民の声新聞 -7ページ目

【原発PR看板】署名を無視し撤去決めた双葉町。標語を考案した大沼さん「負の遺産として現場保存を」

福島県双葉町に設置された原発PR標語の看板が、撤去の危機に直面している。「原子力/明るい未来の/エネルギー」。小学生の頃に標語を考案した大沼勇治さん(39)=茨城県古河市=は「負の遺産」として現場保存を求めているが、双葉町は「倒壊の危険」を理由に年内撤去の姿勢を崩していない。「復興」の邪魔になるのか、なりふり構わず撤去へ邁進する町役場。大沼さんは法的手段も視野に入れつつ、「原発事故を知らない世代に伝える責任がある」と今後も現場保存を求めていく。



【何が何でも「年内撤去」】

 双葉町幹部は「苦しい言い訳に終始した」という。

 6月22日。双葉町役場で、大沼勇治さん、せりなさん夫妻は1時間にわたって伊澤史朗町長らと話し合った。全国から寄せられた看板撤去反対の署名400筆を追加提出し改めて看板の現場保存を求めたが、伊澤町長は「年内撤去」の姿勢を崩さなかった。「何を言っても駄目でした」。大沼さん夫妻は怒りを押し殺すように振り返った。

 「撤去ありき」の町側は、「錆び付いていて倒壊の危険がある」ことを理由に挙げた。しかし、建築士など専門家の判断を仰ぐことはしていない。職員が錆び付いている個所の写真を撮影してきた程度。町幹部は「業者への問い合わせでは、修繕費用よりも撤去費用の方が安いとの見積もりだった」とくり返したが、これも口頭でのやり取りのみで、具体的な見積書が提出されているわけではない。「とにかく『撤去』一辺倒。私費で買い取ると言っても町の資産であることを理由に拒否。どこかの博物館が展示を申し出たとしても断るとのことでした」。

 町側はとうとう、「民主主義」を振りかざした。「選挙で選ばれた町議が誰一人として撤去に反対していない。予算案は議会で承認された、これが民主主義だ」。妻のせりなさん(39)はこう反論したという。「では、私たちの『民主主義』はどうなるんですか?」。町長らの回答は無かった。「双葉町民だけから現場保存を求める署名を集めたとしても、考えは変わらない」という徹底ぶり。伊澤町長は「町議会では撤去に反対意見は無かった。むしろ『あんな看板は撤去してしまえ』という意見もあった」と語った。発言した町議の名前を大沼さんが尋ねたが、町長は回答を拒んだという。

 「あの看板が、これほどまでに価値があるとは思わなかった」、「当初は撤去後に保管する予定すら無かったが、署名活動のおかげで倉庫に保管することになった」とも話した町幹部。「町民から、大沼さんの活動に対するクレームの電話が何件か入った」とも口にしたという。

 「『復興に前向きな町』にとって、原発に依存していた、推進していたという歴史は不都合なのでしょう」。せりなさんは悔しそうに語る。双葉町秘書広報課に電話取材をすると、やはり「錆び付いていて危ないため撤去することにした。きちんと保管をするが、今後の展示場所や方法などは決まっていない」と答えた。
1435057162268.jpg
1435057255671.jpg
画10.jpg
(上)2012年8月9日、大沼さんは自身の考案した

標語に「破滅」という字を当てた

(中)2014年3月22日、今度は「原子力」を「脱原発」

に置き換えた

(下)2006年12月5日、クリスマスシーズンともなると

標語もイルミネーションで夜の街に浮かび上がった

という
=いずれも大沼さん提供


【安倍政権の意向が影響?】

 撤去決定の動きは速かった。

 双葉町が3月議会に看板の撤去費用約410万円を含む予算案を提出したことを知ると、大沼さんは一週間後には町や町議会に撤去反対を申し入れた。同時に署名活動も開始。仮設住宅で暮らす町民からも署名を集めたり、大手メディアの取材を積極的に受けたりして世論を喚起した。60人ほどの双葉町民が署名に応じてくれたという。
 「直接、会って話がしたい」。6月に入り、伊澤町長から突然、電話が入った。22日に面会することが決まったのが12日。しかし、翌13日には再び携帯電話が鳴り、「現場保存は難しい」旨が伝えられる。そして17日、町長は町議会で看板の年内撤去を一方的に表明した。撤去にこだわる伊澤町長の不意打ちだった。新聞記者からの電話で撤去表明を知った大沼さんは、驚くとともに不信感を募らせたという。

 「面くらいました。会う日時まで決まっていたのに…。署名を提出してから10日も経っていないのにですよ」

 今月8日、署名を提出した大沼さんは、町長室で「どうしても、あの場所に保存しなければ駄目か」、「復興記念公園の展示室で展示することを考えているが、実現できるかどうかは分からない」などと伊澤町長から打診されていた。
しかし、展示には消極的。「次の町長選挙に出るかどうか、当選するかどうかも分からない」とも語ったという。「保管はするが先のことは分からない、ということなのか。看板をずっと倉庫に眠らせるストーリーが見え見え」と大沼さん。
「復興を推進したい政府・自民党や安倍晋三首相の意向が大きく影響したのではないか」と町長に質したが、否定したという。

1435068212242.jpg
1435059791621.jpg
(上)全国から署名とともに多くの激励の手紙も

寄せられた。

(下)2児の父である大沼さん。「息子たちのように

原発事故を知らない世代に伝えるためにも看板の

撤去には反対です」


【全国から激励の手紙】

 双葉北小学校の6年生だった1988年3月、宿題が出された。「『原子力』という言葉から始まる原発推進の標語を考えてくるように」。宿題だから提出しないと先生に怒られる。知恵を絞った大沼少年の脳裏に浮かんだのが、「明るい未来」だったという。

 「原発のおかげで、双葉町がいわき市のように発展するイメージがあったんですよね。この3年前にはつくば万博が開催されて、『21世紀』や『リニアモーターカー』の印象もありました」

 日頃から、出稼ぎの原発労働者が川魚釣りやサッカーなどで遊んでくれた。チェルノブイリ原発事故が起きた際は、母親が「もし福島原発で事故が起きたら、東京まで広範囲で人が住めなくなる」と話したが、「原発=原爆」のイメージを抱いた一方で、原発は輝かしい未来をもたらす存在でもあった。

 少年の考案した標語は281点のなかから優秀賞に選ばれ、岩本忠夫町長(当時)から表彰された。6号線沿いに自分の標語が掲げられると「誇らしかった」と振り返る。原発の街のシンボルとなった標語は、イベントで使われるテントにも書かれた。標語の書かれたテントで、岩本町長は初日の出を拝んだこともあった。長年にわたって小学生の原発PR標語を利用し尽くした町。今度は展示方法も決まらないまま、看板を倉庫に眠らせようとしている。

 「伊澤町長は、遅くても撤去をする一週間前には連絡すると約束した。それまでに専門家に現場を見てもらい、倒壊の危険性が低いことを証明したい。看板の歴史的な価値を町に理解してもらうために、学者にも見ていただきたい」と大沼さん。「原発の安全性を信じていた時代もあったんだと伝えるには、写真では説得力がないんです。歴史の1ページとして形として残したいんです。戦争の悲惨さが語り継がれるように。私の人生において、あの看板は外せないですから」。

 大沼さんの元には、署名とともに全国から多くの激励の手紙が寄せられた。「大切な宝物です」と目を細める大沼さん夫妻は、現場保存をあきらめていない。



(了)


「Cエリアは全面除染の必要ない」~住民に背向ける仁志田市長。伊達市議会は不信任案提出か?

騒然となる議場で、仁志田昇司市長は改めて明言した。「Cエリアの除染は必要ない」─。17日に開かれた伊達市議会の本会議。問題視されたのは昨年1月の市長選挙。「全面除染しないのは公約違反」と迫る市議に、「約束など破っていない」と市長は応戦。被曝の不安を抱える住民の求めに応じる意思は全くない。市議側は不信任案の提出をほのめかして全面対決の構えだが、こうしている間にも子どもたちは放射線にさらされていることを、大人は忘れてはいけない。



【「約束を破った覚えはない」】

 「Cエリアは全面除染の必要はない」

 仁志田市長はうんざりした表情で何度も強調した。

 原発事故以降、一貫して放射線問題を担当してきた半澤隆宏放射能対策政策監も「フォローアップ除染(ホットスポット除染)を実施しているので問題ない」と足並みを揃える。仁志田市長の答弁が求められているにもかかわらず、自ら挙手して答弁を始める半澤氏に、議員席からは「いつから市長になったんだよ」と野次が飛んだ。質問に立った中村正明市議(無会派)が「納得できる誠意ある回答を」と再三求めたが、仁志田市長は「私は約束を破った覚えはない」とくり返すばかり。

