映画『太陽のめざめ』 | 学白 gakuhaku

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精神科医 斎藤学のコラム

前に紹介した映画『エル・クラン(血族)』は、家族の中で起こっている悪や非道を黒いヴェールで隠すという主婦の役割について述べた。

次に紹介する映画は『太陽のめざめ』(la tѐte houte)で、原題(フランス語)は「頭をまっすぐ上に」ないし「胸を張って」という意味です。この映画は、10代少年が周囲のルールを受け入れる過程を描いています。

以下、私のコメントです。



映画『太陽のめざめ』について


原題のla tѐte houteは「頭を上げて」とか「胸を張って」みたいな意味だろう。17歳のマロニー(ロッド・パラド)が何に対して胸を張っているかと言えば、自分が自分の攻撃衝動に勝てるようになったこと、そして、その結果として生まれた自分の子を誰かに見せてあげようとしているからだろう。

この映画には攻撃衝動が統制されてゆく過程が描かれている。子どもは母の胎内で満9ヶ月を過ごし、産み落とされてからの24ヶ月までに二足歩行と言語、視覚認識、排泄の統制といったヒトとして生きるための基礎技術を学習する。

この出産前後33ヶ月の課題になんとか合格できたものだけに課される次の発達段階があって、近親姦タブーの遵守を始めとする個体の社会化とそれに伴う罪悪感、排泄訓練の徹底による恥意識の強化と清潔意識の強迫化、家族を介した民族文化の継承などがこれにあたるが、攻撃衝動の統制もここに含まれる。

攻撃衝動そのものは生誕直後から「泣く赤ちゃん」や「噛む赤ちゃん」として観察される。ヒトの子は空中の酸素と親の愛(関心とケア)をあてにして生まれてくる。我々の子は生理的早産という無理を承知で生まれてくるので、周囲からの手厚いケアが無ければ生き残れない。赤ん坊の真っ赤な顔は周囲の関心を求める必死の救助信号、それはつまり「怒り」である。原初、怒りが私たちを救ったのだ。この救助信号が無視されたままに終わると、「絶望の静けさ」に移行する。その段階で助けられた乳児には「生存不可」の刻印が押され、例え思春期を越えて生き延びても、死がいつも隣にいる感覚から逃れられない。機会を見つけては死のうとするし、愛する者から差し出される救いの手にも懐疑的になる。所謂「育てやすかった子」、サイレント・ベビーが思春期になって死に向かう猪突猛進や、リストカットなどの自傷行為、売春、窃盗などの慢性自殺とも言える自己破壊行動に熱中するのはそのためだ。

一方、「噛む赤ちゃん」という概念はウィーン生まれでフロイトの弟子たちから教育分析を受けたメラニー・クラインがロンドンに定住するようになってから提示したものだ。これは既に「良いオッパイ」と「悪いオッパイ」という乳児期の妄想・幻想として一般にも知られるようになったことなので、ここではひとつのことを除いて省略する。

新生児は母親そのものという全体対象を把握できない。だから彼らの悪意や邪気も内発的なものであって、外界(母など)の悪意を反映したものではない生得のものだ。人は生まれつき邪悪な妄想を抱える存在。そこから他者への善意と思いやりを育てて行くもの。現代精神分析は、この「思想」から始まった。

人が邪悪な迷妄から脱するのは、生後1年を超えた頃とされている。それはオッパイ(部分対象)でしかなかった母が全体像としての愛着対象(全体対象)として認識できるようになり、それに伴って怒りとは異なる感情としての抑うつとに出会う。同時に母(全体対象)が自分を捨てるかも知れないという強烈な不安にも直面させられる。これを「見捨てられる不安」と言い、ヒトは生涯にわたって、これと対応し続けなければならない。

こうして2歳までの基礎作業の中で抑うつ感と見捨てられ不安を背負わされた幼児たちは次に「人倫(人の道)」というものを身につけるという課題に直面する。この課題を「社会化」と言い、その中核にあるのは「懲罰の受容」であり、懲罰する人の中に愛を見いだせるようになることだ。

この映画は、その道の険しさを描いている。人倫というルールに沿って歩くのは空中に張られた1本の綱を渡るようなものだ。この映画には綱渡りのメタファーのように細い廊下が何度も出てくる。監督(エマニュエル・ベルコ)は、この課題について肝心のことを掴んでいると思う。この映画のサンプル版DVDを何度か見ているうちに、筆者はこの映画の作り手と既に出会っていると感じた。それが間違えでないことがわかったのは、これを書いている途中、数十分前のことだ。

改めて与えられた資料を見直し、彼女が以前に『なぜ彼女は愛しすぎたのか』という切な過ぎる映画の作り手であったことを知った。それは30歳を越え、自分なりの仕事にも没頭できるようになった女性が、15歳くらいの少年に恋してしまうという映画だった。私たち観客は、この映画を通して未だ少年でしかないものの「何気ない(イノセント)」な残酷さに直面させられた。今回の映画に表現されるマロニーは、あの少年の「無邪気な残酷」を、よりわかりやすく造形し直したものだと思う。少なくとも筆者は「あぁ、あの人だから、この映画を撮れたんだ」と納得した。

で、その「処罰の受容」が身に入る条件とは、誰かに無条件に愛されるという体験を指す。普通なら母か母代理がこの役割を果たすのだが、あまりにも早くまだまだ男と遊んでいたい時にマロニーを産んでしまった彼の母にとって、この役割は重すぎた。代わってテス(ディアール・ルーセル)という謎の少女が、その役割を引き受ける。映画の中のテスは殆ど説明されていない。ただマロニーという暴力少年を愛するのだ。彼の子を腹に宿すほどに。

観客から見えるテスは女性というより、少年そのもので二人はゲイ・カップルみたい。むしろ指導員のヤン(ブノア・マジメル)が離婚することになったと言ったとき、マロニーがヤンに「ジュテーム」という場面にエロティスムを感じた。もしかしたらテスはヤンの女性版なのかも知れない。そのことを監督はテスとヤンの格闘技を介した絡み合いをマロニー(当時13歳)が羨ましそうに見ているという映画冒頭の場面で説明した、と筆者は思う。

少年拘置所を脱走したマロニーは、正に人工流産の措置を受ける寸前のテスを、手術室に乱入して助け出す。この瞬間、マロニーは17歳とは言いながら大人の男になった。

頭をあげて,誇らしく歩くマロニーの懐には赤ん坊がいる。泣いてはいないが困惑しきっている赤ちゃん。赤ちゃんにしてみれば、監督が演じて欲しい表情など作れないの。こうしたドキュメンタリー・タッチを時々挟むのもベルコ流なのだろうか。

いずれにせよ誇り高い17歳の男は赤ん坊を家裁判事フローランス(カトリーヌ・ドヌーブ)に見せに行く。判事は「かわいい」と言い、マロニーは「イノサン」と応える。字幕では「良い子だよ」となっていたはず。それにしてもなぜここで、カトリーヌ・ドヌーブなのか? それは多分、この役割に託された重さを表現するためだったろう。判事は人が人であるか否かを裁く人。この映画は「人に裁かれる必要」について描いているので、判事こそ、この映画の背後にいる主役なのだ。

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