不貞とセックス依存(セックス・アディクション) | 学白 gakuhaku

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精神科医 斎藤学のコラム

ここに暫く戻れなかったのは大急ぎで「意見書」を書いていたからだ。意見書というのは、私の精神科医としての仕事のひとつで、弁護士からの依頼を受けて、特定の人物の精神状態について記すこと。
似た仕事に「精神鑑定」があり、これは裁判所の判事からの要請で書く。指示ではなく、要請なので、断ることも出来る。現に1週間ほど前にも断った。関心をひく殺人事件ではあったが、前に来た仕事が終わらなかったので諦めた。
その仕事は「不倫を働いたある女性がセックス依存か否か」について判断して欲しいというものだった。以下はその考察の一部。

そもそも不貞とセックス依存とは関係ない。不貞は倫理、道徳(特に婦徳)の問題であり、一部の国では法律の問題でもある。セックス依存は欲求昂進(渇望=精神依存)という医学生理学的問題である。

所謂不貞は、結婚生活に伴う退屈、拘束感、空虚感、寂しさからの脱皮を図るものであり、当事者にとっては跳躍である。極めて主体的な行動であって、依存症者(嗜癖者、アディクト)が生理的要求に屈服して行為表現するような「生理的・心的欲求への隷属」ではない。

セックス依存(アメリカ精神医学協会は「依存dependence」の語を、「嗜癖addiction」にもどすことを決定し、2013年5月から実施されているので、現在の精神医学論文では「セックス嗜癖」ないし「セックス・アディクション」と書かれる)は、他のアディクションと同様、有害で貪欲な欲求充足行動であり、ひとつの欲求充足行動が更なる欲求を求めるという「充足パラドクス」(斎藤学『嗜癖』、土井健郎他編・異常心理学講座第5巻、みすず書房1989)を中核障害とする強迫反復行動である。

その基本形は自体愛(性的自慰 masturbation)であり、ジグムント・フロイト(フロイト・S.『性欲論3編Ⅱ・小児の性欲』〔原著1905〕、懸田克躬他訳、フロイト著作集・5、人文書院)が指摘したように「乳児・幼児のおしゃぶり」から始まる始原的衝動行動である。これは後年、異性ないし同性の性対象との性交渉にまで発展することもあるが、成人同士の性的接触は実際のところ、極めて多大な労力ないし代償を必要とするので、実は、こうした成人対象性愛そのものの占める割合は、成人生活の中で極めて少ない。多くは成人に達してからも自体愛ですませており、近年は電子通信機器の発達により、いわゆるアダルト動画の配信が有料無料で行われたり、スカイプ画像を介した疑似性交渉で、数日のうちにかなりの時間と大金を浪費したりする社会現象も見られ、一部の青年、中年はこれによる借金が原因になって筆者の外来患者となる。彼らはセックス嗜癖者である(クラウディア・ブラック著、斎藤学訳「性嗜癖者のパートナー;彼女たちの回復過程」誠信書房、2015.特に斎藤学による「訳者あとがき・感想」)。

こうした自体愛に充足できない者の中から発生するもののひとつはパラフィリア(paraphilia性倒錯)で、これには異性(殆どは女性)の靴や下着にのみ固有な執着を見せるフェティシズムや電車内などでの痴漢行為、更には窃視狂や露出狂が含まれ、これらもまた警察に拘束されるなどの難儀に駆られて筆者の外来患者となり、筆者の意見書を求める。彼らもまたセックス嗜癖者であり、受刑後ないし執行猶予中に、その治療を命じられる。

パラフィリアの中には成人の性愛対象を避けて小児(同性も異性も)を狙うペディアトリック(小児性愛者)がいて、その被害者は疫学的統計よりはるかに多く、この隠れた被害者たち男女が成人期に達して、性倒錯、境界性パーソナリティ障害、難治性うつ病などの罹患者として精神科外来に登場してくることが希でない。かくして成人性愛対象からの逸脱は次世代の成人精神障害者を産む。

繰り返すが、異性の性愛対象と性交渉を持つのは難しい。婚姻とは社会から適正を保証された異性対象性愛(heterosexuality)の制度であり、結婚した二人は様々な性的タブー(その代表は近親姦タブー)が張り巡らされた家族の中で、かろうじて「安全な異性対象性愛」を成就する。だからこそ、この暗黙のルールを無視する不貞(adultery)が一大スキャンダルとして位置づけられてきたのである。

しかし実際に行われている性交渉の多くは、婚姻関係にある配偶者以外の人々との間で行われており、その多くには金銭の授受が伴う。売春である。昨今、セックス・アディクションを主訴に筆者のもとを訪れる人々の多くは、この種の売春異性愛による借金によって、あるいは、その実態を知った配偶者等の怒りによって、筆者への受診を強制された人々であり、彼らもまたセックス・アディクツと呼びうる。このような人々と本件の当事者との相違を以下に述べる。(略)