クレプトマニアと症候性窃盗(その2) | 学白 gakuhaku

学白 gakuhaku

精神科医 斎藤学のコラム

前回に述べた4分類の要は症候性窃盗をクレプトマニアから切り分けたことだが、それは前回に紹介した例のようにうつ病相(大うつ病性エピソード)と窃盗との関連が極めて明瞭である場合に遭遇することがあるからである。しかし、窃盗事件に先立つ罪悪感という点では、あらゆるクレプトマニアにそれが認められるという事実もある。そのことに触れた既存の文章(斎藤学「私はクレプトマニアをこのように考えている」、『アディクションと家族』誌、第29巻3号、204-206頁、2013年)を以下に紹介する。実は今回、この過去の考察を陵駕できると思って書き始めたのだが、読み直してみたら、これ以上には未だ到達していないと分かったので、そのまま紹介する。ただし一部の用語は現在用いているものに変更し、文自体も極力短縮した。



私はクレプトマニア(病的窃盗癖)を次のように考えている。

①窃盗癖の基底には対人恐怖がある
人が何らかの行為を反復するとすれば、そこにはその主体にとって必要なこと、言い換えれば欲求充足がある。病的といえるほどに執拗な窃盗癖 (kleptomania)や万引き癖(shop lifting)も同様。

ただし必要だから繰り返すという行為のうちにも、結果として社会に受け入れられるもの(生得的・生理学的欲求充足行動、社会に承認されたいという欲求にそった習慣など)と、そうでないもの(嗜癖addiction、悪徳vice、非行evil deed)、そしてどちらでもないもの(社会の承認と関連しないかに見える癖habit、習慣habituation、など) がある。

歩くことや歩き方、食べることや食べ方、話すことや話し方はそれぞれ人としての最低条件と見なされるような基本学習要件であり、人は乳幼児期からずっとこれらの洗練を迫られている。

排泄することは呼吸することと並んで、人としてというより、一生命体として不可欠なものだが、その方法は獣類と人とを区分するほどに重要なことと見なされ、ヒトの成人は決められた場所と様式のもとで密かに用便を済まさなければならない。生後のある時点でこれを会得し、以後ヒトが人として生きるためには用便以外の時には肛門を開かず、軽く閉じた状態で過ごすことを要請されているのだが、成人はこのルールについて特に意識することはないし、この習慣を会得するに至った学習について回想することも殆どない。

排泄に似ているが、個体というより種の生存に必須で、獣類というより他の類人猿と鋭く区分されるのがヒトの性行為である。排泄と似ているのは密かになされなければならないことだが、この行為の習得に成人が手を貸すことはない、というより成人の関与が許されていないという点が排泄とは正反対である。しかも性行為は秘匿の他にもさまざまな規制があり、それらは個体の置かれた文化によって異なるので複雑きわまりないものになる。

種の保存にとって不可欠であるにもかかわらず、乳幼児の性欲はその存在さえ無視され、否定されたまま放置されるので、個々の幼児は周囲の成人の反応をうかがいながら、様々な迷いと疑惑と不信のうちに、彼の置かれた文化の規範(諸規制の構成体)に添った性行為を行わなければならない。その結果として生じる「当惑、疑惑、不信、怒り=欲求不満」が嗜癖、パラフィリア(性倒錯)、強迫障害、不安障害、身体表現性障害、ある種のパースナリティ障害を生む。

なぜ、これらが発生するかというと性行為は本質的には対人関係の一種だからである。先に反復行動には良いものと悪いものがあると述べた際に、「社会的に承認される欲求」について触れたが、自体愛(性的自慰)以外の性行為には相手からの承認(これを象徴的に「ミルク」と呼ぶ) が欠かせない。この「承認の感覚」は原初の(乳幼児期の)母親ないし母代理(surrogate mother)から得られるはずのものである。はずと言わねばならないのは、必ずしもすべての人がこれを充分に得るとは限らないからだ。その場合、人はその空虚を代償する(すり替える)ための様々な行為を試みるようになるが、多くの場合、それらは対人関係を回避する方向(対人恐怖)へと進む。その好例はパラフィリアの一型・フェティシズム(物神崇拝、切片淫乱)である。この対人関係回避によって、これら代償行為は「空虚を満たすミルク」としては役立たない。それどころか、ミルクへの渇望は更に高まり耐え難いものに至る。

