくことをライフワークにしようと決めた。2013年9月には、シイタケ農家の仲間たちとチェルノブイリを訪れた。ゴメリ州のリンゴ農家の言葉が忘れられない。「事故から27年経っても、ゴメリ州で収穫されたというだけで買ってもらえない」。里山の除染など不可能であることも良く分かった。帰国後、札幌や東京で写真展を開き、シイタケ農家が置かれた状況を訴えた。「風評被害を助長するからやめろ」という声もあった。だが、もっと哀しかったのは、原発事故の風化を実感させられるような来場者の言葉だったという。

 「福島に対する関心が薄れているんですよ。写真展の会場で『あの頃は大変でしたね』と声を掛けられました。『あの頃』じゃない。『今も』なんです。汚染は現在進行形なんです」
20150311_064150.jpg
20150311_064223.jpg
(上)汚染が確認されたほだ木は、里山の一角に

保管されている。朽ち始めているが、搬出先も費用の

請求先も何も決まっていない。

(下)大きく育ったシイタケを割ってみせてくれた宗像

さん。「大きい?いやいや、こんなもんじゃないよ」と

笑ったが、「元気なうちは市場に出せないだろう」とも


【首相は汚染された里山にこそ来て】

 テレビをつければ「復興」「復興」の大合唱。汚染の現実など、「後ろ向き」な言葉を口にするのは難しくなっているという。

 「復興と言うけれど、原発事故前の山の状態に戻すことは出来ない。これまで、里山で山の恵みを得て生活をしてきたが、4年経っても何も変わらない春ですよ」。前向きな話題だけで良いのか。葛藤は続く。

 「だって、ようやく4年ですよ。4年分のデータがようやく揃った段階。山の汚染はいつまで続くのか予想できないんだ。山に対する考え方が…甘いんだな」

 秋には、都内の大学で学園祭に参加することが予定されている。当事者だからこそ語れる汚染の実態。報道だけでは伝わらない里山の現実を若い学生たちにどうやって伝えようか、楽しみにしている。

そして、政治家にも伝えたい。

 「目に見える、分かりやすい場所ばかり訪れて福島の汚染が解消されたと思わないで欲しい。地味な場所にも足を運んで欲しい。もちろん、安倍さんにもね」

(了)

【4年目の福島はいま】葛藤抱え再開した畜産農家、汚染で乳牛手放した酪農家~伊達市霊山町下小国

福島県中通りの中でも汚染が酷い伊達市霊山町の下小国地区。肉牛の生産を再開させた男性は「実害と「風評被害」のはざまで揺れながら事業を再開させた。特定避難勧奨地点の指定から外れた酪農家は、乳牛の生産に見切りをつけた。福島第一原発の事故から4年。為政者が目を逸らす現在進行形の苦境が、ここにもある。


【「実害」と「風評被害」のジレンマ】

 肉牛が一頭ずつ車に乗せられていく。男性(60)は手伝おうとしたが、身体が動かなかった。「これは夢なんじゃないか、と思いましたね。目の前で日々展開していくことが現実の事として受け入れられなかった」。本来なら50万円は下らないが、福島で生産されたというだけで買い取りを拒否される中、「タダでもいい」と頭を下げて一頭10万円で買い取ってもらった。「牛舎に置き去りにして餓死させるは忍びなかった。殺したくなかったんだ」。2011年3月20日。原発事故から一週間ほどで、88頭いた肉牛がいなくなった。

 霊山町で生まれ育ち、県立福島農蚕高校(現在の明成高校)を卒業後は、肉牛の生産一筋の人生だった。休日は年に1-2日。遠出をしたのも、バレーボールで知り合った妻との新婚旅行と娘の結婚式くらいだった。牛を手放す時の哀しみは想像を絶する。

 すぐに就学前の3人の孫を連れて愛知県へ避難した。「孫を被曝させないのは、じいさんとしての務めだよ」。福島市南部に暮らす娘夫婦は、仕事の都合で避難できないと反対した。妻も乗り気でなかったが、原発事故前からチェルノブイリ関連本などを読んでいたこともあり、行動に迷いはなかった。戻ってきたのは昨年4月。孫は福島市には戻したくなかった。戻すにしても、宮城県内の小学校に入学させるなど被曝の危険性から遠ざけたかった。「娘夫婦なりの考え方もあるからね。私が無理矢理首を突っ込むわけにはいかない」。孫は何としても守りたい。葛藤は今も続いているという。

 事業を再開して1年。肉牛は48頭にまで増えた。「こんな小さな規模でも、事業再開には5000万円はかかる。賠償金は半分も課税されるから手を付けられない。かといって、還暦を過ぎたじいさんに融資してくれる金融機関などない。金の工面が本当に大変だった」。そして、世に言う「風評被害」へのジレンマ。「実害ですよ。放射性物質が降り注いだのは事実。風評ではありません。5年10年ではなくならない。でもね、生産者がそれを声高に言ってしまうと完全にアウトですよね。誰も買ってくれない。売れなければ生活は立ち行かなくなる。難しいですね…」。

