キヤノンの凋落 | 減農薬のりんご栽培

減農薬のりんご栽培

(木村秋則氏の自然栽培に近づくために)

会員誌FCTAから貼り付けます

(貼り付け始め)

御手洗会長が元東大教授を「技術顧問」に招いて問答無用の大リストラ。新事業の芽を摘んで焼野原になりそう。
http://facta.co.jp/article/200809037.html
FACTA:2008年9月号 [虎の威を借る「技術顧問」]

「技術展望ができないM会長とI本部長のやり方に、研究開発の研究者たちはやりきれない気持ちで、モチベーションは低下し、とてもC社において新規事業など起きそうにないと皆思っている。辞めていく人たちも出てきている……」


本誌は6月半ば、ワープロで綴られた数枚の内部告発を入手した。要約すれば「創業一族出身のワンマン会長が社外から招いた特別顧問を、研究開発(R&D)部門を統括する本部長に抜擢し、次代を担う新規事業の研究テーマの選定を委ねているのだが、その特別顧問が判断基準を明確にすることなく、密室の審議で長年取り組んできたテーマを次々にお払い箱にしている。研究員は不安に戦(おのの)いているが、ワンマン会長の虎の威を借る特別顧問に異を唱えるものはない……」


同族企業にありがちな「トップのご乱心」に見えるが、実はこの会社は「日本を代表するエクセレントカンパニー」と称揚されるキヤノンにほかならない。M会長とは日本経団連会長を務める御手洗冨士夫キヤノン会長(72)、I本部長とは技術顧問に抜擢された生駒俊明・元東大教授(67)を指す。


消耗品」頼みの収益構造


一見すると、キヤノンは絶好調だ。2007年12月期まで連結純利益は8期連続の最高益だが、収益の中身を分析すると、とても連続最高益を喜べる状況ではない。その高収益の源泉がプリンターや複写機向けのインク、トナーの交換用カートリッジであることはよく知られている。07年12月期の連結業績を見てみよう。プリンターや複写機などとこれら消耗品を合わせた「事務機」分野の営業利益は6503億円に達し、営業利益全体の86%を占める。ハード(機器)は安売り競争が激しくほとんど利益が出ないから、利益の大半は消耗品が稼ぎ出していることになる。メーカー各社は赤字覚悟で機器を売りまくり、交換用カートリッジで利益を吸い上げる。これを業界では「キヤノン・モデル」と呼んでいる。


消耗品頼みの収益構造は危うさを伴う。4年前、キヤノンは同社製インクカートリッジのリサイクル品を扱っていた格安業者に販売差し止め訴訟を起こした。敗訴すれば屋台骨が揺らぐ恐れがあったが、昨年11月に最高裁でキヤノンの勝訴が確定し、経営陣は胸をなで下ろした。

「インクで儲ける会社」と皮肉られる一方で、「カメラ、複写機、プリンターに続く独創的な製品が出てこない」とよく言われる。07年6月に7450 円の10年来高値をつけて以来、株価が5000円前後に低迷しているのは「1986年のバブルジェットプリンター以来、20年以上も新規事業を創出する製品技術が出てこないのだから……」とキヤノン幹部も自嘲気味に話す。


そのR&D戦略の最大の躓きは、将来の中核事業と見なしていた薄型テレビ用パネル「SED(表面電界ディスプレイ)」事業が暗礁に乗り上げたこと。カメラやプリンターなどの「静止画」の世界からテレビが花形の「動画」の世界へ――。御手洗は社長に就任した95年から、キヤノンの独自技術であるSED に目をつけ、研究開発に巨費を投じてきた。99年には東芝と提携してテレビ製品化の技術不足を補い、さらに04年には両社合弁による新会社「SED」を設立、07年の量産開始を宣言した。当時、御手洗は「テレビを自前で作らなければブロードバンド時代にキヤノンの存在意義がなくなってしまう」と、まくし立てていた。


ところがSEDを搭載したテレビは日の目を見ることなく、07年1月に東芝が合弁会社から資本を引き揚げ、東芝姫路工場内に建設予定だった工場も白紙撤回された。SED関連技術を保有する米ナノ・プロプライアタリー社とキヤノンの特許紛争のこじれが原因とされた。

実は、この挫折の主因は薄型テレビの市場動向に対する読みの甘さにあった。キヤノンと東芝の合弁会社が発足した04年の年末商戦で、1インチ当たり換算で1万円前後だった液晶やプラズマなどの薄型テレビの価格は06年半ばに5千円以下に下がった。わずか1年半で半値になる速さとSEDの開発状況を見て、テレビ市場を熟知している東芝は「見切りをつけた」というのが合弁解消の真相である。


それでもキヤノンは諦めなかった。合弁解消の発表の際に「単独で開発・商品化を進める」と表明。「絶対に撤退しない」と言い続けてきた御手洗に「忠誠」を尽くすように「07年10~12月にSEDパネル搭載のテレビを予定通り発売する」と大見得を切った。それが実現しなかったことは言うまでもない。