 問題となっているのは2014年1月に実施された市長選挙。自身のホームページに掲載されたマニフェストに「Cエリアを除染して放射能災害からの復興を加速」と明記。選挙期間中に配られたビラにも、同じ文言が一番大きな赤い文字で記されていた。だが、僅差で3選を果たした仁志田市長は、当選から1年半近く経過した今でもCエリアの全面除染に着手していない。勝てば官軍ということか。この日の市議会でも市民の不安に寄り添うという言葉とは程遠い答弁をくり返した。

 「そもそも除染をしたからといって、市民の不安は解決しない。放射能への恐れは人それぞれだ」

 「何かというと『選挙で約束した』と言うが、やってくれと言うからやるというようなポピュリズムのようなことは初めから考えていない」

 「市民の希望通りにそのままやれと言うのなら、行政は要らない」

 「除染はやらなくていいと言う市民がいるのも事実だ」

 これからも一生懸命にやります、と言いながら、随所に仁志田市長の本音が垣間見える。極めつけは、こんな答弁だった。

 「伊達市から避難している市民を受け入れている自治体には御礼をしに行ったことはある。だが、現地で避難者に会ったことはない。そういう場には行ったことがない。それでも、避難者の気持ちは理解しているつもりだ」

 直接、会うこともしないで、どうして気持ちを理解できるのか。中村市議は質問に立つたびに怒りに震え、目に涙を浮かべるような場面もあった。「(放射線被曝は)誰にも分からない。未知との遭遇なんですよ。市民が望むように全面除染をやってあげれば良いじゃないですか」。そして、こう仁志田市長を諭した。

 「有権者との小さな対話を放棄することは、政治家の死を意味するんですよ」

FB_IMG_1433288365706.jpg
伊達市内には、仁志田市長に公約実行を求める看板

やのぼりが立てられている=市民提供


【ガラスバッジの信頼性は?】

 市長選挙で仁志田市長と争った高橋一由市議(きょうめい)も、別の角度から仁志田市長の政治姿勢を批判した。

 半澤政策監が「Cエリアを全面除染しない方針は、2012年3月に開かれた会議で既に決まっていた。原発事故から1年以上が経過し、モニタリング結果や3カ月間のガラスバッジの結果も参考にした」と答弁すると、高橋市議はガラスバッジの信用性に関して疑問を投げかけた。

 「ガラスバッジを納入した千代田テクノルの社員が、『実際より3割4割低い数値が出るということは市側には説明していない』、『当社のガラスバッジを使って欲しいという思いが先に立ってしまった。申し訳ない』と謝罪している」

 今年1月に開かれた市議会の議員政策討論会。同社の幹部が、ガラスバッジによる被曝線量の推計は実際の被曝線量より3割以上も低く適さないことを、全市議の前で事実上、認めたというのだ。

 しかし、仁志田市長はガラスバッジの性能は一切無視。「最も頼りにするのがガラスバッジだ」と述べたうえで「(行政には)他にもやるべきことはたくさんある。無駄な金を使わないだけだ」と答弁した。これではまるで、Cエリア除染が税金の無駄遣いであるかのようだ。

 高橋市議が「伊達市だけですよ。『もうこれ以上、除染することねえ』って言ってるのは」、「大人用のガラスバッジを子どもに着けさせて、平均値をとって『大丈夫だ』と言っている」、「選挙でも除染すると言って当選した」と畳み掛けると、仁志田市長は「あまりに一方的。私たちだって真剣にやっている」と語気を強めた。これには高橋市議も「興奮しないで」と苦笑。「このままでは法律的な手続きによって進めるしかない」と市長不信任案の提出もあり得ることをほのめかした。
1411953588572.jpg
2014年9月には、Cエリアの住民らが直接、市職員に

全面除染を求めたが、市側は拒否。逆に「市民の不

安が過剰」との声まで出るほどだった


【増え続ける抗議の看板】

 業を煮やしたCエリアの住民たちが、仁志田市長に公約実行を求める複数の看板やのぼりを昨年から設置し始めた。それぞれの事情で県外避難がかなわず、やむなく伊達市内での生活を続けている住民にとっては、たとえわずかな数値であっても不安。わが子の被曝を心配してしまうのは当然だ。市長選挙の際、Cエリアの除染を仁志田市長が掲げた点が投票の動機づけになった、と語る市民も実際にいる。看板やのぼりは少しずつ増えている。

 「住民はあれだけ切実な想いで看板やのぼりを立てている。当事者の所に市長自ら行って話を聴くのが仕事なんじゃないか」と中村市議は自発的な住民との直接対話を求めた。しかし、仁志田市長は「子どもの未来を守る会?あれはどういう団体なんですか?調べたけれどもはっきりしない」などと拒否。挙げ句には「あなたは市民と直接会っているかどうかで評価するんですか?」と逆質問する始末。答弁中、中村市議が「出来ないのなら辞めればいい」と野次を飛ばすと、仁志田市長は「そんなことをあなたに言われる筋合いじゃない」と気色ばんだ。

 聞く耳を持たない仁志田市長に、傍聴席からも怒号が飛び交い、議場は一時、騒然となった。「市長の資格は無い」という市議の言葉には拍手が起こった。議長が「次からは退場していただく」と拍手や野次を制したほどだ。

 3月議会で、仁志田市長は「責任は将来にわたって私自身が取ります」と答弁している。中村市議が「どうやって取るのか」と質すと、開き直ったような答弁が返ってきた。

 「現実には責任は取れないが、責任を取るつもりでやっている」

 責任取れない市長。暴走のツケは子どもたちが払わされるのだ。こうしている間にも、子どもたちは放射線を浴びさせられている。



(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】密室から放たれた「自立」の矢~福島県が打ち切り発表

涙ながらの訴えは無視された。数万もの署名も、ハンガーストライキも一蹴された─。福島県は15日、県外自主避難者への住宅無償提供を2017年3月末で打ち切ることを正式に発表した。当事者の声を聴くことなく、密室から放たれた「自立」という名の鋭い矢。「避難者の皆さんに寄り添いますよ」と心にも無い言葉を吐きながら、避難者の心を貫く。放射線から逃れるために行動した人々は、原発事故からわずか6年で見捨てられることになった。


【無視され続けた避難者の声】

 「多くの避難者が落胆しています。今後の生活の見通しが立てられない怖さから、話すことさえできない状態です」

 福島市から東京都内に避難した30代の母親は、突然の打ち切り発表に「想定内ではあった」としながらも、自分たちの声を無視された悔しさを押し殺すように話した。5月下旬、参議院会館で開かれた院内集会。母親は、出席した内閣府や福島県東京事務所の職員に向かって「どうやって自立したら良いんですか」と問い質したが、答えは無かった。

 これまで何人もの避難者が、何度も声をぶつけてきた。仕事を休み、交通費をかけて何回も上京し、時には福島県庁にも足を運んで無償提供の延長や内堀雅雄福島県知事との直接対話を求めてきた。「私の給料どうなりますか?延長するって言ってください」と泣きながら訴えた母親もいた。しかし、福島県避難者支援課の職員は「皆様の要望は上にあげさせていただく」とくり返すばかり。いわき市から都内に避難中の40代の母親は言う。「国って自治体って何なのでしょうね。『民』あっての国のはずなのに、決して『民』を見ない」。当事者の声を聴いてから決めて欲しい、という避難者の声は本当に「上」にあがったのか。

 「結局、避難者の声なんて、初めから聴く気なんか無かったわけですよ」。やはり福島市から京都府に移り住んだ40代の母親は怒りを込めて話す。「私たちの話を直接聴いてほしいとあれほど要望したのに…。福島県庁は国と闘う気持ちがゼロ。内堀知事は国の代理人と言わざるを得ないです」。

 そして、こんな表現で怒りをぶつけた。

 「自立?切り捨てでしょ」。
1434376100579.jpg
当事者の声を直接、聴くこともなく密室で「打ち切り」

が決まった。避難者は、再来年の春までに自立する

ことを求められている


【あまりにも軽い「寄り添う」】

 自主避難者たちの声は、常にかき消されてきたと言っていい。

 「人生設計を立てる上でも長期的な住宅支援を」との要望にもかかわらず、無償提供は1年間ずつ延長されてきた。「死刑宣告を1年ずつ先送りされているようなものだ」と表現した避難者がいた。2017年3月末までに自立しろという一方的な線引きは、まさに死活問題。家賃負担が重くのしかかる。

 福島県が今月、国に提出した「ふくしまの復興・創生に向けた提案・要望」でも、「避難指示が継続している区域の避難者等が、恒久的な住宅へ円滑に移行し居住の安定が確保されるまで、災害救助法による供与期間の適切な延長を行うこと」と求めているが、明確に自主避難者の住宅支援に触れた文言は無い。

 5月17日に朝日新聞が一面トップで打ち切りを報じると、参議院の「復興及び原子力問題特別委員会」で山本太郎議員が山谷えり子大臣に避難者との面会を求めた。しかし、「被災者の心に寄り添う」、「不安な皆様の声をていねいに聴きながら」とは言うものの、直接対話は拒否。「現時点では具体的なことには答えられない」という官僚答弁に終始した。棒読みで重みのない「寄り添う」という言葉は結局、実行されなかった。