 別れ際、男性は「賠償金をもらっている人たちのことを理解して欲しい」と切り出した。「多額の賠償金を受け取って遊んでいるように見えても、それぞれの事情がある。浪江町から避難して本宮市の仮設住宅に避難している姉はうつ病になりました。仕事もせずに遊んでいるように見える人ほど、実はつらいんですよ」。
20150309_201510.jpg
20150309_201700.jpg

肉牛の生産を再開した男性に贈られた孫からの祝福

のメッセージ。東電からの賠償金は半分が税金として

徴収されるため「事業の再開に必要な数千万縁を工面

するのは本当に大変だった」と表情を曇らせた


【酪農家の怒り。「賠償など進んでいない」】

 久しぶりに訪れた牛舎は空っぽになっていた。鉄くず業者に売れるものはすべて処分し、大型重機が残っているだけだった。「元々儲かっていなかったところに原発事故。これ以上、ここで続けて行くのは無理だと息子は決断したんです。これからはアスパラガスの生産一本でやっていきますよ」。牛舎跡を見渡して、妻(59)は言った。
 同い年の夫は、この地で代々酪農を営む三代目。息子は四代目として期待されていたが、今年に入り北海道の洞爺湖町へ移住した。現地で酪農を続けていくよう模索しているという。「夫は残念だったでしょうし、今も納得していない。でも、30歳を過ぎてここで酪農を続けても先が見えないし、これだけ汚染された土地に嫁に来てくれる女性なんかいないでしょう。そういう意味では良かったと思いますよ。そりゃ、傍にいて欲しかったけど…」。

 問題は乳牛の売却価格。特定避難勧奨地点に指定された近所の農家と、売却単価に差があるという。「今さら指定しろと言っても仕方ないから、せめて差額を東電に補填してもらいたい。ADR(裁判外紛争解決手続)に申し込んだけど遅々として進まない。東電は交渉のテーブルにつきたくないんだろうね。私らは東京でもどこへでも出向くから話を聴いてほしいと言っているのにね」。

 わずかな数値の差で特定避難勧奨地点に指定されなかったことから始まり、国や行政と闘い続けた4年間。これからもそれは続く。「何が復興だよ。何が外国の王子だよ。何が東京オリンピックだよ。ニュースを見るたびに本当に腹が立つよ。何も進まないじゃないか」。

 中学校の同級生だった夫。酒を飲み、荒れることも少なくない。ストレスからか、眠れぬ夜を明かしたことも。安倍晋三首相の言う「復興」を女性が実感できるのはいつの日か。「ゴールデンウイークの頃にはアスパラガスが収穫できるから、ぜひおいで。美味しいよ」。可愛らしい笑顔が救いだった。
20150310_055645.jpg
20150310_060010.jpg
いまだ汚染が解消されない伊達市霊山町下小国地区。

ある酪農家は乳牛を全て売却した。「特定避難勧奨地

点に指定された農家との売却価格の差額を、東電に

請求していきたい」と語る


【「安倍首相は小国を見て」】

 「復興?まだまだですよ。原発事故はまだ終わっていないんです。もう4年。でもまだ4年ですね…」

 40代の主婦は苦笑した。

 3月11日が近づくと、判で押したように震災や原発関連の報道が急増する。「でも、多くのメディアが取り上げるのは分かりやすい場所ばかり。浜通りであったり、津波被害の大きかった岩手や宮城であったり…。小国にも取材に来て欲しいですよ。安倍首相にも来てもらいたいですよ」。
 「復興」のから騒ぎより、目の前の汚染をどうするか。「風評被害」の言葉より、実害とどう向き合っていくか。ひとたび原発事故が起きれば、同心円で語れない被害が拡大する。しかもそれは、4年程度では解消されない─。小国地区を訪れるたびに現実を突きつけられる。


(了)

放射線防護は過去の話?。もはや争点にならない福島県中通りの首長選挙~本宮市長選、きょう投開票

任期満了に伴う福島県・本宮市長選挙はきょう、投開票される。中通りの真ん中に位置し、二本松市と郡山市にはさまれる同市には依然としてホットスポットが点在するが、有権者、特に子育て世代は「放射線を意識していてはここでは生活できない」と口を揃える。福島第一原発の爆発事故から3年10カ月。放射線防護は〝過去の話〟となったのか。


【「被曝を気にしていては生活できない」】

「放射線?放射線云々で投票する人を決めることはないねえ」

JR本宮駅近くで焦点を経営する60代の女性は苦笑交じりに言った。「市長には街を良くしてもらいたいのよ」。平日の午前中。「商店街」とは名ばかりで、人の往来はほとんどない。休日の午後も、マイカーが少し行き交うばかりで買い物客でにぎわう商店街の姿は見られない。