私はかねてからこれを「欲求充足のパラドクス」と呼んできた (「嗜癖」、土居健郎、他編「異常心理学講座-5」、みすず書房、1989)。パラドクスと呼ぶのは、ある渇望を満たすための行為(例えば飲酒、薬物摂取)が、その欲求を充足し渇望を鎮めることなく、かえってその昂進・暴走を招くからである。窃盗癖はこうした悪循環行為のひとつとして生じるものだから、その根源的治療は彼らのパースナリティの基底にひそむ対人恐怖を緩和することである。

②「根拠のない罪悪感」と「処罰マゾヒズム」
母親からの承認が「まあまあ good enough」の形で得られた場合、思春期に入った人は自己愛肥大(自己に向かう対象愛)の時期を経て異性愛へと進むのだが、一部の人はここで「根拠のない罪悪感」にとらわれる。性的成熟は子どもを親との密着関係から解放するナイフとして機能する。この分離そのものは自然なものだが、この際に生じる強烈な性衝動と射精、初潮などの成熟徴候を子どもは親から隠そうとする。この際に子どもの内面に生じているのは恥と当惑の意識で、こうした感情を無視して従前どおりに子どもへの介入を止めない親に対して子は憤怒(親殺しの欲望)を感じ、これが親を捨てて離れたいという欲求とあいまって罪悪感を形成する。多くの場合、これらは意識化(言語化)されないが、ここから生じる茫漠とした罪悪感は、それに見合った程度の「小犯罪」を生む。この犯罪は親への憤怒に対する自己処罰であり、事が露見すれば「自らに強制する屈辱」、つまりマゾヒズムとなる。実際、窃盗癖者(Kleptomaniac)の一部は、逮捕され拘束され見せしめの罰を受けることを望んでいるかのように見える。

性的成熟への恐怖や嫌悪があからさまに見られるのは摂食障害者だが、彼らに窃盗癖が付随しやすいことの理由はここにこそあるというのが私の見解である。更に言えば、この種の母子密着への依存葛藤(親からの介入を嫌悪しつつも、そこからの離脱にも恐怖を感じるという両価感情)は核家族のなかで母子関係が過剰に密接なものになりやすい現代社会においては必ずしも、摂食障害者の見られる家族にだけ生じているわけではない。

上記は単なる仮説ではない。「盗む喜びと罰せられる屈辱」が結びついているという実体験は、極めて重要な人物による陳述の中にも述べられている。ジャン=ジャック・ルソーがその人で、彼の死後に出版された「告白録」には性自慰、男根露出癖、不倫、5人の子捨て、マゾヒズムと並んで盗癖が語られている。それによれば彼の窃盗癖は貧しかった頃の食物盗みから始まり、徒弟に行った先の親方の道具や家僕として仕えた伯爵夫人からの宝飾品などがあった。盗みが露見して罰を受けるようになると、「盗む喜びと罰せられる屈辱」がむすびついて止められないものになっていった、と書かれている。啓蒙哲学者として名声を博し、フランス革命直前に死んだルソーは、この『告白』を生前に刊行したわけではない。この本もその刊行も彼のパースナリティの中核に位置する性倒錯(露出癖とマゾヒズム)と無関係ではないであろう。

③お洒落としての万引き
得てして悪習vice はドラマになる。ひと頃、映画のヒーローには喫煙や女たらしが欠かせなかった。殺人は悪行evil deed だが、ドラマのヒーローは「義による」大量連続殺人を行って罪も感じず、恥じてもいないように見える。一方、盗癖となるとヒーローには向かないが、自由奔放なヒロインの個性の一部として描かれることがある。その代表は映画版『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンの演じるヒロイン。そこには盗みという行為に伴うはずの罪や恥の感覚を観客が持たないような工夫がなされている。