 山本議員はさらに、昨年7月に福島県庁で開催された内閣府と福島県との極秘会合にも言及。「この時点で打ち切りが決まっていたのではないか」と黒塗りで公開された議事録の全面公開を求めたが、山谷大臣はこれも拒んだ。このやり取りから打ち切り発表まで、わずか2週間。今月9日に参議院会館で開かれた院内集会では、自民党の森雅子参院議員が「福島県の態度がはっきりしない。皆様の悲痛な訴えを関係者に届けたい」と避難者の前で話したが、これから6日後の発表。果たして避難者の切実な叫びは安倍晋三首相ら「関係者」の耳に届いたのか。大いに疑問が残る。

1433157072291.jpg
昨年7月、福島県庁で開かれた内閣府と福島県の

極秘会合。議題は自主避難者向け住宅の無償提供

だったが、国会議員にすら発言の詳細は公開されて

いない


【請願に冷淡な福島県議会】

 「あきらめる?とんでもない。むしろ、これからますます声をあげていかなければいけないと思っています。今回のことを機に全国に避難した方々と横のつながりも出来ましたから」

 福島市から京都府に避難した女性は強調した。福島県の大阪事務所にも住宅支援を打ち切らないよう要請に出向いたが、ここでも「国と協議中」の一点張り。具体的な回答が何一つ無いまま、一方的に打ち切りが発表された。「本当にやり方が酷い」と憤る。

 16日からは福島県議会が始まる。南相馬市から京都府に避難している女性の名前で、長期間の住宅支援を求める請願が提出される。「うつくしま☆ふくしまi n京都」代表の奥森祥陽さん(57)は、女性とともに県議会の会派を回り、議員らに理解を求めた。だが反応は芳しくなかったという。オール与党の県議会には、自主避難者向け支援を是々非々で議論する気概は薄い。「感触は厳しい。自立ムードばかりで、『無償』の文字が入ると駄目だという声すらあった。そもそも応急仮設住宅は無償なのに…。災害救助法を根拠に住宅支援を行っていること自体に無理があるわけで、こうやって福島県の方針が示された以上、改めて、帰還する人も避難を続ける人もどちらも長期間の支援を受けられるように求めていきたい」と話す。

 「やっぱりまたやられた、という無力感はありますよ」。郡山市から静岡県に避難した父親はしかし、こうも語った。「子どもの頭に放射能まいた奴らは、ただでは済まさない。親父の気概です」。

 100世帯ほどが加入している避難者団体「ひなん生活を守る会」(鴨下裕也代表)は15日、さっそく「打ち切り方針が撤回されるまで、徹底的に闘う」とする声明を発表した。元双葉町長・井戸川克隆さんの言う「必要に迫られて動いた人々」の闘いは、まだまだ終わらない。



(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】「正式発表まで言えぬ」~ひた隠す福島県庁が避難者を翻弄

自主避難者向け住宅の無償提供打ち切り問題が浮上して間もなく1カ月。だが、国も福島県も口を揃えて「協議中」とくり返すばかり。福島県の担当者は直接取材に対し、「避難者は発表があるまで待ってろ」と言い放つ始末だ。当事者の意見を聴く公聴会の開催も拒否。避難者に寄り添うと言いながら、実際には密室で秘密裏に進められる避難者の切り捨て。声を荒げた県職員の姿が、すべてを物語っていた。


【「避難者の気持ちは分かっている」】

 「言えないものは言えないって言ってるじゃないですかっ」

 テーブルを叩かんばかりの勢いだった。福島県庁の5階。避難者支援課の一角で取材に応じた生活支援担当幹部は、わずか5分ほどの取材でもいら立ちを爆発させた。

 何度も尋ねた。「自主避難者は不安を抱えて推移を見守っている。国への協議書を既に提出したのか?それともいつ提出するのか」。幹部は「国との協議を進めていることは認めます。でもね、それ以上の事は言えないですよ」とくり返すばかり。「公になることでどのような支障があるのか」。私の問いに幹部は押し黙ってしまった。「来年の2月になって、いきなり打ち切りが発表されたら避難者はどうなりますか?」。幹部は答える代わりにこう言った。「私だってね、避難している方々の気持ちが分からなくて仕事をしているわけでは無いんですよ」。それなら詳細をきちんと避難者に伝えて、ていねいに協議を進めるべきだ。それこそ「避難者支援」のあるべき姿ではないか。そう畳み掛けると、幹部は冒頭のように怒った。「鈴木さんが何度も聴くからですよ」。まるで子どもの言い訳だ。

 「待つ身のつらさが分かりますか。あなたが逆の立場ならどう思いますか」。幹部は再び黙ってしまった。気持ちは分かる。避難者に寄り添うと言いながら、口をつくのは「言えない」「明かせない」ばかり。そしてとうとう、語気を強めてこう言い放った。

 「避難者は発表があるまで待ってろと言うのかって?そうです」

 これには言葉を失った。怒りを押し殺していると「国に尋ねてください。内閣府は何と言っているんですか?」とも。そして幹部は時計を見た。「打ち合わせがありますから」と席を立った。私は何度も言った。「あなたは避難者の気持ちなど何も分かっていない」。幹部は黙って聴いていた。
1434090407088.jpg
避難者支援課の幹部は「何も言えない。発表するま

で待ってろ」と言い放った=福島県庁


【「長いスパンで住宅支援を」】

 山形県子育て支援課とNPO法人「やまがた育児サークルランド」が協力して発行している情報紙「たぷたぷ」。今年3月31日に発行された第二号には、福島県福島市などから山形市や米沢市に避難中の母親らの座談会が掲載されている。「帰る、帰らないという話は(夫の前では)つい避けてしまう」、「きのこや山菜は食べさせないようにしている」、「できることなら働きたいが、子どもとの関わり、時間、場所など決めることができないでいる」など、本音が飛び交う。そして、住宅問題に関しても、2人の母親がこう話している。

 「住宅の補助は本当にありがたい。避難する、帰らないと決めるポイントとなっている」

 「1年、1年という期限でなく、もう少し長いスパンにはならないかなと思う。子どもの進学を決める時に悩んでしまう」

 米沢市の母親たちの苦悩も深刻だ。「避難について、もっと理解が深まればいいな」、「義理の母親に避難していることを大反対されている」、「子どもが土遊びをするうちは米沢にいたい」…。

 どの母親にも共通するのが、放射線被曝の危険性からわが子を守りたい。被曝の心配ない土地で思い切り遊ばせたいという思い。だが、政府は12日、「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」を2017年3月までに解除することなどを盛り込んだ復興政策の指針改定を閣議決定した。自主避難者向け住宅の無償提供も、避難指示解除と連動して打ち切られるとの見方が強まっている。

 「2020年の東京五輪までに避難者数をゼロにしたい」という国の思惑も漏れ伝わってくる。自主避難者を〝兵糧攻め〟にして帰還を促すのに必死な国と行政。しかし、実際にウクライナやベラルーシを視察した田村市の原木シイタケ農家は、福島を離れた母親たちの不安に理解を示す。

 「空間線量は確かに下がった。原発事故直後、福島市は20μSv/hもあったからね。でも、土壌をきちんと測らなきゃ。それも㎡当たりの汚染をね。そうしたら、まだまだ汚染なんか解消されていないことがはっきりする。そんな状態で帰還を促したって帰るわけないよ」
1434090489049.jpg
福島市などから山形県に避難した人々の座談会が

掲載された情報紙。住宅支援について「もう少し長い

スパンにならないかな」と求めている


【「福島県は方針を語れ」】

 福島県富岡町から神奈川県に避難している坂本建さん(47)のハンガーストライキは13日で10日目を迎える。「支援を打ち切るかどうかは、自主避難者の声を聴いてから決めて欲しい」との思いから、抗議の意味も込めて水と塩分しか摂っていない。今月9日には避難者支援課に直接、申し入れたが、自主避難者と内堀知事との公聴会開催は「できない」、「難しい」と拒否されたという。

 「毎日、1キロずつ体重が落ちてます」と話す坂本さん。「全国の避難者からこれだけ要望が出されているのだから、県としての方針くらいは語るべきです。それすら話せないというのは何なんでしょうか」。

月曜日から、再び福島県庁前での座り込みを再開する。



(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】避難者の叫びは国会議員の胸に響いたか?福島県庁ではハンスト継続中

「避難用住宅の無償提供の打ち切りに反対し、撤回を求める院内集会」(主催:ひなん生活をまもる会)が9日、参議院会館で開かれ、全国の自主避難者たちが打ち切りへの不安と被曝回避の大切さを訴えた。何度も何度も頭を下げる避難者たち。涙を流し、怒りに語気を強める姿は、駆け付けた国会議員にどう映ったか?まもなく原発事故から51カ月。福島県庁ではハンガーストライキも始まった。だが、国や福島県は依然として「協議中」との姿勢を貫き、避難者たちを愚弄し続けている。