「この前、親戚から干し柿をもらったんだけど、測ったらきっとアウトだろうね。でも食べちゃったよ。一度に100個も食べるわけでは無いし、食べたい気持ちと我慢してストレスになることを比べたらねえ…。放射線を気にしていたら、本宮では生活できないよ。ここの商店街で、いま放射線のことを話題にする人はいないね」。

 商店街近くには阿武隈川の支流が流れ、保育所や病院がある。河川敷の土手は地域の人々の散歩道となっているが、手元の線量計は0.5μSv/hに達した。商店街でも場所によっては数値が0.3-0.4μSv/hを示す。それでも、女性は「気にしていない」と言う。「子どもたちは30歳を過ぎてるけど、全く気にしていないよ。むしろ、甥っ子や姪っ子が住んでる地区の方が危ないんじゃないかな。裏山に神社があって、自宅周辺の放射線量が高いらしいから」。

 JR本宮駅の西側にある市立まゆみ小学校。授業を終えた子どもたちの下校時間だったが、通学路で手元の線量計は0.3μSv/hを超えた。しかし、放射線から身を守るためにマスクを着用している小学生はいない。


(上)今日、投開票される本宮市長選。放射線防護は

争点にはならなかった

(下)原発事故から間もなく丸4年になるが、1.0μSv/h

を超す個所も依然としてある=本宮市高木


【福島産の食材「逆の安全」】

 JR本宮駅から東に1時間ほど歩いた旧白沢村。東北楽天の二軍戦でも使われる野球場やサッカー場、浪江町の仮設住宅がある。2012年7月にオープンした屋内遊び場「スマイルキッズパーク」は、昨年11月に利用者が10万人を超え、屋外遊び場も併設された。「土日は子どもたちでいっぱいになりますね。平日も14時を過ぎると、幼稚園帰りの子どもたちでにぎわいます」。昼休憩を前に片付けていた女性スタッフは話した。

 わが子を遊ばせていた30代の母親は苦笑する。「市長選ですか?あー関心ないですね。誰がなっても同じだし…。放射線がまだ存在していることは分かっていますが、全然気にしていないです」。屋内遊び場を利用するのも放射線を避けるためではなく、寒さや積雪が理由だ。
 一家で栃木県内に避難していたこともあった。夫は本宮市内の勤務先まで栃木から通った。「栃木県内だって決して放射線量は低くないですよね。福島にだけしか放射性物質が降ったわけでは無いのですから。かといって、福島のようにモニタリングポストが街中に多く設置されているわけではないじゃない。食材にしたって同じ。福島産の方がきちんと検査をしているから、逆に安全じゃないかと思うんですよね。だから戻って来たんです。」。そして、就学前のわが子3人を前に、奇しくも先の女性と同じように言った。

 「放射線を気にしていては、ここで生活することなんてできませんよ」

 一緒にわが子を連れて来ていたママ友が大きくうなずく。「最初の頃は少し警戒していたけれど…。私は避難すらしていません。今では日常生活の中で放射線を意識することはないですね」。

 選挙カーが候補者の名前を連呼している。食堂を経営する女性は「若い世代の人にこそ関心を持って欲しいし、若い候補者も出て欲しかった」と話した。


(上)市立まゆみ小学校の通学路は0.3μSv/hを超す

(下)2012年7月にオープンした屋内遊び場「スマイル

キッズパーク」の利用者は10万人に達する


【「心配な人はとっくに避難した」】

 会津地方出身の30代女性は本宮市の夫と結婚、生後6カ月になる娘の子育て中。駅前商店街で「市長選挙?あんまり関心は無いけど、一応、各候補の訴えを見て投票には行くつもりです。放射線?もう全然ですね」と苦笑した。

 「確かに以前は、なるべく西日本で作られた野菜などを買うようにしていましたが、もうやめました。4年近く経ったし、被曝を気にしていてはストレスになるだけですからね。私たちは結局、行き場が無いんですよ。本宮で生活するしかない。避難すると言ったってどこに行けばいいのでしょうか?もう本宮で放射線の存在を意識している人はいないんじゃないですか。心配な人はとっくに避難しているだろうし、もう戻ってくることも無いでしょうから」

 これが本宮市民の平均的な考えなのかもしれない。商店街から徒歩で10分ほどの場所では手元の線量計は1.0μSv/hを超した。しかし、考えてもストレスになるだけ…。放射線防護への議論は低調なまま、次の4年間のかじ取りを担う市長が選ばれる。

(了)

〝採算度外視〟のコンビニが担う避難住民の帰還促進。汚染は放置して公費で誘致・造成~田村市都路地区

福島第一原発事故による放射能汚染に翻弄され続ける田村市都路地区。避難住民の早期帰還を促そうと、地区初のコンビニが22日にオープンする。過疎化が急加速する〝限界集落〟での営業が始まった、採算度外視の店舗。追加除染はせず、公的資金を投入してまでコンビニを誘致した国や行政の姿勢に、地元住民からは「ハコモノは要らない。まずは汚染からの復旧を」との声も聞かれる。


