⚫️ラナのゴルトベルク変奏曲 | yukkieのブログ

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  ラナという若いピアニストが気になってます。ベアトリーチェ・ラナ。イタリア人。女性。推定20代。ラテン系の民族にありがちな目のくっきりとした容貌。


  しかし容貌に惹かれたのではありません。最初の出会いはコンサートのコンチェルトの独奏者としてでした。


  最近のN響の定期演奏会に登場した彼女、曲はベートーヴェンの第1協奏曲でした。


  コンチェルトの独奏者として東京に出てくる人は、それなりに故地で評価を受けた人のはずですが、一方で若い人であればまだ経験が浅く、しっかりと耳目を集められる人に育つかどうかは、かなり疑問です。すなわち「上手い。きれい」だけに終わってしまい、それだけでは凡百の音楽家と変わらないと烙印を押されがちです。上手くてきれいなだけでは、演奏家としては生き残っていけないのです。


  さてそんなわけで私自身は若い演奏家にあまり期待をせずに聞き始めます。この日も大好きな第1協奏曲ですが、最初の軽やかな旋律を軽やかに弾いてくれて、ああいつもの他の人たちと同じ当たり前の演奏家となのだなあと思っただけでした。


  ところがあにはからんや、意外な展開を見せ始めます。本来、古典の協奏曲でありテンポやフレージングにはみ出しの少ないはずの曲なのに、彼女は聞きなれない微妙なずらしを加えてきます。


  それはアゴーギクというほどのものではなく、ほとんど目立たないものではありますが、それでもかつての演奏家たちが試みなかったような妙なずらしをたびたび挟んできます。


  それが効果的かどうかは一概に言えません。新鮮だと感じることもあれば、それは古典ではないでしょうと思えることもあり、はっきりと「名演」といえるほどの演奏ではなかったかもしれませんが、本来崩すはずのないベートーヴェンの第1協奏曲で、ここまでやる、ここまで反骨?を持つのは、若い女流ピアニストにしては大変珍しい人だと興味を持ちました。


  CDも出ているらしいと聞き調べたところ、パッパーノ指揮の伴奏でチャイコフスキーとプロコフィエフの協奏曲を入れたものが1つと、独奏でバッハのゴルトベルク変奏曲を入れたものが1つ。どちらも触手が伸びそうな内容です。


  しかし協奏曲は今は買わないことにしました。なぜならN響での経験から、彼女がもしやりたいことをやりたいようにやると、おそらく指揮者やオケがついていけない場合もあるだろうと思ったからです。それならば一人で弾いているバッハを買うべきかと。そして買ってまいりました。最新版を買うなんて私には珍しいことです。


  ゴルトベルク変奏曲ときけば、私のような高年の世代ではまず第一にグレン・グールドのレコード演奏が頭に浮かびます。1955年盤も好きですが、哲学的に圧倒的な深みを持った1980年盤は本当に衝撃的な演奏で、あれを聴いてしまうと他のものが聞けなくなるぐらいのすごい演奏です。他のものだけでなく、グールドの演奏そのものを聞く行為が神に仕えるような畏怖を感じ、私には数年に一度くらい、心を整えて聞くことしかできないような滅多に聞けない演奏となっています。


  さて、そんな曲をあえてソロデビュー盤に選ぶラナの神経もすごいと老境の私は思いますが、おそるおそる聞き始めたラナのゴルトベルクは、これまた驚くような演奏でした。


  まず遅いテンポ。繰り返しも含め70分をはるかに超えるテンポは、グールドの初期の2倍近い遅いテンポかもしれません。


  しかしその遅さが苦にならないのです。それは常に生き生きとした音楽が持続しているからです。テンポは常にふくらみしぼみ、一定さを見出しません。ダイナミクスもそう。大きく踏み込んでくる情景もあればほとんど聞こえないような場面もあります。


  グールドのような哲学的なのか? そうでもなさそうです。何かを深く訴えかける演奏でもなさそうです。ではつまらない演奏なのか? いえいえ、実はこんな面白さに満ちた演奏は初めて聞きました。どの変奏も軽い興奮に満ちており、しかもそれが嫌味にならない品の良さも保たれています。


  彼女のこの曲の表現を一言で言うなら「逍遥」でしょう。すなわち散歩です。ゴールの見えにくい散歩ではありますし、厳格な統一感もないのですが、道の途中で止まっては花を愛でてみたり、美しい青空を見上げてみたり、様々な人生の美しさがここに詰まっています。そんな意味ではバッハというよりシューベルトのような音楽といえるでしょう。


  70分あまり、私は実に楽しい時を過ごしました。ゴルトベルクの呪縛、グールドの呪縛から初めて逃れることができました。グールドの演奏でなく規範的なバッハ弾きであるアンドラーシュ・シフの演奏をはるかに凌駕する、素晴らしい演奏です。そして何よりここが大事ですが、これは新しい世代の新しい感覚による美しい演奏だということです。


  最近、就寝時にこれをかけながら眠ることが多くなりました。まさにバッハがゴルトベルクのために作曲した意図と同じことをしています。グールドでは眠れません。しかしラナはいつしか眠りに就くことができます。最後のアリアまでたどりつけなくても、十分に楽しい逍遥を経て私は夢の世界に入っていくのです。





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