【「逃げざるを得なかった」】

 自主避難者たちが集うのは、これで何度目になるだろう。仕事を休み、交通費を費やして、全国から永田町に避難者が駆け付けた。

 「住宅支援は命綱。子どもを2人育てるとしたら、保育園の費用だけでパート代が吹き飛んでしまう」。札幌市に避難した女性は言った。「決して家賃助成に甘えて生活をしてきたわけではありません。選択的避難権を認めてください」。

 相馬市から滋賀県に避難した男性は、怒りを抑えるように語った。「相馬市には、原発事故由来の避難者はいないそうです。今まで、市から避難者向けの手紙が届いたことは一切ない。大学生の娘は甲状腺検査でA2判定でした。安全に暮らせるということが担保されないまま、福島に帰るわけにはいかないんです」

 静岡県に避難中の男性は、原発事故から5カ月後に妊娠中の妻と5歳の長男を連れて郡山市を離れた。「私だって、いつまでも公的支援にすがって生きるのは心苦しいです。多くの国民の皆様の汗水にすがって生きることになるからです。支援はいつかなくなる。問題は幕引きの仕方なんです」。男性は原発事故直後から国と闘い続けている。「最愛のわが子に胸を張れる父親であるためにです」。福島市から京都に逃げた女性は、腹痛の伴わない下痢に悩まされた。子どもは鼻血を出した。家族を説得し、学校へのあいさつを済ませて西へ向かった。「自主避難者は勝手に逃げたのではなく、逃げざるを得なかったのです。ラジオでは外出を自粛するよう呼び掛けていたけれど、暮らしていくには給水やスーパーの行列に並ぶしかなかった」。当時、福島市内では20μSv/hを超える放射線量が計測されていた。

 いわき市の男性は、妻子を横浜市内に避難させている。「半年前、除染業者が自宅の放射線量を測ったら『結構高いね』と驚いていた。つい先日、別の業者が再び測りに来た。今度は測り方が前回と違う。すると『0.23μSv/h以下だから除染対象外ですね』と言う。冗談じゃない」と声を荒げた。「実際、病気が増えているじゃないですか」。3人の子どもと妻を福島県外に逃がしているのは、郡山市の男性。「20歳になるまで子どもを避難先に置いて欲しい。20歳になったら戻るかどうかを子どもに決めさせて欲しい」。最近、4人目の子どもが産まれた。妻は大量出血し、幼いわが子の心臓には疾患が見つかった。医師は「被曝の影響?うーん、分からない」と首をひねったという。
1433833093349.jpg
1433834492571.jpg
声をあげ続ける避難者たち。仕事などで駆け付けら

れなかった避難者からは、子ども直筆のメッセージ

も寄せられた=参議院会館


【住民避難を嫌がった福島県庁】

 避難者たちは代わる代わるマイクを握り、住宅無償提供を打ち切らないよう訴えた。涙を流す女性、緊張で手が震える男性。どうして被害者がここまでしなければ当然の権利を手にできないのか。そして、都内での避難生活を続ける女性は、勇気を振り絞って言った。「あの時、菅首相が『みんな避難するべきだ』と言ってくれていたら…」。視線の先では、菅直人元首相が時折メモを取りながら避難者の言葉を聴いていた。

 「今日は私の過去の経験を言う場では無いが…」。国政の最高責任者だった自分に対する批判が根強いことは分かっているのだろう。菅元首相は静かに語り始めた。「もっと早い段階でSPEEDIを避難の指針として使うべきだった。私の責任。申し訳なく思っている」、「自主的避難だから、という区別はあり得ない」、「住宅無償提供は絶対に打ち切るべきではない」。そして当時、福島の各自治体が住民避難に消極的だったと打ち明けた。「個人的にはできるだけ避難の基準を厳しくしたかったが、『自治体が機能しなくなる』と自治体関係者の声があった」。

 原発事故当時、双葉町長だった井戸川克隆氏は「彼は正直に話した」と元首相の言葉を振り返った。「当時、福島県庁は官邸にものすごい圧力をかけた。佐藤雄平知事(当時)は俺に言ったんだよ。『県民を外に出したくない』ってね」。住民の生命を守るはずの行政が住民避難に消極的な姿勢をとった結果、多くの「自主避難者」を生んだ。そして今、彼らを切り捨てようとしている。井戸川氏は呼び掛けた。「皆さんは必要に迫られて動いたんだ。自主避難ではありませんよ。そういう考えは捨ててください」。
 会場には、福島県いわき市出身の森雅子参院議員(自民)の姿もあった。あいさつで「子ども被災者支援法案提出の筆頭議員になった」と胸を張ったが、「悲痛な訴えを関係者に届けたい」とだけ話して足早に会場を後にした。森議員は、2012年12月の福島民報のインタビューで「自主避難者を支援する態勢の整備を急ぐ」と語っているが、住宅無償提供延長について、避難者を前に具体的に言及することは無かった。

 大島九州男参院議員(民主)に至っては「内堀さん(福島県知事)だって、国が金を出すと言えば支援を断らないだろう」と、県知事をかばうような発言をする始末。結局、子ども被災者支援法の成立に奔走した一人、福島県伊達市の金子恵美衆院議員(民主)の言葉が政治の無力さを物語っていた。

 「こんなはずじゃなかった、と悔しい思いをしている日々です」
1433833948550.jpg
1433833911224.jpg
(上)院内集会には、原発事故当時の総理大臣、

菅直人代議士も出席。「自主的避難だから、という

区別はあり得ない」と語った

(下)森雅子参院議員は「悲痛な訴えを関係者に届け

たい」とだけ語り、足早に会場を後にした


【国の姿勢は「いい加減に自立しろ」】

 福島県南相馬市から神奈川県に避難している女性は、こんな言葉で自主避難者たちの苦境を表現した。「1年ごとに死刑宣告を引き延ばされているようなものだ」。これまで全国で展開された要請行動で、国も福島県も「協議中」と繰り返した。福島瑞穂参院議員(社民)ら支援法議員連盟の申し入れにも、政務官は「まだ決まっていない」との答えにとどまったという。先日の委員会でも、山本太郎議員の質問に対し、山谷えりこ大臣は「福島県からの協議書が正式に提出されていない」と具体的な答弁を拒否した。山本議員は「被曝の問題は、政治の中では終わったことになっているんですよ。被害を矮小化させないと原発再稼働も原発輸出もできないから」と怒りを込めて話した。

 「国のスタンスははっきりしている。『いつまで国に甘えるんだ。いい加減に自立しろ』ですよ。どうして加害者が被害者を線引きするんだ?なぜ密室で決める?」

 福島市を離れて関西での生活を続けている女性は「見える所だけが立派になっても、そんなの復興じゃない。有名な人を呼んでイベントをしたり、子どもたちに食べさせて大丈夫だとアピールすることが復興か」と言葉を強めた。福島県庁では、富岡町から神奈川県内に避難中の坂本建さん(47)がハンガーストライキの座り込みを始めた。梅雨空の下、命がけで支援を求める避難者を尻目に、国は「福島県が」と言い、福島県は「国と協議中」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。「ひなん生活をまもる会」代表・鴨下祐也さんの言う「打ち切りへの恐怖」から、避難者を一日も早く解放させるのが政治の務めだ。



(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】密室で進む「切り捨て」~大臣は答弁棒読み。避難者との面会も拒否

寄り添うと言いながら自主避難者と面会しない。福島県と内閣府の意見交換は非公開─。参議院の「東日本大震災復興及び原子力問題特別委員会」が1日、開かれ、自主避難者向けの住宅無償提供打ち切り問題が取り上げられた。山谷えり子内閣府特命担当大臣(防災)は「福島県から正式な協議書が提出されていない」と責任を回避する答弁ばかり。竹下亘復興大臣も「ずっと帰らなくていいよ、ではない」と帰還促進を強調した。密室での協議が進む中、自主避難者たちは想いを届ける機会も与えられず、不安な日々を送るしかない。


【密室で何が話し合われた?】

 「この時点で、既に無償提供打ち切りのやり取りがあったんじゃないか。それを知られたら困るのでベッタリ黒塗りにしたのではないか」
 山本太郎議員(生活)の声が一段と強くなった。手にしているのは、山本議員の求めに応じて内閣府が出してきた資料。日付は2014年7月28日。午前10時10分から正午にかけて福島県庁で開かれた内閣府と福島県との「意見交換」だ。タイトルはずばり「応急仮設住宅供与期間の延長関係」。「○当方 ●福島県」と書かれているので、内閣府側が作成した議事録に相当する資料と思われる。だがしかし、左隅に「機密性2情報」と記された資料は、出席者名以外は一字一句漏らさず黒塗りされていた。

 内閣府から防災担当と被災者行政担当が、福島県からは避難者支援課の職員が出席した「意見交換」。2時間にわたって何が話し合われたのだろうか。福島県は無償提供延長打ち切りを打診したのか。国側は打ち切りするよう求めたのか…。A4サイズ2枚余にわたるやり取りは、完全に秘匿されている。

 「プロセスが不透明すぎる」、「正々堂々と議論されるべきだ」、「こんな理不尽なことがあるか」、「公開に力を貸してください」。山本議員は山谷大臣に黒塗り部分の公開を迫ったが、大臣は「確かに打ち合わせを行っておりますが、公開することによって率直な意見交換が損なわれる」などとして、正式決定前の公開に否定的な見方を示した。

 有権者の投票で選ばれた国会議員にさえ、議論の中身が示されないまま、放射線を避けるために福島を「自主的に」離れた人々が切り捨てられようとしている。これが「被災者に寄り添う」と公言してはばからない政府の真の顔だ。
1433157072291.jpg
山本太郎議員に対して公開された一面黒塗りの議事

録。昨年7月、福島県庁で話し合われたのは自主避難

向け住宅の無償提供打ち切りなのか?