【「売上目標など立てられない」】

 静かな山村に華々しいファンファーレが流れた。関係者がテープカットを行うと、店内は開店を待ちわびたお年寄りたちであっという間に一杯になった。〝目玉商品〟の卵や牛乳が飛ぶように売れる。買い物を終えたお年寄りたちは、口々に「これで船引まで買い出しに行かずに済む」と都路地区初のコンビニを歓迎した。

 「早期帰還の弾みとなることを期待している」、「早期帰還が一段と進むよう、全力で取り組んでいく」。復興庁副大臣の浜田昌良参院議員(公明)は、開店セレモニーの挨拶で「早期帰還」と何度も口にした。公務で欠席した田村市の冨塚宥暻市長も、「昨年は田村市の復興が大きく前進した。避難住民が安心して帰還できるよう、今後も支援していきたい」とのメッセージを寄せた。

 実はこのファミリーマートは、国や行政の強い要請で出店が決まった経緯がある。都路地区では今月1日現在、930世帯、2673人が生活しているが、同社常務取締役の和田昭則開発本部長は「正直なところ都路は採算が合う環境ではなく、本来なら出店しない立地条件」と明かす。店舗前の国道288号線の交通量はまばら。深夜も休まず営業するものの、「売上目標など立てられない」(和田開発本部長)状態。

 それでも出店に踏み切った背景を、和田本部長は「社会的責任」と説明したが、原発事故を機に地区外へ移り住んだ住民たちを一日も早く帰還させるシンボルとしたい思惑が大きく作用していることは、複数の関係者が証言している。実際、浜田副大臣もこう話した。「出店にあたり、用地の造成費用は私ども(復興庁)が助成させていただいた」。

20150121_173713.jpg
22日の開店を前にセレモニーが行われたファミリー

マート田村都路店。地域初のコンビニにレジ前はお

年寄りの長い列ができた。国や行政は避難住民の

早期帰還を促すシンボルにしたい考えだが…


【危機感と過疎化解消で続く葛藤】

 そんな思惑とは裏腹に、地元の受け止め方は複雑だ。

 田村市都路行政局の男性職員は都路に生まれ育った。「現状が決して安全であるとは言えない」と話す。市は「宅地や田畑の除染は完了した。基準値(0.23μSv/h)をほぼ下回っているので、追加除染の予定はない」との姿勢だが、「依然として0.5μSv/hを超えるような個所もある。私の自宅もそうだ」という。「判断は住民個々で違う。正直なところ、どの数字が正しいのか、どのレベルなら安全なのか分からなくなってしまっている。行政としては数値を明らかにして判断してもらうしかない」と苦渋の表情を見せた。

 原発事故で過疎化が急加速した都路地区。古道小学校の全校生徒は約60人。岩井沢小学校に至っては30人に満たない。「いわゆる〝限界集落〟です。子育て世代が戻らなければ集落の存在自体が無くなってしまう」。その上で「現実問題として58%の方々が都路に戻って生活をしている。昨年4月には学校も再開した。避難を続けている方への支援も戻った方々の生活支援も両方必要。コンビニが出来れば、食料品の調達は地元で出来るようになる」と話した。
 「帰還促進と言うけれど、コンビニが出来たからといって戻って来るとは思えない。私だって『コンビニが出来たのなら戻ろう』とは考えない。そんな簡単じゃないよ」。そう話すのはコンビニを切り盛りしていくことになる女性店長(34)だ。自身、小学校4、5年生の2児の母。「都路に帰りたい」というわが子の言葉を受けて昨年4月、船引から故郷に戻ってきた。「避難生活は子どもには窮屈だったかな。都路に戻っても、原発の真横で生活するわけではないし…。どこまで心配したら良いのか分からない」と複雑な想いを口にした。「ただ、今回の出店で『都路に戻ったってコンビニ一つ無いじゃないか』という言葉は無くなると思う。これまで本当に不便だったから」。

 先の男性職員は「原発事故は現在進行形だ」とも話した。「燃料棒取り出しも続いているし、常に家族とは万一の時の避難経路などを話し合っている。危機感とジレンマの中で生活しているんですよ」。副大臣らが考えるほど、地元住民の想いは軽くない。


都路地区にとって原発事故は現在進行形。「コンビニ

が出来たから戻って来い」と国や行政が言うほど住民

たちの想いは軽くない


【「徹底した測定と除染を」】

 ファミリーマートの和田開発本部長は「出店にあたって放射線への懸念は無かった。現に住んでおられる方々がいる以上、不安は一切ない」と強調したが、地区内にはホットスポットが点在しているのが現実。「都路は8割以上が未除染の山林」(田村市職員)であるため、宅地除染を実施しても放射線量の低減が難しい。「なぜ税金を投入してコンビニを造ったのか。コンビニが出来れば当然、利便性が高まるし、誘致自体が悪いわけではない。でも、順番が違うだろう。まずは原発事故前の状態に戻すべきだ。復興より復旧だよ」。避難生活を続ける50代男性は話す。