アメリカのジャーナリスト、レイチェル・シュタイアによる『万引きの文化史』(黒川由美訳、太田出版、2012)はshoplifting(万引き)を kleptomania(窃盗癖、この翻訳書では窃盗症) やboosting(職業的泥棒、boostはアメリカ俗語で「かっぱらい」)と区別するという工夫のもとに、病気でもなく、プロ泥棒でもない、健全そのものとみなされている人やセレブたちの万引きに注目を促している。

シュタイアによれば、万引きによる「商品損失(シュリンク)」は全体の35%におよび、万引きシュリンクが売上高の2%を越えると小売店のレイオフや倒産に至るというのに、現在の万引きシュリンク率は既に1.4% を越えているという。万引き予防のための監視システムや警備会社への支払いもかさむ。結果として小売店は万引きシュリンクを前提とした値段設定をしなければならなくなり、そのために消費者が支払う、いわば「万引き税」は年間一世帯あたり450ドルにもなるという。いまや、一部の病人や大泥棒の話ではない。読者自身やその友人、隣人にも直接に影響を及ぼしつつある大問題が、「ふつうの市民」の万引きというわけだ。

商品の氾濫と浪費を前提とした市民社会そのものが万引きという行為の一般化をもたらしたという説に異論はないが、この議論には「いつか来た道」をたどっているという気配がある。かつて日本の「慢性アルコール中毒者」の数は、ある年の調査日に調査対象とされた精神病院に入院していた2万人だけとされていたことがある。この数は調査対象が「アルコール依存症者」と変わる過程で80万人になり、その周辺の状態にある人々まで含めると300万人にもなるという、ごくありふれた人々の問題とされるようになった。

やがて「窃盗問題」も窃盗症(クレプトマニア)から「万引き行為」へという名称の変更に伴って、その数が膨張するのであろうか。シュタイアの著書は我々臨床家の閉じられた視点を超えて、随所に照明を当て、我々の蒙を啓いてくれるのだが、窃盗症と万引きとの線引きについては異論がある。

『ティファニーで朝食を』のお洒落なヒロインの行為が窃盗ではなく万引き(ショップ・リフティング)だとしても、この女性に病的な窃盗衝動(クレプトマニア)が見られないとは限らない。自他ともにゆるすお洒落女優ウィノナ・ライダーに起こったことを見れば、これは万引きであって病気ではないとコメントするのは難しい。

ウィノナ・ライダーは、今をときめくアンジーことアンジェリーナ・ジョリーが助演をつとめた映画『17歳のカルテ』で主役を演じた儚げな美貌の持ち主だが、度重なる万引きに対して「演技の練習をしていた」などの言い逃れを続けた末に、窃盗累犯で実刑を受けた。とは言え、それは社会奉仕480時間と3年間の保護観察および薬物依存症のためのカウンセリングであった。無名の貧乏人なら同程度の犯罪で10年以上の禁固刑になるから不公平という声が渦巻く中、それでもなおウィノナが盗んだという噂は飛び交っている。そのため映画出演の際にかけられる保険(急な出演不能などに備えるもの)が巨額になり、出演料が高すぎて使えないという事態を招いて映画出演の道がほぼ閉ざされてしまった。残されているのは万引き癖そのものを冗談のネタにするようなトークショーで、この世界ではウィノナは今もセレブである。出演したバラエティでは司会者が監視カメラについての冗談を飛ばし、彼女が引っ込むと、司会者も他の出演者も気もそぞろに盗られたものを確かめるという仕草で笑いをとっている。この女性はやはり病気だろう。そしてそれは、この原稿の冒頭に記したようなメカニズムで始まり、彼女の人間関係をまったく違うものに編成し直すことによって治療可能と思う。

       〈参考〉『アディクションと家族』29巻3号

アディクションと家族29-3