【避難者の声聴かぬ大臣】

 「しつこいな」。出席した議員からそんな言葉が漏れるほど、山本議員は山谷大臣に懸命に食い下がった。「自主避難者の声を直接、聴いていただきたいんです」。福島県外に自主避難した人々の言葉も読み上げた。「どうか切り捨てないでください」、「人をはねたドライバーが、被害者に『お前の怪我は大したことはない。早くどけ。車を動かせないじゃないか』と迫っているようなものだ」。

 時折うなずきながら聴いていた山谷大臣に、山本議員は何度も「被害者の声を直接、聴く場を設けさせていただけませんか」と求めた。5月29日に参議院会館で開かれた集会でも、内閣府や復興庁、福島県職員に対し複数の母親たちから「まだ結論が出ていないのなら、当事者である私たちを協議の場に加えて欲しい」との声が出ていた。住まいがどうなるかは、今後の生活設計に深く関わる問題。当事者の経済的苦境や不安を聴取した上で決めて欲しいと願うのは当然だ。しかし、山谷大臣は「被災者の心に寄り添いながら適切に対応していきたい」と繰り返すばかり。イエスもノーも言わない。それでも、山本議員は続けた。


議員「生の声を聴いていただきたい」


大臣「福島県から正式な協議書が提出された際には、不安な皆様の声をていねいに聴きながら速やかに対応していきたい」


議員「ということは、避難者の生の声を聴いていただける?」


大臣「速やかに対応していきたい」


 もはや意固地になっている子どものようだった。どうして避難をしたのか。なぜ福島に戻らないのか。なぜ住宅支援が重要なのか。当事者に会わずして、どうやって寄り添うというのか。他の議員から「大臣の公式答弁はそんなもんだよ」と野次が飛んだ。山谷大臣は終始、官僚の用意した答弁を棒読みし、「福島県からの協議書が正式に提出されていない。現時点では具体的なことには答えられない」と淡々と述べた。

 山本議員は竹下亘復興大臣にも自主避難者との面会を求めたが、竹下大臣は「浜田副大臣は全国を巡り、声を直接、聴いている」と暗に断った。山本議員は大きく息を吐いた。怒りを必死に押し殺しているようだった。発言の機会さえ与えられず、打ち切り決定を待つしかない避難者たちの涙を何度も目の当たりにしているからこその怒りだった。
1433152098137.jpg
不安や苦労を伝える機会さえ与えられず、決定を待

つしかない自主避難者たち。山谷大臣は最後まで面

会を約束しなかった


【垣間見える「福島に帰って」】

 委員会では、他の議員も住宅の無償提供延長を求めた。

 徳永エリ議員(民主)の質問にも、山谷大臣は「福島県から正式な協議書が…」と官僚答弁。「朝日新聞の記事は誤報か」の問いにも「お答えできない」、「現時点では何も決まっていない」と繰り返した。徳永議員は「当事者の意見を受け止めて決定していただきたい」として、当事者の言葉を朗読した。妻子を北海道に避難させている郡山市の男性は「汚染が解消されない福島に家族は戻せない」との言葉を寄せた。その言葉を受けて、それまで「避難者に帰還を強制するわけではない」などと答弁していた竹下大臣が、「これは言ってはいけないのかもしれないが」と前置きして〝本音〟を漏らした。

 「郡山市でも普通に生活している人がいるということは忘れてはいけないと思う」

 自主避難者に寄り添うと言いながら、腹の底では「もう被曝の危険性などないのに避難を続けている」と考えていると思われても仕方ない発言。神本美恵子議員(民主)の質問にも「福島に帰りたい人には帰っていただきたい。これが大前提。ずっと帰らなくて良いよ、という前提で復興を進めているわけではない」とも答えた。中野正志議員(次世代)に対しては「原発のエリアを除いては、復興の形が見え始めた」と述べ、避難指示が出された区域以外については汚染が解消しているともとれる答弁をした。水面下で「住宅提供打ち切り→帰還促進」の構図が描かれていることは明らかだ。

 紙智子議員(共産)は「復興の遅れにつながるとして、自主避難者への住宅無償提供を打ち切るよう福島県に国が圧力をかけたことはあるか」と質した。山谷大臣は「そのようなことはございません」と否定したが、無償提供延長へ前向きな言葉も無かった。
 両大臣の答弁に垣間見える「避難を終わらせて福島に帰って」の本音。主体的に避難者を守ろうとせず、福島県に責任を押し付けるような姿勢に終始した。何より残念だったのは、他の出席議員から自主避難者を後押しするような野次が飛ばなかったばかりか、居眠りする議員さえいたことだ。自主避難者支援への関心の低さがうかがえた。



(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】永田町に響いた母の叫び、止まらぬ涙~「わが子を被曝させたくない」

原発事故後、福島県外へ自主避難した向けの住宅無償提供の打ち切りが浮上している問題で、東京や京都などに避難した母親らが29日、都内で集会を開き、国や福島県の職員に涙ながらに無償提供延長を訴えた。「何も決まっていない」、「協議中」と繰り返す公務員たちに、母親らは怒りと危機感を募らせたが、色よい返事は無し。「大臣や知事に私たちの声を届けて」、「どうしてここまで泣かされなければいけないのか」。永田町に母親たちの涙とため息が広がった。


【「自主避難者の声を聴いて」】

 誰もが泣いていた。

 避難を決意したあの日。わが子への想い。避難先での寂しさ…。言葉にしようとすると、自然と涙があふれてくる。最後は、絞り出すような声で頭を下げていた。「住宅支援を打ち切らないでください。助けてください。お願いします」

 参議院会館の会議室。内閣府、復興庁、東京都、福島県の職員が並んで座った。反対側のテーブルには、福島から東京や神奈川、京都などへ自主避難し、「キビタキの会」で交流を続けている母親たち。住宅の無償提供が打ち切られることへの危機感を、一人ずつ語った。

 「ようやく東京での生活に慣れてきたところなのに…。今、打ち切られてしまうと本当に困ってしまう。途方に暮れています。再び知らない土地で一からやり直すなんて無理ですよ」。30代の母親には4歳になる娘がいる。最近、頻繁に鼻血を出すようになった。「原発事故後、自宅前で7μSv/hもあった。友人は子どもがガンになる可能性が高いと医師から言われて、すべてを捨てて北海道に避難した。そんな状況でいわき市には帰れません」。

 「いろんな場面で『自立しろ』と言われます。確かにお世話にはなっていますが、この状況をつくったのは誰ですか?」。やはりいわき市から避難中の30代の母親は、途中から涙声になった。「まだ協議中と言うなら、私たち避難者を協議の場に呼んでください。双子の子どもを連れてどこへでも行きます」。

 福島市から関西に避難している母親は「好きで避難しているのではありません。戻りたい気持ちはあります。でも、子どもの健康を考えると今の段階では戻れません」。とめどなく流れる涙。母として子どもを被曝の危険から守らなくてはならない。「避難者の声も聴かずに決めないで欲しい。ここにいる私たちの後ろには、何万人もの避難者がいるんです」。

 京都に避難した40代の母親は「毎日、住まいはどうなるんだろうと心配しながら暮らしています。早く安心させてください」とマイクを握った。今朝、高校生になる娘からこんな言葉をかけられたという。

 「もう転校したくないよ。ずっと京都にいたい。ママがんばってきて」
1432881597144.jpg
1432881573359.jpg
福島県外への自主避難を続ける母親たちは、涙を

しながら住宅の無償提供継続を訴えた。「福島は

好き。でも子どもの健康を考えると帰れない。その気

持ちが分かりますか?」

=参議院会館



【誰が、いつ最終決定するのか?】

 切実な訴えを繰り返す母親らに対して、国や福島県職員らの反応は事務的だった。

 「住宅の無償提供延長は、福島県知事からの協議書が国に提出され、安倍総理の同意に基づき、最終的に福島県知事が決める。まだ協議書が提出されていない以上、何も決まっていないとしか言えない」。内閣府の若手職員は淡々と答えた。