 「若者が戻らないのは汚染に対する不安があるから。若者が戻らないのに、なぜ復興が進むのか。戸別に徹底した測定をして、0.23μSv/hを上回るようなら追加除染をするべきだ。帰還云々はそれからの話」3人の子どもの父親として、帰還一辺倒のやり方には怒りが収まらない。そもそも、なぜ衣料品も揃えたスーパーではなくコンビニだったのか。「ファミリーマートは本当に採算の合わない経営を本気で続けるのだろうか。24時間営業したって、夜間は人件費がかかるばかりだろうに」。不信感も募る。

 地元商工会が出店に全面協力した形になっているが、関係者の一人は「なぜあの場所で、なぜコンビニだったのか。こんなの本当の復興じゃない。一部の人が儲かるだけ。メディアは本当の事を伝えて欲しい」と利権の存在を示唆した。コンビニが完成した場所には震災前まで飲食店があった。土地の造成に
時間がかかり、その費用は国が負担した…。憶測も飛び交う。

 「都路には放射性廃棄物の焼却炉建設問題もある。鮫川村の問題が解決していないのに…」と話す人も。「合併した時は良かったけれど、今となっては都路は田村市の〝お荷物〟なんだろうなあ」。

 開店セレモニーでは、内堀雅雄福島県知事のメッセージが代読された。「復興のシンボルになることを祈っている」。福島県内150店舗目のファミリーマートは今日、オープンする。

(了)

今は昔の原発事故。「意識しない」「考えたってしょうがない」~福島の新成人が語る放射線

東日本大震災から3年10カ月目となる11日、福島県内で一足早い成人式が開かれた。新成人たちに放射線のことを尋ねると、一様に返ってくるのは辟易した表情と「心配していない」の答え。原発事故から4年近くが経ち、福島で暮らす若者にとって汚染はもはや過去の話になったのか。20歳の新米ママもこう言った。「考えてもしょうがないですから」。


【「福島を離れたくない」】

 1歳4カ月になるわが子の無邪気な笑顔に、新成人パパの表情も思わずほころぶ。福島市の国体記念体育館。数多くの新成人の中に、2組の夫婦がいた。
 昨年2月に結婚した夫婦は、9月に誕生したばかりの娘を抱いて出席した。「放射線ですか?全く意識しないですね。子どもが生まれる前も今も、それは変わりません」と工場勤務の夫。妻も「産むまでは少し気にしていたけれど、考えてもしょうがないですからね。県外避難ですか?考えたこともありませんね」と口を揃える。共に福島市出身。ふるさとで娘の成長を見届ける。「可愛いでしょ?モデルにしようかな」。父親はうれしそうに笑った。

 もう1組の夫婦は、子どもが1歳4カ月。「俺は放射線のことは全く考えたことがないですね」と父親が話すと、傍らの妻が「えー」と苦笑した。

「私はできることなら県外避難したいです。何十年後かに、この子の身体に影響が出ないか心配ですから。でもね、避難するにもお金が無ければできません。それにこの人の仕事もあるし…」

 夫とて、放射線の影響を一度も考えなかったわけではない。原発事故当時は高校1年生。サッカー部に所属していたが、顧問はグラウンドでの練習を命じた。マスク着用が推奨され、屋外活動が制限されていた時期。「アホかと思いましたよ。やりたくなかった。でも、そうもいかないですよね」。除染作業に従事していたこともある。「4年経って薄れてきたかな。放射線も自分の意識も」。そしてもう一つ、ふるさとへの募る想い。実は、それが一番大きいのかもしれない。

 「離れたくないんですよね、福島を」
20150111_173056.jpg
1421000367286.jpg
共に新成人となった福島市の夫婦。もうすぐ4カ月に

なるわが子を抱き成人式に出席。「放射線を意識し

たことはない」と口を揃えた=国体記念体育館


「今さら怖がったってしょうがない」

 地区ごとに分散開催された伊達市の成人式。

 梁川中央交流館に集まった新成人たちに取材に来たと声を掛けると、振袖姿の女の子たちが目を輝かせてこちらを向いた。しかし、放射線に関して尋ねた途端、彼女たちの表情は急速に曇り、1人また1人と去って行った。1人だけ残った女の子が、うんざりした表情で吐き捨てるように話す。「伊達市は警戒区域じゃないし、放射線を意識したことなんてありません。なったものはなったものなんだから、今さら怖がったってしょうがない。受け入れるしかないじゃないですか」。

 友人と出席していた男性の職業は「除染作業員」。「17の時から福島市でやってますよ。金ですよ金。会社は儲かってるんじゃないですか」と笑顔で話す。「線源はありますよ。0.2μSv/hは超えるなあ。地表真上できちんと測れば0.1ってことはないっすよ。仕事で毎日測ってっから。自宅?自宅の数値は分かんねえなあ。あくまで仕事だから、自分の身体を守るなんて考えたこともねえなあ」。

