自己愛的自己の対極表現(表と裏) | 学白 gakuhaku

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精神科医 斎藤学のコラム

岩本昭男さん(さいとうクリニック・カウンセラーで精神保健福祉士)や近藤恒夫さん(ダルクの創設者)のようなリカバード・カウンセラーが、なぜかつての自分自身のような人々(男性が多い)に対応するのかと言えば、それはそうすることが彼ら自身の断酒や断薬に必要だったからと思う。

一方、酒やクスリの乱用から脱したい人々にとって適切な案内役になれるのは、臨床心理学の修士号を取ったような人々(圧倒的に女性が多い)ではない。心から回復を求める嗜癖者は、岩本氏や近藤さんを自我理想(手本)として自己の生活を律するようになるのだと前回に述べた。

このことは嗜癖者の回復にとって自我理想の在り方が重要であることを示す。自我理想は理想的自己のことではない。この言葉の意味するところは広く、先に挙げた「手本」という意味は、その一つである。自我理想という言葉の振れ幅が広いのは、この語の創始者であるジグムント・フロイト自身がその著作の中で多様な使い方をしているからだからだが、これが自罰的(懲罰的)超自我と対になる概念であることは強調しておいて良いだろう。それは自分を大切にしてくれるものの目が持つ愛に満ちた瞳から芽生えるもの、そのことには異論がない。

裸の嗜癖者の本質は「自己愛~境界性パーソナリティ」だと思う。この二つのパーソナリティの異同は後に触れるが、これらは緊密に連絡したパーソナリティの在り方で、その本質は「自己愛」の肥大、ないし「自己意識」の誇大化にある。自己愛(ナルシシズム)や自己意識そのものは病的なものではないが、それが肥大したり誇大化したりするについては、自己を危険にさらすような何らかの心的外傷を考慮しなければならないだろう。

誇大化した自己意識に由来する人格表現にはコインの裏表のように対極的な2側面がある。ひとつは陶酔的で傍若無人な誇大自己の発現で、酔った人の大口叩きなどはこれに属する。これを表とすると、それを裏打ちするもうひとつの表現は極端な小心と過敏で、何に敏感かと言えば、他人の評価に一喜一憂して容易に自分を見失うのである。対人恐怖者とはこのような裏表の2側面を備えた自己意識のお化けのことで、彼らに口を開かせると常に「ミー、ミー」と自分のことを語り続ける。

この種の傾向は、人間なら誰にでもあるものだが、コインの裏表というように、どちらか一方という人ばかりではない。シェマとしては両極の間に広い中間地帯があって、比較的目立ちたがりの人から、出不精、人嫌いのひとまでのベクトルを形成しているというところではなかろうか。

そう考えると、嗜癖者が目指すべき回復とは、何度も繰り返していた自己破壊的嗜癖から離れると同時に、そこから生じる自己卑下と対人恐怖からも自由になる「地点」を探すという作業ということになる。しかし、その地点を直接探すのは困難だ。というところで、以前からその地点に屹立して居るかに見える個人(近藤さんや岩本さん)が回復を目指す嗜癖者たちにとっての暫定的な自我理想になる。