 これまでに、様々な団体が福島県庁などを訪れて無償提供の延長を求めてきた。その度に国や行政は「協議中」の一点張り。この日も、東京に駐在しているという福島県避難者支援課の職員が「皆様の要望は上にあげさせていただいている」と抽象的な答えに終始したため、母親らからは怒号も飛び交った。「朝日新聞の報道は正しいのか間違っているのか」、「住宅無償提供を打ち切るか否かはいつ、誰が決めるのか」と迫った母親らに対し、公務員側は誰も答えることができない。カラオケ嫌いの人同士のように、マイクを押し付け合う場面さえあった。

 南相馬市から神奈川県内に避難中の50代女性は言う。「国って何なんでしょうね。私たちがどうして、ここまで泣かされなければならないのでしょうか。皆で路頭に迷えとでも言うのでしょうか」。福島市から京都に避難した40代の母親は「汚染をちゃんと測定してください。測定しなければ、私たちがなぜ避難したか理解できないでしょう」と訴えた。だが最後まで、公務員側から明快な答えはなかった。「お母さん、ボクここを追い出されちゃうの?って子どもが泣くんです」。涙ながらに訴える母親の言葉を、彼らはひたずら手帳に書き写していた。

 途中から参加した山本太郎参院議員が「復興大臣や福島県知事に直接、お母さんたちの声を届ける場をつくれませんか?」と呼びかけたが、色よい返事は無し。「残されている時間があまりにも少なすぎる。打ち切られたら路頭に迷うんですよ。お願いします。直接、訴えるチャンスをつくってもらえませんか。力を貸してください」と山本議員が求めたが、誰一人、賛意は示さなかった。

 母親の一人が言った。「福島県の動きを待っていないで、国の方から『延長を認めるから早く書類を出せ』と言えばいいじゃないか」。返事は無かった。
1432884251412.jpg
1432884320552.jpg
(上)東京に駐在している福島県避難者支援課の職員

は「報道が正しいかどうか分からない」「皆様の要望は

上にあげさせていただいている」との答えに終始した

(下)母親らは自民党本部も訪れ、住宅の無償提供延

長を求めた



【「福島県外に復興住宅を」】

 京都で避難者と支援者のネットワークづくりに奔走している「うつくしま☆ふくしまin京都」(奥森祥陽代表)は集会に参加した後、自民党本部を訪れ、同党の「東日本大地震復興加速化本部」宛てに要請書を提出した。
 「福島県民に放射線被ばくを強要する『居住制限区域』と『避難指示解除準備区域』の解除を求める『第5次提言案』の撤回を求める」と題した要請書では、自主避難者向けの住宅無償提供を延長するよう直接には触れていない。「放射能汚染地域への住民帰還を強要するという非人道的な提言を行ってはなりません」と被曝による健康被害の危険性について重点を置いている。奥森さんらには「避難指示の解除は賠償の打ち切りを視野に入れている。つまり、避難指示の解除に伴う帰還の促進には、今回の住宅無償提供問題も含まれているのです。根幹を攻めなければ何も解決しない」との考えがあったからだ。

 対応したのは党政務調査会の事務方。この日、公明党と連名で安倍晋三首相に提出した提言には2017年3月末までに避難指示を解除するよう盛り込まれたが、「除染できれいになったから帰りなさい、ではなく、帰っても良いですよという主旨。帰りたい人が帰れるようにするものです」と繰り返し説明。帰還促進ではないと強調した。

 母親らが「除染をしても震災前の状態には戻らない」、「健康被害が出た時、自民党は責任をとれるのか」、「福島県外の避難先に復興住宅を建設して欲しい」と迫ったが、「皆さんが何について心配されているのかは良く分かりました」と答えるにとどまった。提言での避難指示解除の時期が、報道された住宅無償提供打ち切りと一致していることについても、明言を避けた。

 原発事故直後から、府職員として京都に避難した母親らの苦労を見守り続けて来た奥森さん。「避難者は、これまでも支援を受けて来たと言う人もいるけど、住宅の無償提供くらいのもの。賠償金だって避難指示区域の人々と違ってごくわずか。ADRでようやく避難の実費を勝ち取っている状態ですよ。ここで打ち切られてしまったら、彼女たちは本当に路頭に迷ってしまうんです。これからも無償提供延長を働きかけていきたい」と話した。

(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】「自立」強調する復興庁、避難者からの〝直訴〟にも沈黙貫く内堀知事

「自主避難者から住まいを奪うな」という運動が広がっている。26日には、都内で避難者自ら福島県知事に〝直訴〟。福島や大阪でも自主避難者への住宅無償提供を打ち切らないよう求める要請行動が展開された。「被災者の自立」を前面に押し出し予算を縮小させたい国。支援継続に消極的な福島県知事。真夏日の永田町で、避難者は言った。「汚染が解消されていない以上、避難に対する支援を求めるのは正当な権利だ」



【積極さ感じられない内堀知事】

 「今日は復興事業に関する会議なので、そういう話は出ません」

 都内のホテルで開かれた18回目の復興推進委員会。終了後、記者団の取材に応じた内堀雅雄福島県知事は、表情を変えることなく私の質問に淡々と答えた。「そういう話」とは、全国の自主避難者たちが求めている住宅の無償提供継続問題だ。

 たしかに、議事次第には「平成28年度以降の復興事業のあり方について」とある。だが復興庁の配布した分厚い資料には「自立」の二文字が随所に見られ、<避難指示解除→帰還促進→支援打ち切り>という構図が透けて見える。復興推進会議には竹下亘復興大臣や小泉進次郎復興大臣政務官も出席した。福島県の用意した資料では、原発事故からの復旧・復興事業に関して国の財政負担を続けるよう盛んに求めているだけに、会議の場で自主避難者への住宅無償提供継続を持ち出すことは何らおかしなことではない。だが、国、福島県双方の資料のどこにも「自主避難者」の支援に関連する項目は無かった。

 「知事のお考えは固まっているのでしょうか」と質問を続ける私の顔を、もはや内堀知事は見なかった。ホテルを後にする知事を、私は追いかけた。「住宅の無償提供は打ち切りということでよろしいのでしょうか」、「お答えいただけませんか」…。背後から声をかけ続けたが、内堀知事は歩みを止めず、一度も振り返ることなくエレベーターに乗り込んだ。予定調和の質問にしか答えない、内堀知事らしい対応だった。

 多くの自主避難者たちが強い危機感を抱いて注視している以上、ノーコメントを貫くことは当事者の言葉にも耳を傾けていないことにもなる。事実、会場に駆け付けた避難者の〝直訴〟に、内堀知事は歩みを止めることなく黙ってうなずいただけだったという。「無視はされなかったけどイエスでもノーでもなかった」。必死に頭を下げた男性は振り返った。「もう結論は出ているのかな…」。
20150526_172606.jpg
20150526_180510.jpg
(上)復興推進委員会の終了後、記者団の「ぶら下が

取材」に応じた内堀知事。住宅支援問題について

沈黙を貫いた

(下)復興庁の資料には、至る所に「自立」の二文字

が登場する=東京都千代田区


【「避難を選択する権利認めて」】

 内堀知事への〝直訴〟から4時間後、坂本建さん(47)=富岡町=は内閣府の面談室にいた。「避難・支援ネットかながわ」の代表として、安倍晋三首相宛ての要求書を署名とともに提出するためだった。「子ども・被災者支援法」の理念に基づいた要求は7項目だが、自主避難者への住宅無償提供継続を一番目に据えた。住まいが不安定では、原発被害者の自立はおろか日々の生活さえままならないからだ。
 「国が自主避難者の住宅供与を2016年度末に打ち切ることを検討していることに対し、現時点で期限を決定しないことを強く求めます」

 「福島県の放射能汚染は放射線管理区域と同等なのが現状です」

 「避難者を生活困窮に追い込むことのないよう重ねて求めます」

 慣れない国への要請行動。緊張で手や声が震える。対応した内閣府の男性職員は、直立不動のまま聞き、首相官邸だけでなく経産省や文科省、復興庁への写しを届けることを約束した。

 要求書の朗読が終わっても、坂本さんは政府による避難指示の有無に関わらず、等しく避難の権利を認めるよう訴えた。「ここで打ち切られたら福島に帰るしか選択肢が無くなってしまいます」。特に母子避難の場合、幼い子どもを抱えての労働では多くの収入を得るのは難しい。子どもを預けて働くには保育料負担が重くのしかかる。そもそも、福島県外に逃げなければならないのは原発事故によって汚染されてしまったからだ─。汗を拭いながら坂本さんは言葉を続けた。