 友人の男性は、こうも言った。「意識が低い分だけ、宮城や栃木などの周辺県の方が危ないんじゃないですか」。自分たちにとっては、もはや放射線防護は過去の話ということか。新成人たちの様子を笑顔で見守っていた交流館スタッフの男性は「安全かどうかまだ分からない」とつぶやいた。

 「モニタリングポストの数値だって、本当の数値が公表されているか分からない。心配して気をつけて、それで将来、何も影響が出なければそれで良いんだよ。ちゃんと防護しないと」
1420999647075.jpg
1420999714067.jpg
(上)伊達市梁川町、ヨークベニマル裏手の駐車場で

0.5μSv/hを超した

(下)成人式会場には放射線対策のための募金箱も

設置されていた。市に寄付されるという


【「もう大丈夫かな…」】

 原発事故後、4回目の成人式。被曝回避に努めているという新成人は皆無だった。

 「被曝の危険性を全く考えないわけでは無いけれど、それよりも『地元が好き』みたいな。福島のことを悪く言われるのは嫌だけど、こちらが気にしなければ良いだけですからね」(伊達市、女)

 「学校の授業でも当時から大丈夫だと先生が言っていたし、一度も心配したことはないですね」(福島市、男)

 「初めの頃はマスクをしたりしたけど、これだけ時間も経ったし、もう大丈夫かな」(福島市、女)

 「大学進学で東京へ出ました。こうして里帰りすると、モニタリングポストを目にしたりして『まだ原発事故は終わっていないんだな』とは思うけれど、数値が高いとは思いませんね」(福島市、男)

 わが子の晴れ姿を撮影しようとカメラを手に会場を訪れた福島市の夫婦は「自宅周辺の放射線量が低いから、被曝の危険性など考えたこともありません」と口を揃えた。「原発事故直後は少し高かったけど今は0.2μSv/h未満ですから。避難する必要もない。でも、世間の人は福島市は汚染されて危険だと思うんでしょうね」と夫は苦笑した。

 式典では、福島市の小林香市長が新成人を前に次のように語った。

  「命を大切にする街づくりに取り組みたい」



(了)

パン職人が怒りの閉店「子どもを守らない政府や行政、業界に抗議」~東京・西荻窪の廣瀬満雄さん

「抗議の閉店」。パン職人は苦渋の決断をした。子ども達を被曝から守るために─。福島第一原発事故以降、「ベクレルフリー」を掲げてきた東京・西荻窪のパン店「リスドォル・ミツ」が30日夕、閉店する。子どもたちを逃がさず「食べて応援」「福島は安全」ばかりを強調する国や行政。ベクレル検査もせずに料理を提供する外食産業…。経営者の廣瀬満雄さん(63)は、「店を閉じれば売名行為にもならない。今後もますます脱原発・脱被曝の声をあげていきますよ」と力を込める。


【つきまとった「売名行為」の中傷】

 「政府、行政のやり方が尋常ではないですよ。実に酷い」

 閉店を控えた忙しい最中、廣瀬さんは吐き出すように怒りを口にした。

 「チェルノブイリ基準でいけば、事故のあった原発から半径280km圏内は、強制避難区域にするべきなんだ。もちろん、東京も含まれる。だから福島県全域に鉄条網を張り巡らせて人の出入りを禁じるくらいでいい。それが出来ないのなら、せめて中通りと浜通りの住民を全面的に疎開させるべきなんです」

 地域経済の都合で大人は残らなければいけないのであれば、せめて子どもたちだけでも疎開を。未来を担う子どもたちだけでも被曝の危険から遠ざけたいと常に考えてきたが、実際の施策は逆行している。「国は有名タレントを起用して『食べて応援』などと宣伝する。東電は東電で、汚染水を海に垂れ流している。このままでは国が滅びてしまいますよ。私は左翼ではありません。むしろ愛国主義者なんです」

 汚染が福島だけの問題とは考えていない。「原発事故直後、店舗の雨どいは100μSv/hくらいありました。西荻窪だってホットスポットはあるんです。でも公表されない」。せめて自分が売るパンはきちんと検査をした食材で作りたい。そう考えて取り組んできた。店舗の前には「ベクレルフリー」と大きく表示し、検査結果も掲示した。営業しながら発信し続けるという方法もあるが、何を言っても「結局は、自分のパンを売りたいだけの売名行為ではないか」との誹謗中傷がつきまとう。「物を売っているから正論を言っても叩かれる。自分も宣伝になるのは嫌だから、じゃあ、閉店して退路を断ってものを言おうと考えたんだ。繁盛している最中の閉店はインパクトも強いしね」。

 独りだけの抗議行動は〝焼け石に水〟なのは分かっている。しかし、多くのお客さんでにぎわう店を閉じることで、食にかかわっている者としての想いを世間に伝えたかった。まさにパン職人が命をかけた〝抗議の閉店〟なのだ。
1419837774756.jpg
1419838009394.jpg
国や行政への抗議の意味を込めて店を閉じる廣瀬

