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大阪にあるダンス教師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心憂く思えて、あるとき思ひ立ちてただ二人、京阪電車にて詣でけり。



というわけで、有名な石清水八幡宮に初めてお参りして参りました。
長年、行ってみたかったんですよね~。



八幡宮のある場所は大阪と京都の中間よりやや京都寄り、淀川の対岸にちょうど天王山が見える場所にあります。辺りは平野が広がるのに、ここだけ急にぽこっとお椀をひっくり返したような山がそびえています。



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京阪電車「八幡市」駅で降りると、すぐ目の前に「男山ケーブルカー」があります。
これに乗ると、急な斜面を一気に駆け上がっていくのです。



なるほど、納得。下界から隔絶された山頂にあり、木々に囲まれた神社は、山麓からは全く見えません。



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さて、「徒然草」の「仁和寺にある法師」、皆さまも学校で習ったことがおありかと思いますが、これ習ったとき意味わかりましたか?



10代のころの私は、学校で習うものというのはすべからく高尚なもので、歴史に登場する人物は模範とするべき欠点のない偉人で、授業で習うような古典というのはさぞかし素晴らしい内容が書かれているのだと思っていました。



先生方が厳しく「試験に出るから覚えよ」とおっしゃるのは、そういうベースの上に成り立っているのだとばかり。



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だから「仁和寺にある法師」も疑う余地のない素晴らしい教訓話で、だからわざわざ学校で習うのだと思っていたし、受験のためには意味など理解するより、そのまま文章を暗記し、文法を覚えなければならないものだと思っていました。



それが「あ、違うやん」と気がついたのは恥ずかしながら浪人生の時で、例えば徒然草も「随筆」と言うと何だか高尚な感じですが、要は単なる「エッセイ」ですよね。



つまりは現代風に言うなら、偉い社長さんがユニバーサル・スタジオの駅前の街並みに感動して、それで満足して、ユニバーサルスタジオには入らずに帰り、帰ってきて周囲の人に「USJ行ってきたぞ!素晴らしいなあれは」と自慢して、「それUSJちゃうやん!気付かんかったんかい!誰か教えたれや…」という、単なるボケとツッコミの話であって、全然高尚でも何でもない。ブログネタのような話です。



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でも、例えば、私のこの徒然なるままに書くブログにも意外と多くの方から「先生、読んでます」とお声をかけて頂けるようなもので、誰が読んでも「面白い」と思える内容があることが大前提で、それがあまりにも長いあいだずっと読み継がれてきたものが「古典」となり、いつの間にか学校でものものしく扱われているだけのことでしょう。



ぶっちゃけ、モーツァルトやベートーベンなどのクラシック音楽なんてのも、当時の「最新ヒットチャート」だったわけで、100年後の教科書には小室哲哉や宇多田ヒカルの顔写真が滝廉太郎と並んで載っているかもしれない。そんなものだと思います。



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古典なんて、例えば源氏物語をほんとに真面目に教えたら、生々しいHな描写やドロドロの展開に、思春期の男子には刺激が強すぎて、授業にならないでしょう。だから、さらっとしか教えないのかな〜と。



でも、授業で「もののあはれ」の文学と習うと、いかにも現代とは違う高尚な匂いがするけど、要は「いつの時代でも恋愛はすれ違ってばかりで、人生なかなか思い通りには上手くいかない。切ないよね。」って意味だと気がつけば、1000年前も今も同じやな〜とずいぶん親近感がわき、逆に理解したり、読み解いたりするのが楽にできます。



とかく我々は、習うということを真面目にとらえすぎて、その意味まで理解するということが苦手なように思います。



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ダンスだってそうです。生徒さんをレッスンしていても、「こうしなければならない」というイメージ、先入観、そういったものが強すぎて、一つ一つの動作の意味を理解していない方がとても多いように思います。



ホールドも、スイングも、ライズもロアーも、「そうしなければならない」からしているだけで、なぜしなければならないのかを考えず、ただひたすら「先生に言われたことを守って」「良い成績を取りたい」、しかしそこには残念ながら、意味を考えず単に試験で良い点を取るのと同じ発想しかないように思います。無理もない。そういう訓練を受けてきた人がほとんどですから。



その結果「一生懸命踊っているのになぜ点が入らないんだ」「ジャッジが悪い」「パートナーが悪い」いやいや、ちょっと待ってよ。そうじゃないよ。



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でも、そうじゃないと言っても、ほんとうの意味に気がつくには、時間もかかります。
私だって初めてロンドンに行ったとき、コーチャーの先生に言われました。
「あなたはホールドという形を作っているだけであって、ホールドをしていない」



物事を理解するのには近道はない、とよく言われます。
その言葉を聞くと、私たちはたいてい、ならばひたすら何百倍も努力しなければ、という気になります。



でも努力だけが手段でしょうか。
考え方を変え、見る視点を変え、ときには全く違うものを見てヒントを探し、そのものの本質を理解しようとする地アタマの鍛錬も大切なのではと思います。



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少なくとも私は、暗記中心の高校の授業はさっぱり勉強する気が起きなくて、ものすごく成績が悪かったですが、浪人生の時にこういう考え方に気がついて、楽しく勉強するようになってから一気に成績が上がりました。リアル・ビリギャル体験です。



ダンスも、20年やって最後のほうでようやく分かった〜という感じ。こういうのをもっと早くに掴んだ人が、若くして成績を出したりしているのかなと。



史跡や名所に実際に行ってみるのも、生の音楽を聴いたり、名物を食べたり、本物の美術を見るのも、すべて同じ。実際に体験して、五感で感じて、本物の良さを見つけることができる人間でありたいですね。
今の時代はインターネットであらゆる情報が手に入りますから、つい分かった気になっちゃう。ダンスだって、実際に踊ってみなければわからないでしょう?



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今回も、石清水八幡宮に行ってみて、なるほどこの立地なら仁和寺にある法師がなぜたどり着けなかったのか、よくわかりました。長年の疑問が氷解でした。



うっそうと木々が繁る山道を抜けると、突如現れる深紅の神殿。
偶然にも、神社は七夕祭りの最中。
たくさんの親子連れの方たちでにぎわっておりました。
皆さまの夢や願いも叶いますように。



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帰りはふもとの日本料理屋で季節の料理を頂いて帰りました。満足の休日でした。



そのまま京阪に乗って帰りましたが、あとでふと思ったことが。
はてさて、仁和寺にある法師が石清水八幡宮と勘違いした、極楽寺・高良神社などはどこにあったのでしょうか?



…少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。