 「土壌を測定してください。避難指示が出ている区域に限らず、福島はどこも放射線管理区域に相当する汚染があるのが分かるはずです。今、国が進めているのは福島県民に被曝のリスクを強いる復興のプランニングですよ。何も難しいことを言っているとは思いません。正当な権利を主張しているだけです。避難を選択できる権利を与えてくれたって良いじゃないですか」

 職員は時折メモを取りながら、坂本さんの訴えを聴いていた。同じ頃、福島県庁や福島県大阪事務所でも、自主避難者や支援者らが住宅の無償提供を打ち切らないよう求めた。被害者が自ら声をあげ続けなければ切り捨てられる。だが、彼らが放射性物質を撒き散らしたわけではない。

20150526_173414.jpg
20150527_053303.jpg
(上)福島県富岡町から横浜市への避難生活が続く

坂本さん。「住宅の長期間無償提供」などを求める

安倍晋三首相宛ての要求書を内閣府に提出した

(下)復興推進会議の開かれたホテルの入り口では、

「福島老朽原発を考える会」(フクロウの会)代表の

阪上武さんも、内堀知事らへの要請行動を行った


【避難指示解除=「自主避難者」】

 富岡町から神奈川県横浜市に避難中の坂本さん。「福島に残っている子どもたちを守りたいんです。彼らが被曝回避をするために福島県外へ逃げる道を閉ざしてはいけないんです」と語る。「県外にいる僕らが声をあげないと、福島に残った人々は声をあげにくくなりと考え、神奈川県に避難した福島県人がつながれる活動を続けてきました」。残念ながら、坂本さんの悪い予感は的中してしまった。

 今でこそ富岡町には政府の避難指示が出されているが、坂本さんは自主避難者たちの気持ちが良く分かる。未曽有の大地震が起きた翌日には、政府や自治体の指示に関わらず被曝を避けるための行動を起こしていたからだ。

 「3月11日の夜には、原発で働く知人から『冷却水が入らない』という話が入っていました。若い頃、原発関連の本を読んで関心があったから、万が一の時にはどのように動けばいいかイメージは出来ていました。日付が12日から13日に変わる頃です。富岡町を離れたのは」

 川崎や横須賀の親類宅を経て、横浜市内のUR賃貸住宅に落ち着いた。しかし原発事故から4年が経ち、国は避難指示を解除して避難者を福島に戻そうとする動きを加速させている。「避難指示が解除されても子どもを連れて富岡に戻るつもりはありません。避難を続ければ、避難指示が解除された瞬間に僕らも『自主避難者』になるわけです。今回の問題は他人事ではないんです」
 28日にも福島県庁を訪れ、改めて住宅の無償提供継続を訴える。



(了)

自主避難者から住まいを奪うな~住宅無償提供打ち切り報道で広がる怒りと危機感

福島第一原発事故による被曝の危険から逃れようと福島県外に避難・移住した「自主避難者」が追い詰められている。一年ごとに延長されてきた住宅の無償提供が、2017年3月末で打ち切られると朝日新聞が報じたためだ。〝兵糧攻め〟によって汚染地への帰還を促そうとする国の思惑が透けて見えるだけに、全国の自主避難者たちは、住宅の無償提供延長を求める声を日に日に強めている。内堀雅雄福島県知事は今こそ、自主避難者たちの声に耳を傾けるべきだ。


【県職員は「何も決まっていない」】

 「悔しくて腹が立って、泣いてしまいました」

 福島市から娘を連れて京都府に避難した40代の母親は振り返る。今月17日の朝日新聞は、福島県外へ自主避難した人々に対する住宅無償提供を、福島県が2017年3月末をもって打ち切る方針を固めたと一面トップで報じた。穏やかな日曜日は一転、全国の自主避難者たちに衝撃が走った。彼女もその一人だった。

 「馬鹿にするにも程があります。以前、復興庁の担当者は『福島県からの要請があれば、住宅の無償提供は延長できる。あくまで福島県次第だ』と話していたのに…。結局は、国も福島県も避難者を帰還させたい。余計なお金なんてビタ一文払いたくないのでしょうね」

 この記事が出る2日前、京都に自主避難している人たちが福島県庁を訪れ、住宅無償提供の延長を要請した。賛同の署名は4万を超えた。だが、対応した県職員の歯切れは悪かったという。「こちらが何を言っても『国と協議中』の一点張りだったそうです」。そして翌日、福島県庁に電話をかけた母親に対し、県職員はやはり、明言を避けた。「終了とか延長とか、まだ何も決まっていないんです。現在、国と協議中ということでして…」。
 原発事故から4年が過ぎ、自民党を中心に「被災者の自立」が急に叫ばれ始めた。「自立という名の切り捨てじゃないですか。『財源は国民負担』と復興庁のホームページにも書いてあるけれど、私も働いていて、わずかな給料の中から所得税も復興税も払っているんですよ。被災者だって税金払っているんですから。本当にはらわたが煮えくり返ります」。母親の怒りはもっともだ。

 やはり福島市を離れ、東京都内で避難生活を続ける30代の母親は、3人のわが子の気持ちを第一に考えている。「国も福島県も福島に戻そうとしているのだろうけれど、子どもたちも環境に慣れたから『友達とは離れたくない』と言っています。未曽有の出来事で逃げてギリギリながらも生活をしてきて、ようやく居場所を見つけた途端に打ち切りで路頭に迷わされるのは、子どもには酷だと思います」と話す。

 「こんな状態で、安定した子育てなど出来るでしょうか。子どもたちの未来を考えてくれるのならば、どうか避難者の話に耳を傾けてください」
2011/12/06①

思えばこの4年間、いわゆる自主避難者たちは闘い

の連続だった

=2011年12月06日、文科省前



【繰り返された「1年だけ」の延長】

 福島県避難者支援課によると、2014年2月末現在、福島県外で自主避難者に無償提供されている住宅は1万3758戸。例えば民間アパートの場合、避難先の自治体が家主から借り上げ、避難者に無償で貸し付ける。自治体は負担した家賃を福島県に請求。福島県は各自治体に支払った家賃を国に請求する仕組みだ。

 初めから長期の住宅支援が約束されていたわけではない。住宅の無償提供期間が5年、10年と長期間で区切られていれば〝自立〟へ向けた生活設計も立てられよう。だが、福島県は毎年、わずか1年間の延長を発表し続けた

 「阪神大震災を機に作られた『特定非常災害の被害者の権利利益の保全等を図るための特別措置に関する法律』で『一年を超えない範囲で』と明記されている以上、1年ずつしか延長できないのです」(同課職員)。

 現行法令が原子力災害での避難を想定していないため、被曝の危険を避けるために県外へ逃げた人たちの住宅も、地震や津波で自宅を失った人々のための「仮設住宅」と同様に扱われた。大規模災害時の仮設住宅は、建築基準法や景観法の特例措置として1年間の使用延長が可能となる。行政マンは愚直に法を遵守し、その結果、避難者たちはいつ終わるともしれぬ住宅支援に一喜一憂させられてきたのだ。

 しかも、この制度を利用できているのは2012年12月28日までに申し込んだ避難者のみ。原発事故からわずか1年9カ月で受け付けが終了したため、「政府の避難指示も無いのに勝手に逃げた」として、家賃も含めて全て自己負担を強いられている避難者も少なくない。中通りから関西地方に娘を連れて避難した40代のシングルマザーもその一人。「いま、家賃が本当に重くのしかかっています」と語る。「公営住宅に優先的に入居できるという話もありましたが、実際にはなかなか実現しません。家賃の安い家を探さなくては…。給料のほぼ半分が家賃で消えてしまいますから」。
2012/07
住まいは避難先で親子がほっとできる大切な空間だ。

住宅の無償提供が打ち切られることで、自主避難者

たちが路頭に迷うことがあってはならない

=2012年の七夕。自主避難者の短冊より

【「移住先で落ち着きたい」】

 「いろいろな選択肢を残すためにできれば住宅の無償提供は打ち切らないで欲しいとは思いますが、避難者一人一人が自立できるようにしないと、結局は苦しいままなのではないでしょうか」。避難ではなく福島での生活を選んだ30代女性は語る。「自立できるまでの時間は人によって異なるので、4年ではまだまだ足りない、決められないという方もいると思います。それぞれに合った自立の方向性を一緒に考えられるようなサポートがあると良いですよね」。帰還ありき、支援打ち切りありきの国の姿勢からは、自主避難者へ寄り添おうとする温かみなど感じられない。
 時間をかけてじっくりと─。中通りから岡山県に母子避難した30代の母親も同様の意見だ。「移住せざるを得ないと覚悟して一からのスタート。落ち着くには時間もお金もかかります」。2人のわが子と共に、被災者向けの団地で暮らす。「身寄りも知人もいない土地に移住することを決めることが出来たのは、何より住まいがあったからです」と話す。「母子避難は大変だけど、子どもたちは新しい友達が出来たりして前に進んでいる。何とかここで落ち着きたいです」。