さん。JR西荻窪駅近くの店舗には、閉店を惜しむ

ファンからの花束が飾られていた


【福島の弟子が悩む〝村八分の恐怖〟】

 福島では、2人の弟子が開業している。電話で話をすると「脱被曝を言いたい。ノンベクレルを掲げたい。でも、そんなことをしたら村八分にされてしまう」と苦悩を打ち明けられる。「もの言えない空気」は年々、濃くなっているという。

 叩かれる相手は同業者であり、食材の業者であり、そして消費者。「福島でいろんな人に話を聴くと、ほとんどの人が『逃げられるものなら逃げたい』という想いを口にする。でも、それを言わず、何事も無かったかのように生活している。国や行政が安全だと言っている以上、そうせざるを得ないんだね」。

 そんな苦悩を知ってか知らずか、大手パンメーカーは食材を検査していないという。「パンの主要食材は小麦粉、牛乳、バター、水、卵です。しかし、どこも検査などしていませんよ」。食材の原産地の表記も無し。それは外食産業や弁当などの中食産業も同じだ。「現状を一番喜んでいるのがバイヤーですよ。国が安全だとお墨付きを与えているから、福島の広大な農地で栽培された野菜を二束三文で買い叩いていく」。
 消費者も、時間の経過とともに原発事故を忘れて行く。「『のど元過ぎれば熱さ忘れる』は良くも悪くも日本人の国民性だけれど、今回はその悪い部分が徹底して出てしまったね」。

 3月には64歳になる。自身にまだ孫はいないが、孫の世代のことが本当に心配だ。子どもたちを守らずして、この国の未来はないと考えるから。実は、米国の友人から「ロスに来ないか」と誘いも受けた。「ミツ、まだ日本にいるのか。あれだけの事故があったのに信じられないよ」と。だが、日本に残って声をあげていく道を選んだ。「福島に住む60歳以上の人々は、もっと腹をくくってものを言って欲しい。自分の孫を守れなくてどうするんですか」。
1419837862298.jpg
1419837963502.jpg
外部機関で1ベクレル以下であることを確認した食材

だけを使ってきた。福島でも弟子が開業しているが

「同じことをしたら村八分にされてしまう」と憤る


【妻は賛成。「あなたらしい決断」】

 抗議の閉店は、1年ほど前から考えていた。夏ごろ、想いを妻に伝えたが反対はなかった。「むしろ、賛成をしてくれました。あなたらしい決断ですねって。別に貯えがたくさんあるわけではないけれど、妻は『スーパーのレジ打ちでも何でもやります。生活の心配はいりませんよ』と言ってくれた」と目を細める。

 愛着ある店舗。店名は「輝くユリ」からとった。30日午後5時に幕を閉じる。店舗で配られた挨拶文にはこう、綴られている。「今まで可愛がってくださったお客様に申し訳ない」、「凄く無念であり、残念至極です」。

 通信販売は既に完売。店舗には連日、多くのお客さんが訪れる。「さびしくなるわね」と女性客。店員の女性は「涙が出ちゃうから、閉店の話はしないで」と泣き出しそうな表情になった。

 少しのんびりしたら、腹部に見つかった大動脈瘤の手術が3月に予定されている。7年前には脳梗塞を患っているため手術のリスクは7割と高いが、「残りの3割に賭けたんです。でもね、私の命なんてどうなったって良いんですよ。福島に残っている子どもたちと、その昔、ガス室の前に裸で並ばされていた人々と何が違いますか?。私にできることは何かを考えました。それが反旗を翻すことだったんです」と廣瀬さん。「もし、生きて帰って来られたら、今まで以上にますます声をあげていきますよ」と力強く話した。



(了)

「お母さん、動いてくれてありがとう」~原発事故で少年が強いられた「被曝」「転校」、そして「給食」

福島第一原発の爆発事故で被曝や転校を強いられた伊達市の少年(11)が、学校生活や放射能汚染に対する想いを1年8カ月ぶりに語ってくれた。考えたくない放射能。福島県産の米を避け持参するご飯。そして母親への感謝─。「原発のせいで学校も友達も奪われた」と憤る少年はしかし、大好きなお母さんにこう言った。「被曝回避のために動いてくれて、ありがとう」

【「何で原発があるんだろう」】

 「友達がたくさんできたよ。学校が楽しい。側溝とかヤバそうなところには近づかないようにしているけれど、外で遊べるしね」

 少年の目が輝いていたことに、私は少しだけほっとした。

 福島第一原発の爆発事故で避難・転校を強いられたことを、少年は「一瞬で学校も友達も奪われた」と振り返った。通っていた小学校では、放射線量が3ケタになることもあった。通学路も高濃度に汚染され、母親は福島県外への避難を口にするようになった。何度か転校を勧められるたびに、当時7歳の少年は「絶対に嫌だ」と号泣した。幼いわが子の〝抵抗〟に母親も泣いた。

