伏見稲荷の続きです。
つまり交通の要所であり、また天皇のいる京と本拠地の大坂城の中間点に位置するということから、秀吉が政治的な影響力を行使するのにちょうどよい場所と判断したのでしょうね。
作家、司馬遼太郎さんの代表作のひとつに、新撰組の土方歳三を描いた小説「燃えよ剣」があります。
剣の腕が立つ薬売りの青年・歳三が、江戸の剣術道場の仲間である近藤勇や沖田総司らとともに京に上がり、「新撰組」を結成。京都守護職の下、「武士」として取り立てられ、治安維持と称して尊王攘夷派を斬る最強の殺戮集団を作り上げます。
しかし時代はしだいに倒幕へと移り、将軍慶喜が大政奉還。新撰組も本拠地の壬生を引き払い、京都の南に位置する伏見奉行所へ移った…というところまでストーリーが進んだところで。
唐突に、著者の司馬先生が「実際に鳥羽伏見の戦いの跡地へ行ってみた」というレポートが入るのです。
2ページほどの短い文章ですが、とても印象に残りました。
その場所へ私も行ってみたい、と、長い間思っていたのですが、ようやく叶いました。
ここが実は、「鳥羽伏見の戦い」で、薩摩軍の本陣が置かれたとこなんです。
たしかに、高い石垣と塀に囲まれた神社というのは、戦においては城代わりになりえますね。
水をモチーフにしたブルーの装飾が施された、美しい神社です。
重要文化財です。本殿も麒麟の絵が飾られたり、なんと見事な。
これを作らせたのは、徳川家康だそうです。
家康の作った神社に討幕軍の本陣、なんて皮肉なことでしょう!
この神社から道を挟んだ南側にあったのが、「伏見奉行所」です。
新撰組や幕府軍がここに立てこもり、薩摩軍と戦ったそうですが…
数が劣る薩摩軍は、最新の大砲や銃で幕府軍を攻撃し、圧倒していったそうです。
つまりは、まさにこの場所で、日本の歴史が変わったのです。
ところが明治になり奉行所跡は陸軍施設が建ち、太平洋戦争が終わると団地になったそうです。
そして、昔は「鳥羽伏見の戦い」の慰霊碑が置かれ、毎年慰霊の祭祀が行われていたのに、今はそれも無くなり、土地も売り払われてしまったと。
司馬先生はこう書かれています。
「日本歴史は関ヶ原でまがり、さらに鳥羽伏見でまがった。
その場所にひとかけらの碑もなく、ただ団地は、見渡す限り干し物の列である。」
とりあえず、「伏見奉行所跡」の石碑は、ありました。
そして、鳥羽伏見の戦いの慰霊碑は、偶然にも昨年、大阪四天王寺の近くにある「一心寺」を訪れたときに、発見しました。
これ、一心寺さんのホームページにも載ってないんですよね。おそらく、伏見から大坂城に逃げ帰った幕府軍が、ここ大阪で戦死者を弔ったのでしょうか。
その薩摩軍はのちに西南戦争で、明治政府軍の守る熊本城を攻めますが、なんと最後まで攻め落とせなかったのです。
たぶん熊本の方は「難攻不落の熊本城」を誇りに思っていらっしゃって、その思いの強さというのは他県民には想像できないくらいなんじゃないかなあ、と考察できるわけです。
今回の地震では熊本城が崩れ、そのショックの大きさたるや、いかほどのものでしょうね…
稲荷参詣を終えたあと、JRに乗り南に2駅。
「桃山」駅で下車。
伏見城下町観光をしてきました。
いわゆる安土桃山時代の桃山とは、ここのこと。
ここに豊臣秀吉は伏見城を作り、伏見港を整備しました。今では大阪から京都に行くのは、JRや阪急が早いですが、伏見港ができてからは大坂から船で淀川を上り、伏見で降りて、そこから歩いて京へというのが常識だったそうです。
つまり交通の要所であり、また天皇のいる京と本拠地の大坂城の中間点に位置するということから、秀吉が政治的な影響力を行使するのにちょうどよい場所と判断したのでしょうね。
かつての伏見城だった場所は、今は「桃山御陵」と呼ばれています。これ、明治天皇の眠るお墓なんです。って、僕も最近になって初めて知りました。
なぜここを明治天皇陛下は自分の墓所にと決められたのか…
それも、わかる気がします。
この街から、明治時代が始まったからではないでしょうか?
