人誑し(ひとたらし) | 学白 gakuhaku

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精神科医 斎藤学のコラム

私は1983年12月(42歳)に国立久里浜病院に2度目の辞表を出し、その足で京浜急行久里浜駅から品川・新宿 経由で京王線八幡山駅に着いた。その朝まで久里浜を辞めると思っていなかったので、訪問先に電話を入れたわけではない。その朝、出勤したら医局の私の机に「辞表の書き方」という本と便箋が置いてあったので、便箋に3行半ほどの辞職願いを書いた。辞任の日付は公務員の給料日にして、その日から休暇に入った。

というのが私の記憶なのだが、実際には患者の引き継ぎなどがあったから、こんなに簡単に進むはずがない。よく思い出してみると、以後も非常勤医師として週に何日か久里浜病院に通っていたような気もする。それどころか、テニスがしたいというだけの理由で久里浜まで出かけて行ったことまで思い出した。相手は今も久里浜病院に残っている樋口進君たちで、彼のシュート回転のサーヴを何とか打ち返したくてならなかったのだ。彼らにしてみれば、当時の院長との感情のもつれから、仕事を放り出してフッと居なくなるような上司に退職後まで付き合わされて迷惑だったろう。都合の悪いことはたちまち忘れてしまう。後で「記憶の病理」について話すつもりだが、これが本来の(健康で日常的な)記憶だと私は考えている。「嫌なストーリー」の記憶がいつまでも残っているとしたら、残っていることに快楽(必要)があるからだ。

話しを八幡山駅に始めて降りたところへ戻す。駅からの標示に沿って数分歩くと松沢病院の表門らしきところに着いた。そこを入って、広い車寄せを突っ切ると4~5階(?)建てのビルの玄関に至り、そのホールの正面の壁に各階の主だった部屋の標示が出ていた。
そこに院長室の所在も書かれていたので、そのまま標示に従った。この時点では何となく下見に来たという感覚だったので、窓口で案内を乞うこともしなかったのだが、今考えるとつくづく無礼な奴だと思う。

というわけで何の障害も無く院長室のドアの前に立つことになり、取りあえずそのドアを叩いた。どうせお留守と思っていたのだが、ドアの向こうには当時の院長、秋元波留夫先生がいて、私を見ると当たり前のように笑ってくれた。先生は東京大学で精神医学の教授を勤め上げてから府中の国立精神医療センター(という名前だったかどうか忘れた)の所長に任じられ、そこも退いてから東京大学・精神医学の牙城である都立松沢病院の院長職に就かれていた。

派とか閥とかがあるとは思わないが、それまでの私は慶応の医学部を出てからその界隈の人とだけ関わっていた。勿論高名な秋元先生のことは存じ上げていたが、あるとき何かの学会で先生の方から声をかけられたことがあって、びっくりしたことがある。私のような下っ端のことを覚えていてくれたことが嬉しかったのだが、そのとき「河野君(当時の久里浜病院院長)と君と二人で久里浜に居てもしょうがないだろ。君はこっちへ来た方がいいよ」と言われた。あの日、松沢病院へ行ったのは、そのことが頭にあったからなのだが、忙しそうな人だし、そんなこと忘れてるだろうな、とも思っていた。

で、その記憶のことは棚上げにして「お国でやれることはやったと思うのです。これからは東京都で仕事をしたいのですが、雇ってくれますか?」と訊いた。そしたらなんと先生は手を拍って「それはいい、君、その方がいいよ」と悦んでくれた。それどころか当時副院長だった金子嗣郎氏や、都精研(東京都精神医学総合研究所)所長の石井毅先生まで呼び集められ、私の処遇について検討してくれた。金子先生や石井先生が若干迷惑そうにしていたのは仕方なかろうが。まったくもって人を誑(たら)す人だ、この秋元先生は。しかし、先生のこの反応がなかったら、1995年まで続いた東京都職員としての私の仕事もなかったろう。

秋元波留夫先生


もっとも、それですぐに東京都の正職員になれたわけではない。私は松沢病院の構内にある研究所の職員になりたいと言い、そこでは医長(都の課長職に当たる)ポストの空きがないからちょっと待ってくれと言われて、それから2年前後続く「浪人時代」に入った。しかし浪人というのは私の勝手な思い込みで実は私はまだ慶応義塾大学医学部の助手だったらしいのだ。その5年ほど前、退職祝いということでパーティを開いてもらい記念品と花までもらっていたから、私は慶応とは切れたと思い込んでいた。あの「お別れ」はいったい何だったのか。

実のところ、あの2年、慶応の助手だったというのは「ストーリー」だと思う。ものごとをうまく滑らすためのストーリー。その作り手が居たはず。ややこしい話しだが、そのストーリーは2年後の4月、都精研の社会精神医学研究室に入室してから準備されたと思う。入室直後のある日、そこの室長だった吉松和哉先生(その後、信州大学医学部教授)がひっそりとした声でこう言った。

「君ね、私は麻布の先輩(これは偶然)として心配だから言うのだがね、この履歴書はまずいよ。履歴が途切れてるでしょ。君、ここはね、どこかの大学へ移るためのプールみたいなところでね、君もいずれどこかの大学へ移るわけだが、この途切れた履歴のままじゃ受け入れ先も困るんだよ。明日にでも慶応に行って繋げてもらいなさい」。

「繋げる」って何だと訝りつつ、とりあえず慶応の精神神経科学教室を訪ねると当時の浅井教授が待っていて、「君はこの3月まで慶応の助手だったんだからね。久里浜にはここから出向してたってわけ。で、今回は君のことで秋元先生からお手紙を頂いてね、是非君を譲ってくれって。こういうの割愛人事というんだよね。で、君さえよければ、慶応としてもそういうことにしたいけれど、いいよね」。ということで、私の「浪人時代」は世間知らずの錯覚だったことにされてしまった。しかもなんと100万円を超えた(と思う)退職金付き。

私の同級生たちはいずれも退職金などもらっていないという。そして「よほど持て余してたんだろうな、おまえのこと。都が引き受けてくれたんで嬉しかったんだろう。退職金は手切れ金ということだな」。多分そういうことだろう。それにしても秋元先生はすごい。このタイミングでの手紙ひとつで私を感動させた。これこそ、治療ってものじゃないか。私のような自己愛人格障害者にとって。