女性の自体愛 | 学白 gakuhaku

学白 gakuhaku

精神科医 斎藤学のコラム

今回も引用です。性行動における女性の主体性に関して前回述べたことを補いたくなったので、前回参照文献として挙げたものを紹介しながら、そこに書けなかったものを付け加えます。引用するのは、最近翻訳版を出したクラウディア・ブラック著『性嗜癖者のパートナー』(誠信書房)に「あとがき・感想」として載せたものの後半部分。


乳児の「おしゃぶり」を「恍惚をともなう吸引」と呼んで手淫(性的自慰、自体愛)と結びつけたのはジグムント・フロイト(文献1)である。これを踏まえて、私(文献2)は指しゃぶりを原初の嗜癖と考えた。つまり嗜癖とは指しゃぶりから始まる一連の性自慰を指すというのが筆者の嗜癖論の根源である。物質摂取嗜癖者(例えばアルコール嗜癖者)の場合、薬物の作用下にある自己身体を他者とみなして愛着するという自体愛の存在を仮定しないと、あの「酩酊」への執着を理解しがたい。

そういうわけで私はあらゆる嗜癖には自体愛の側面があると考えている。従って自体愛を含む性嗜癖を正面から取り上げた著者(クラウディア・ブラック)の姿勢には敬意を払うのだが、性嗜癖が男性に特有なもの、その影響を受けるのが女性という書き方には疑問を感じる。確かに暴力を伴う性的襲撃や一連の性倒錯の加害者の殆どは男性であるが、性嗜癖そのものの頻度には性差が認められないのではないかと考えている。頻度の差は無いが、表現形には大きな男女差があるというのが性嗜癖の特徴なのではないか。このように考える理由のひとつは最近急速に目立つようになった女性自体愛のための道具(「大人の玩具」)の普及である。

イギリス映画『ヒステリア』(2011)は1890年代、表面上の性的禁欲主義がはびこっていたビクトリア朝のイギリスで、女性の間に抑うつ、悲嘆、心身不調を訴える女性が激増するようになり、婦人科治療の道具として所謂「電動バイブ」が誕生したエピソードを描いている(映画の冒頭で実話であると強調されているが、真偽不明)。舞台こそ120年前の昔だが、現在では日常一般的な生活道具と化しているという主張を前提に女性監督(ターニャ・ウェクスラー)によって作られており、エンドロールでは各時代を代表する世界の名器が実物写真として次々に紹介されている。それらのうち、1970年代を代表する名器として登場するのは我が日立社のHitachi Magic Wandであった。

アメリカ映画『Friends with Money(邦題[セックス&マニー]』(2008)では大学時代の仲良し4人組の中で一人だけ落ちぶれてメイドをしているヒロイン(ジェニファー・アニストン)が日に何軒も掃除して歩くのだが、どの家の引き出しにも電動バイブがあって、彼女はそれを時々使う(シーンは音だけ)。それが当たり前のように描かれていて、これも女性監督(ニコル・ホロフセナー)の作品だ。

これらは決して卑猥な作品ではない。それどころか、女性の視点から鋭く社会の陰翳を削ぎ取った「女性のための」作品になっている。そこに単なる小道具として無造作に登場する自体愛のための道具は何を意味するのか?

今を生きる女たちにとって上品ぶった男たちに性衝動を押し込められてパニック発作を起こしたり、泣いたり、まして性愛の主体性を男に奪われるなんてあり得ない。そんなものは日用品でどうにでもなる、ということなのではないか?

つまり自体愛は今や男の専有物ではなく、話題にしてはならないものではなくなっている。少なくとも一部のリーダー役の女性たちの間では。

性嗜癖の形態が男女によって違うという点で重要なのは共嗜癖(嗜癖者を過剰にケアすることによって嗜癖者の自立能力を削ぎ落とすこと)を嗜癖的性愛の一型と考えることである(文献3)。そう思うことは、「聖なる母」の神域が存在していた時代には禁忌だったのだが。共嗜癖に絡め取られた母親が、精液まみれの15歳や性的パートナーのいない35歳や妻との性交渉が絶えて久しい55歳を世話しようとしてまとわりつく気色悪さの正体は、これが生殖器抜きの性愛であるためだろう。性器だけは使わないという理由で共嗜癖を性愛から遠ざけるのはむしろ不自然だ。

このように女性自体愛の普遍化を認め、共嗜癖もまた女性という性別に固有の性愛と認めると、性的嗜癖の頻度にそれほどの差はないのではないかという私の推測も理解してもらえるだろう。ということで、さて、自分の妻やパートナーが女性同性愛に溺れていたり、手早い自体愛で満足していたり、自分たちの息子を世話焼きと統制で縛り上げることに熱中していたら、夫たちはこの本の中に描かれている「ロッジの女たち」のように「問題に気づいて愕然としたり、今までの配偶者の不自然な嘘の本質を見極めたり、『真実を語れ』と妻たちに迫ったりする」のだろうか? そして、この方面に理解のあるカウンセラーを捜し歩き、同性のカウンセラーのもとで「真の回復への道」を探るためのシェアリング(分かち合い)グループに参加するのだろうか?

