9/24
朝食に初めてパンケーキを注文し、
血糖値も上がったところで、出発
バルトークがNew Yorkで生活した足跡を辿る旅、START
1940年10月、バルトークがNew Yorkに到着してから最初に滞在していた場所。
当時は『The Buckingham Hotel』という名前だったそうですが、今は『the Quin』という名前になっています。
1943年1月、ライナー指揮、ニューヨークフィルとの共演で『2台Pfと打楽器のための協奏曲』をアメリカ初演したカーネギーホール。
これがバルトークにとって最後の演奏会となります。
ここから歩いてColumbia大学に向かうべく、Central Parkをひたすら歩きました
あんなに都会だったことが信じられないくらい、広大で自然豊かな場所。
American Museum of Natural Historyを横目に、
Central Parkを端まで歩き、今度はMorningside Parkへ。
動物もいっぱいいて、気持ちが和みます。
これならバルトークも落ち着いて住めそう。
いい本があったらいいな~と思い、まずColumbia Universityの売店へ
もう売店の規模が…藝大と比べ物にならないくらい大きくて、生活用品も色々揃っていて、スーパーマーケットのようでした
バルトークが1941~43年に勤務したColumbia大学の建物は取り壊されて無くなっており、現在その場所はInternational Affairs(国際情勢の大学院?)になっています。
中を見たかったけれど、今夜のイベントのために今日は公開していないと言われてしまいました…残念
バルトークが通勤に使っていたと思われる入り口。
Queens大通りに面したNew Hampshireアパート。
しかしColumbia大学までの地下鉄の乗り換えが苦痛で、1941年5月に転居。
地下鉄231 Street駅まで乗り継いで行きました。
バルトークはここの2階に住んでいたそうです
家の近くにはEwen Parkがあり、静かな落ち着ける地区でした。
1943年10月、ここのホテル(当時ホテル・ウッドロウ、現レストラン)にしばらく滞在したそう。
ここで『管弦楽のための協奏曲』を完成させ、ここに住んでいた時期に、メニューインがバルトークのVnソナタ1番をカーネギーホールで演奏、そして無伴奏Vnソナタが委嘱されます。
1944年10月から、バルトーク最後の住居。
左上に写っている室外機のある窓のお部屋に住んでいたそうです。
この他に、もっと遠くの郊外にも滞在していた所がいくつかありますが、さすがにそこまでは行けなかったので、1日で行ける範囲を巡ってみました。
さて、New York最後の夜は、人生初のBlue Noteへ
Blue Noteに行くプランにオプションで申し込めたということを全く知らず、危うく聴きそびれそうでしたが、アイワ不動産の社長が現地で教えてくださり、滑り込みで申し込みできました
この夜は、José(ホセ) Jamesさんという方のライヴで、柔らかな声に癒されました。
スーパーベーシスト、Bravoでした
9/25
朝食を食べたら、皆さんとすぐにホテルを出て、空港へ
静フィル皆さんは日本へ、私はハンガリーへ帰ります。
私の便は夕方発なので、皆さんより随分遅いけど、一緒にバスに乗って行こう~と思って空港まで一緒に行きました。
チェックインをしようと思い、団体チェックインとは別のカウンターへ行くと…
「空港が違うよ」
「…?…」
と言われ、本当にびっくり、皆さんと早くに一緒に出ておいて良かったー。
そのまま静フィルの皆さんをお見送りしてお別れした後、ガイドさんが帰路が同じ方向だからと一緒に再びマンハッタンに戻り(ちょっと嬉しい)、そこから一人で正しい帰路につきました
本当に充実した、そしてよく歩いた、かなり自由なNew York滞在でした
素敵な経験、貴重な機会を、ありがとうございました
アメリカ、また来たいです。