 まずは比較的放射線量の低い地域へ引っ越した。小学校へは、市が用意したタクシーで通った。そして昨年4月。4年生への進級を機に、通い慣れた小学校を離れることを決めた。「本当は、転校なんかしたくない」。転校を控えた春休み、やや緊張気味に話していた。あれから1年8カ月が経過した。少年が新しい学校できちんと居場所を作っていたのが何よりだった。

 「もちろん、転校なんかしたくなかったよ。でも、お母さんのことは全然恨んでいないよ。人じゃなくてこういうことになった状況を恨んだかな。何で原子力発電所があるんだろうって」

 少年は分かっていた。両親が放射線防護をしてくれていることを。「もっと宅地除染を」と、自分たちのために行政と闘ってくれていることを。「もちろん、ここだって決して放射線量が低いわけではないと思う。でも、今まで住んでいた場所よりはうんと低いから」。決して多くは語らない。iPadを操作しながらだが、それでも、次の言葉だけは私の顔をしっかりと見つめて言った。

 「お母さんには感謝してるんだ。もしこれが逆だったら『どうして避難させてくれなかったの?』って思ったかもしれない」
1418968653921.jpg
1378.png
(上)少年が通っていた小学校は、除染後も側溝は

1μSv/hを超えていた
(下)かつての自宅周辺には仮置き場が次々とできた

=いずれも2014年1月撮影


【学校給食のご飯は食べず持参】

 日常生活では、放射能について考えないようにしているという。「だって、考えちゃうとここで暮らせなくなるじゃん」。しかし、否応にも被曝の問題が少年に迫ってくる。その一つが学校給食だ。

 伊達市は、地産地消を推進する観点から、学校給食に福島県産の米を使っている。仁志田昇司市長は、原発事故直後の2011年6月の時点で「伊達市民が福島県の農業生産者の作る作物を信用できないとなれば、他県民が信用できるはずはないのではないでしょうか」、「当然使う福島県産の食材というのは検査されたものであって、大丈夫なものなんです」などと市議会などで発言。安全性を強調してきた。公表している検査結果も「検出せず」。しかし、少年は母親の用意したご飯を持参し、おかずだけを他の児童と同じように食べている。

 「理解してくれる友達もいるけど、でも放射能が理由で給食のご飯を食べないとは言えないな。尋ねられたら、仕方ないから『ちょっと家庭の事情で…』と答えるようにしてるんだ」

 難しい大人の事情は分からない。でもどうして、わざわざ福島の食材を使うのだろうという素朴な疑問は晴れない。せっかく被曝の心配が低い土地に移り住んだのに…。「まるでいじめだよ」。ぽつりと放たれた少年の言葉に、私は言葉を失った。「行くところ行くところ悪いようにされて、俺の日頃の行いが悪いんじゃないかって思うよ。ここが駄目なら福島県外に行くしか無くなっちゃう」。

 それでも少年は、ご飯持参をやめない。牛乳も飲んでいない。

 「やめないよ。お母さんの言う通りにしていれば安全なんだ」

 「市民に寄り添う」と言い続けている仁志田市長は、少年の言葉に何と答えるだろうか。
1419025983418.jpg

20141219_073934.jpg
伊達市は地産地消を推進する観点から、学校給食に

福島県産の米を使用している。仁志田市長は「検査済

みで安全」と胸を張るが、少年はご飯持参を続けている。

上は伊達市役所のモニタリングポスト。


【現実は現実として受け止めたい】

 放射能のことなんて考えない方が良いに決まっている。今年9月、山形県での保養プログラムに参加した時は、スタッフが一度も「放射能」という言葉を口にしなかったことがうれしかった。地面に寝っ転がることもできる。「本当に開放感があった」と笑顔を見せた。

 「もちろん、現実は現実として受け止めなければいけないと思うんだ。汚染をまったく気にしていない親もいるしね。だから、こういう取材を通して多くの人にきちんと考えて欲しいんだ」

 実は一度、市教委に直接、電話で抗議をしたことがある。転校を決断した背景には、行政によるタクシーの通学支援打ち切りがあった。しかし、渋々ながら転校を決めた直後、市側は決定を翻して通学支援の継続を決めてしまった。「通学支援が無くなるというから転校を決めたのに…」。身勝手な大人への怒りは今も収まらない。

 汚染の度合いは以前の住まいよりも低いとはいえ、手放しで安心できる状況ではない。通学路や学校周辺でホットスポットが見つかることも珍しくない。幼心に、それは十分に分かっている。「この辺りは全体的に放射線量が低いから、除染をきちんとやれば住めるようになるとは思う」。だから、行政に除染を求める母親の姿は頼もしく映る。「でも、たまには放射能のことを忘れて僕と話しをしたり一緒にテレビを観たりして欲しいな」。新しい学校にすぐに馴染めたのも、友達をわが子と同じように扱ってくれる母親の存在が大きかったという。

 「お母さんのこと、大好きだもんね」という私の言葉に、少年は小さくうなずいた。愛犬が少年に飛びついた。


(了)