とてもご無沙汰でした。
佐々木秀実、生きてましたよ笑
皆さん、元気でしたか?
この夏のことやら、身の回りの事やら、今日は、長い文になりそう。
さてと。
私の実家は、信州は菅平高原にあって、
ラジオでもテレビでも「出身」はどちら?と聞かれたり、テロップにすぐ出る。
ドレスや着物を着て、メイキャップして歌う仕事をしていると、
「信州」という響きや、「高原」という響きに、さぞかし美しいところなのだと思われる事もあるのですが、
隠すこともなく、私の実家は、祖父母が建てて、もうたおれそうなくらいヨロヨロと、隙間だらけ、やっと建っているような家で、家業は「馬刺し屋」です。
じーちゃんが「藤雄」だったから、屋号は「ふじや」。
昔はスーパーがなかったから、じーちゃんは精肉店で、ばーちゃんは同じ建物の中で食堂をやっていて、
その祖父母がすこぶる音楽や芸事や、賑やかな事が大好きで、祖父母は私に赤ちゃんから「スリコミ」のように、色々な音楽を聞かせ、私が歌い手になった時は、誰よりも嬉しがってうれた。
私には、その祖父母の血が濃く流れているとつくづく思う。
その娘の、私の母は跡取りだったけれど、反対押しきって嫁に行ったが、私が上京したころ、父の家はバブルとともに潰れ、(やはり茨城で板前をしていた)結局は、母の実家でもある菅平に逃げるように来た。
残ったのは、大きな借金と、歳の離れた妹2人だった。
私はもう東京で歌っていて、忙しくもいたし、実家がそんな風である事を、夢売る仕事としては、だまっていた時期が正直ある。
今考えれば、とんでもない情けない、薄情な自分だったと大きく反省している。
高校の時には上京して歌を生業としていたし、東京には、まだまだ子供の私を、自らの子供として育ててくれた、育ての「母」もいるし「姉」たちもいる。今もまたこちらも大事な家族だけど!!
話しは戻るけど、「ふじや」はいつしか「馬刺し屋」になり、「居酒屋」になって、夏の菅平はラグビーをはじめ、とんでもない賑やかさになり、お店はてんてこ舞いになる。
ここ数年、8月は手伝い要員として帰っては来ていたのだけど、
この初夏、父が倒れた。
夏中入院して、この先もちゃんと戻れるかどうか、まだそんな状態。
父はしっかり今は病院で診ていただく事として、
さて、「ふじや」をどうするか。
夏やるのか、やらないのか。
この先やるのか、やらないのか。
6月、本気で私は考えていた。
実家の仏壇の前で、じーちゃんと話していたような気がする。すると、不思議とすぐ決心は決まり、「やれる事やってみよう」「歌い手」と「ふじや」、どっちか選ぶじゃなくて、「両方やろう」と覚悟というよりも、あっさりと決めたような気がする。
コロナ禍ではあるけれど、全国から沢山の方に来ていただきました。
毎年の方、コロナで来られなくて3年ぶりの方、代々3代に渡って来てくれる方、ホテルをやっている地元の方や友人。
昨日でオンシーズンの営業は終わり、一緒に頑張ってくれたバイト君たちや妹、くだびれ果てた顔をした、おふくろや地元の方にも感謝!
今日からまた包丁をマイクに持ち替えます笑
父の事も在宅介護に向けて、やらなくては。
じーちゃん、ばーちゃん譲りのせいか、
やれる事は人生の中でなんでもやろうと思う。
楽しみながら。
二兎を追うもの。とは言うけれど、
二兎も捕まえられるもの。になりたい。
どこにいても私。
菅平はいいところです。もう夜は寒いけど笑
ここで「ふじや」も続くし、
「音楽」がじっくり出来る、そんなところも本気で欲しい。
夢を目標に変えて、現実に変えて、
ひたすらに日々一緒懸命過ごしたいと、今私は思っています。
今日はバイト君たちの慰労会。
ディスタンスしながら、楽しみたいと思います(*^^*)
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