 朝日新聞の記事が出た翌日に開かれた内堀雅雄福島県知事の定例記者会見。当然、記者クラブからは質問が相次いだが、ここでも内堀知事は「国と協議中」と繰り返して明言を避けた。「結論ありきということではなくて、しっかりと協議を進めることが今は重要だと考えています」。

 避難者支援課が発行している「故郷とあなたをつなぐ情報紙  ふくしまの今が分かる新聞」。今年1月に配られた第27号では、内堀知事が昨年12月に山形県を訪れ、避難者たちと懇談した時の様子が紹介されている。

 「それぞれが抱える課題や思いについて率直なご意見をいただきました」

 「避難されている方お一人お一人の思いを受け止め、県としてなすべきことは、国、東京電力と対峙してしっかりと対応してまいります」

 何とも頼もしい決意表明ではないか。さあ、内堀知事。被曝の危険から逃れようと新天地での生活を選んだ県民のために、今こそ国と対峙する時だ。



(了)

【50カ月目の福島はいま】「汚染は継続中」~帰村促進・賠償打ち切りへ高まる飯舘村民の怒り

原発事故が過去の話だと誤解していませんか─。16日、神奈川県藤沢市の日大生物資源科学部でシンポジウム「あれから4年 震災・原発災害克服の途を探る」が開かれ、飯舘村からの避難を強いられている村民たちが、国や東電、村への怒りを語った。進む風化、国や福島県、村の帰還政策。そして賠償打ち切り…。人災の責任をだれもとらないまま経過した4年で、残念ながら汚染の解消には至っていない。避難は不要と言われ続けた挙げ句に一方的な帰村促進。飯舘村にとどまらず、汚染地・福島全体に共通した構図と言える。



【「除染で震災前の村には戻らない」】

 「ふるさとは二度と戻りません。かつての飯舘村はもう無いんです」

 飯舘村から福島市に避難して農家を続けている菅野哲さん(67)は、きっぱりと言った。「原発事故による飯舘村民の悲惨な現状、そしてこれからは」と題したレジメの中で、こう綴っている。

 「2011年3月25日:長崎大・高村昇氏の『安全だ安心だ』の講演(約400人)で安全神話の浸透策。避難を求める村民の声に、村は『指示がない』の一辺倒」

 「2011年3月31日:京都大の今中先生が村長に避難を提言、村長はこれを拒否⇒命の尊厳を無視」

 「原発事故は、全ての夢と希望を、育んできた財産をも一瞬にして奪ってしまったのです」

 「福島原発事故はいまだに収束していないし、今後も何年かかるのかも確定していない」

 伊藤延由さん(71)は、震災前年の2010年に村に入植。「いいたてふぁーむ」の管理人をする傍ら「農業見習い」として農業に従事してきた。昨年、収穫したというマツタケを手に「笠は1万ベクレルを超えます。村の動植物にはすべて、セシウムが入っている。いつもこう言うと叱られるが、除染で震災前の村には戻りません」と語った。「放射線量は確かに下がりました。よく『下がったね』と言われます。でも、依然として震災前の10~20倍の高さです」。

 自身も福島市内の仮設住宅で暮らしているだけに、村民の抱えるストレスがよく分かる。「仮設住宅の取材に来た新聞記者に『東京の安アパートならこんなものですよ』と言われました。ぜいたく言うな、と言わんばかりです。しかし、飯舘村のロケーションを見てください。家と家は離れ、自然豊かな集落です。狭い空間に押し込められたらストレスになるのは当然です」。

 「放射能は測れば測るほど分からない」と話す伊藤さん。村は再来年にも避難指示を解除して帰村を促す方針だが「放射線量の低い場所に復興住宅を建てて新しいコミュニティを作る方がいい」と話した。
20150517_085444.jpg
20150517_085605.jpg
(上)汚染が解消されないまま、村は帰村促進へ

邁進している

(下)「もはや故郷は戻らない」と話した菅野哲さん

=日大生物資源科学部藤沢キャンパス


【「低線量でも長期的な被曝の影響ある」】

 シンポジウムを主催したのは「飯舘村放射能エコロジー研究会」。

 東北大加齢医学研究所の福本学さん(被災動物線量評価グループ)が牛や猿の被曝調査に関して報告。「放射性物質は胎盤を通って仔牛に移る。しかも濃縮される」、「ヨウ素やセシウムばかりが注目されるが、他の核種にも着目しなければならない」などと話し、「まだ4年。もう少し時間が経たないと被曝の影響は目に見えない。息の長い調査が必要だ」と強調した。

 兵庫医科大講師で内科医の振津かつみさんは、いわゆる「被曝者手帳」を交付するよう訴えた。「国の責任で全ての原発事故被害者に『健康手帳』を交付し、広島や長崎の『被曝者援護法』(原子爆弾被曝者に対する援護に関する法律)に準じた、法的根拠のある支援策を行う。これは今すぐにでもやるべきです」。さらに、どんなに低線量であっても長期的な被曝の影響はあるとして「ガンや白血病だけでなく他の病気も調べて欲しい。原発事故の影響でないとは言い切れません」と語った。

 京大原子炉実験所の今中哲二助教は、事故後のチェルノブイリに何度も足を運んだ経験もふまえ「原発事故と健康被害の因果関係がはっきりするのを待っていたら間に合わない。行政は、原発事故の影響であるというアプローチをするべきだ。縮小するどころか、日本全体の健康調査をするべき」と話した。「汚染が無いなら、なぜ、余計に不安をあおるような除染をするのか。汚染は風評ではなく実害です」。

 日大生物資源科学部教授で環境建築家の糸永浩司さんは、飯舘村の宅内線量を調査した。「除染するのとしないのとではケタ違い。効果はあると言える」としながらも、除染済みにもかかわらず深さ5㎝までの土壌で1万ベクレルを超す個所があったことについて言及。「15㎝くらいまで土壌を取り除けば大幅に線量が下がる。しかし、森に近い部屋では宅内線量も高く、何回も除染を行わないと1mSv/年にはならない」と述べた。「もう大丈夫、人が住める、という状況ではない」とも話した。
 福島県内では、農林業系放射性廃棄物を燃やして減容する事業が進められている。「放射能汚染ゴミ焼却を考えるふくしま連絡会」アドバイザーの藤原寿和さん(千葉県放射性廃棄物を考える住民連絡会事務局長)が「稼働済みのものも含め、福島県内では19市町村で24基の仮設焼却炉設置が計画され、その費用は5000億円を超える。初めから焼却ありきの世界でも例のない実証実験だ」、「飯舘村蕨平に予定されている焼却炉は大変規模が大きい。環境アセスメントの適用が除外されており、廃棄物の量も過大に見積もられている」と問題点を指摘した。排気ガス中の放射性セシウムについて、環境省は「バグフィルターで99.9%取り除ける」との姿勢を崩していない。
20150517_101121.jpg
20150517_101555.jpg

(上)振津かつみ医師「低線量でも長期的な被曝の

影響はあります」

(下)3000人のADRをまとめる長谷川健一さん

「原発事故を過去形にしてはいけない。冗談じゃない」


【進む風化と帰村・賠償打ち切り】

 飯舘村から伊達市に避難中の長谷川健一さんは、集団ADR「原発被害糾弾飯舘村民救済申立団」の団長を務め、3020人の先頭に立って東電と闘っている。スローガンには「償え」という意味の「まやえ」を採用した。

 「講演会に呼ばれる回数が少なくなってきた。福島から遠くの街では『福島の事故って、もう終わったんじゃないか』と言われることさえある」

 風化を肌で実感するなか、「村民はおとなしすぎる。原発事故を過去形にしてはいけない。あの時、村で何が起きたのかはっきりさせなければ」と集団申し立てに奔走した。当初は酪農仲間でもあった菅野典雄村長にADRを進言したが断られたという。「村ではやらないが、村民のADRには口を出さないという話だった。それなのに、村民からのADRに応じないよう裏で東電に緊急要望書を提出した。目を疑うような動きだった。国ベッタリの村役場の脅威になるように声をあげていきたい」

 最近、「被災者の自立」を合言葉に帰還や賠償金の打ち切りの動きが加速している。〝原発長者〟なる言葉が口にされ、原発事故の被害者が賠償金で優雅な生活を送っているとの誤解も少なくない。

 長谷川さんは言う。

 「親父がクワ一本で苦労して開拓した土地。俺だって帰りたいし、いつかは避難指示が解除される。しかし、生活の保障も何も整わないまま放り出され、若者のいない年寄りだらけの村に戻ってどうやって生活しろと言うのか。元の生活を回復できる人がどれだけいるか」

 シンポジウムは、今中助教のこんな言葉で締めくくられた。

 「日本は民主主義の危機に瀕している。原発事故は人災だ。もっと怒らなきゃアカン。責任ある人間をしかるべき場所に引っ張り出そう」



(了)