作家、司馬遼太郎さんの代表作のひとつに、新撰組の土方歳三を描いた小説「燃えよ剣」があります。
剣の腕が立つ薬売りの青年・歳三が、江戸の剣術道場の仲間である近藤勇や沖田総司らとともに京に上がり、「新撰組」を結成。京都守護職の下、「武士」として取り立てられ、治安維持と称して尊王攘夷派を斬る最強の殺戮集団を作り上げます。
しかし時代はしだいに倒幕へと移り、将軍慶喜が大政奉還。新撰組も本拠地の壬生を引き払い、京都の南に位置する伏見奉行所へ移った…というところまでストーリーが進んだところで。
唐突に、著者の司馬先生が「実際に鳥羽伏見の戦いの跡地へ行ってみた」というレポートが入るのです。
2ページほどの短い文章ですが、とても印象に残りました。
その場所へ私も行ってみたい、と、長い間思っていたのですが、ようやく叶いました。
JR桃山駅と、京阪の桃山御陵駅のあいだに、広大な敷地を持つ神社があります。
「御香宮神社」です。
「御香宮神社」です。
境内から酒どころ伏見を象徴する湧き水が出ており、また、安産の神様でもあるそうですが…
ここが実は、「鳥羽伏見の戦い」で、薩摩軍の本陣が置かれたとこなんです。
たしかに、高い石垣と塀に囲まれた神社というのは、戦においては城代わりになりえますね。
水をモチーフにしたブルーの装飾が施された、美しい神社です。
重要文化財です。本殿も麒麟の絵が飾られたり、なんと見事な。
これを作らせたのは、徳川家康だそうです。
家康の作った神社に討幕軍の本陣、なんて皮肉なことでしょう!
幕府側も、攻めにくかったでしょうね。
もし大砲を撃ち込んで傷つけでもしたら…。
いや、それも薩摩の計算の内かな?
この神社から道を挟んだ南側にあったのが、「伏見奉行所」です。
新撰組や幕府軍がここに立てこもり、薩摩軍と戦ったそうですが…
数が劣る薩摩軍は、最新の大砲や銃で幕府軍を攻撃し、圧倒していったそうです。
つまりは、まさにこの場所で、日本の歴史が変わったのです。
ところが明治になり奉行所跡は陸軍施設が建ち、太平洋戦争が終わると団地になったそうです。
そして、昔は「鳥羽伏見の戦い」の慰霊碑が置かれ、毎年慰霊の祭祀が行われていたのに、今はそれも無くなり、土地も売り払われてしまったと。
司馬先生はこう書かれています。
「日本歴史は関ヶ原でまがり、さらに鳥羽伏見でまがった。
その場所にひとかけらの碑もなく、ただ団地は、見渡す限り干し物の列である。」
とりあえず、「伏見奉行所跡」の石碑は、ありました。
そして、鳥羽伏見の戦いの慰霊碑は、偶然にも昨年、大阪四天王寺の近くにある「一心寺」を訪れたときに、発見しました。
これ、一心寺さんのホームページにも載ってないんですよね。おそらく、伏見から大坂城に逃げ帰った幕府軍が、ここ大阪で戦死者を弔ったのでしょうか。
それとも、伏見奉行所からここに移されたものなのでしょうか…??
司馬先生は、これをご存じだったのでしょうか。
司馬先生は、これをご存じだったのでしょうか。
その薩摩軍はのちに西南戦争で、明治政府軍の守る熊本城を攻めますが、なんと最後まで攻め落とせなかったのです。
たぶん熊本の方は「難攻不落の熊本城」を誇りに思っていらっしゃって、その思いの強さというのは他県民には想像できないくらいなんじゃないかなあ、と考察できるわけです。
今回の地震では熊本城が崩れ、そのショックの大きさたるや、いかほどのものでしょうね…
ちなみに、今回の戦利品。
最近女性の間で流行っているという神社の御朱印集めを、男もしてみむとてするなり。