アメリカ映画『Thanks for Sharing(邦題[私の恋人はセックス依存症]』(2012)では、性嗜癖者のためのシェアリング・グループにせっせと通う男(マーク・ラファロ)が描かれている。彼は5年間にわたって禁欲しているというのだが、なんとその禁欲には性的自慰が含まれるのだ。このハンサムがパーティで長身の金髪美女(グゥイネス・バルトロー)に出会う。この女性は癌で片方の乳房を失い再建術をおえたところ、という設定がいかにも「今」らしい。身も心も整った女性は新しいボーイフレンドを求めていて、禁欲男に接近し、すぐに親しくなるのだが、そこからが大変。性自慰を含む全セックス禁断中という男が理解できない。以前、ドラッグ嗜癖男のことで苦労していたこともあり、セックス嗜癖と聞くとおののいて去ろうとするのだが~、という設定。ここで私はヒロインと一緒に引いてしまった。シェアリング風景そのものは嗜癖治療に必須で、私にもお馴染みなのだが。

筆者の運営するセックス嗜癖者プラス性倒錯者(主として痴漢と窃視症者たちで、弁護士や司法機関を通じて来院する)のグループ(男性限定)では性自慰を禁じていない。それを避けようと努力するのは勝手だが、禁欲を守れないことで生じる罪悪感が倒錯的性行為を促進することを知っているからだ。

セクサホリックス・アノニマス(SA)では、「配偶者とのセックス以外のいかなる性行為も(性的自慰も含めて)しない」ことを「sexually sober(性的にしらふ)」と呼び、この状態を保つことを仲間たちに勧めている。この方針は日本(SA-Japan)においても変わらない。

それはそれで良いと思う。しかし治療者としての私は、この方針を私の手がける治療ミーティング(シェアリング・グループ)に採用しようとは思わない。配偶者とのセックスだけを他の性行為から区別するという考え方は、極めてキリスト教的な家族聖域論に過ぎないと思う。そのような意見を排除はしないが、彼らの言う「性的しらふ」が性倒錯や衝動統制不全や性的嗜癖に悩む者たちの治療ゴールになり得るとは思わない。私たちは勝手に湧いてくる性衝動や渇望に意識的であって良い。ただしそれを行動に表現して自分自身の社会的評価を下げる必要はない。偽善者になる必要はない。だから我が内なる性的な欲求という健康な生命力を自覚するだけで自己卑下に陥るのはナンセンスだ。内なる生命力は私たちを創造的にする。そしてその変化が他者と繋がるきっかけを作る。

いずれにせよ、性を語ることは難しい。これを書いていて、改めてそう思う。


文献
1)フロイト,S.『性欲論3編Ⅱ小児の性愛』フロイト著作集5,人文書院, 1968(原著1905)
2)斎藤学『嗜癖の起源、およびその暴力との関係』「アルコール依存とアディクション」     誌11巻2号,99-108頁,1994
3)斎藤学 『エロティシズムとアディクション;現代人の恋愛、共依存、親密性』「アディクションと家族」誌, 26巻1号, 27-43頁, 2009


(追記)
以下に上の引用が言及していないことを指摘しておく。

女性に固有の自体愛の一つは化粧や衣装による変身である。女性の場合、男根のように目立つ標識を持たないことから、性的関心が性器に統裁されることが比較的少ない可能性がある。この「可能性」は「女性は、その全身が性器」と言えることにまで及ぶ。

露出狂(exhibitionism)の場合、男性では男根露出が多いが、女性では全裸でのストリーキング(streaking)の形を取るのは、その例証のように思う。「女性は全身が性器」という仮説を許容すると、女性が外出にあたって行う衣服選びも化粧の工夫も、他者の視線という性的刺激を前提にした性的行為ということになる。男性にこうした側面が皆無とは言えないが、切実さという点では女性ほどではないのではないか。

男性性を維持したまま、化粧と衣装だけで身のうち女性性を顕在化させようとすると異性装(transvestite)と呼ばれるものになる。女性の場合、衣装選びや化粧は身体そのものの痩せ・肥りに及び、過度の痩せや著しい肥満は自らが性的存在であることを否定しようとしているのではないかと思う。