背景説明が少々長くなったが、冒頭の内部告発が示唆するR&D戦略の迷走は、消耗品頼みの歪(いびつ)な収益構造とSED開発の頓挫が密接に絡んでいる。


「SED」にのめり込む真相


95年8月、キヤノン創業者御手洗毅(84年死去)の長男、肇(享年56)が急逝。御手洗冨士夫は思わぬ形で社長に昇格した。創業者の毅は冨士夫の父の弟で、肇は3歳下の従兄弟。社内では肇がプリンスとして扱われ、御手洗はずっと不遇だった。入社6年目の66年から専務になる89年まで23年間も米国子会社に留め置かれた。社長就任後はキャッシュフローを重んじ、自己資本比率の向上など「米国流」経営を打ち出した。

御手洗は研究開発費を莫大な借金で賄う体質に危機感を抱き、不採算事業には容赦なくメスを入れた。97年に自社ブランドパソコン「イノーバ」などコンピューター事業から撤退したのを皮切りに、強誘電性液晶ディスプレイ、液晶用カラーフィルター、アモルファスシリコン型太陽電池などの不採算事業を切り捨てた。


新規事業の芽を摘んでも、事務機部門の消耗品の高収益のお蔭で、御手洗は「名経営者」の称号を得た。その過程で複写機開発など事務機部門を支えた田中宏・元副社長(76)に連なるR&D人脈が脇に追いやられたという。そして御手洗が「社運を賭ける次世代技術」と睨み、巨費を投じたのがSEDだった。しかし、その目論見は大きく狂った。


御手洗は06年5月に経団連会長に上り詰める。これに先立ち社長の座を内田恒二(66)に譲り、自らは会長になった。御手洗はSED事業の立ち上げを内田に担当させており、内田を社長に据えたことからも、御手洗の入れ込みようがわかる。「万一、SEDが撤退に追い込まれたら内田社長は詰め腹を切らされるだろう」と、社内で囁かれている。

SEDの躓きは御手洗のプライドを傷つけた。もともと御手洗には「私大文系(中央大学法学部卒)で技術がわからない」という評判があり、マサチューセッツ工科大大学院修了後にスタンフォード大電子工学科で博士号を取得した従兄弟の肇に対する強いコンプレックスを抱いていたという。実は83年にSED 研究を開始したのは専務時代の肇であり、その事業化は御手洗にとって理屈を超えた執念のようだ。


SEDの先行きが不透明になるや、御手洗はR&D戦略の抜本的な立て直しを迫られた。SEDに代わる次代の中核製品を生み出さなければならなくなったからだ。「うちは研究開発がダメ。世界の最先端の技術をつかむリサーチ力が弱い」と研究開発部門に不満を抱く御手洗は、新事業と次世代技術の「目利き」を社外に求めた。白羽の矢が立ったのが、元東大教授で05年4月に特別顧問に招かれた生駒である。


生駒は68年に東大大学院工学系研究科博士課程を修了。半導体の微細加工技術などの研究が専門で、79年に米IBMワトソン研究所への留学時にノーベル物理学賞受賞(73年)の江崎玲於奈(83)と知り合い、やがて産・学双方に顔が利く学者となった。東大生産技術研究所教授時代には「電話一本で企業から研究費を引き出せる」と同僚から羨まれた人物である。

そんな生駒は97年、日本テキサス・インスツルメンツ(日本TI)社長に就任。「大学教授からビジネス界への華麗な転身」と話題を呼んだ。親会社である米TIのCEO(最高経営責任者)、トーマス・エンジバス(55)が生駒に惚れ込み、強引に引き抜いた。生駒は社長、会長を歴任した後、03年10月に日本TIを去った。「生駒さんには日本TI時代に鳩ケ谷工場(埼玉県)の閉鎖などリストラをやった人というイメージしかない」(業界関係者)。大手精密機械メーカーの幹部も「プレゼンテーションが得意で、教授時代は江崎さん、TIではエンジバス氏、今は財界総理でもある御手洗さんに取り入ったのでしょう」と言う。


自己宣伝が得意な「技術顧問」


生駒によると、御手洗との出会いは日本TI社長に就任した直後の97年春。意気投合して、以後夫人を伴ってゴルフや食事に出かけるなど家族ぐるみの付き合いだという。研究者と経営者の両方を経験した珍しいキャリアの持ち主だが、その業績については自己宣伝が多いようだ。

御手洗は04年、社内にR&D分野の極秘プロジェクトを立ち上げた。2010年からの10年間を見越してキヤノンの新たな基幹事業(ドメイン)を探るのが目的で、「新ドメイン戦略会議」と名づけられた。

社内が驚いたのは、その議長役に生駒が座ったことだ。前述のとおりキヤノンは生駒と特別顧問契約を結び、チーフテクニカルアドバイザーとして迎え入れた。当初は肩書どおりの技術顧問と見られていたが、じきにそうではないことを研究開発部門の幹部は思い知らされる。御手洗は新ドメイン戦略会議に続いて、07年に設置した「R&D戦略推進センター」で生駒に研究開発組織の改革案を練らせた。そして、その成果を踏まえて今年1月に従来のコアテクノロジー開発本部と先端技術開発本部を解体し、新たに基盤技術開発本部と技術フロンティア研究本部を設けた。

さらに社内を仰天させたのは、その組織改革からわずか3カ月後の今年4月、新設された二つの研究開発本部の本部長に生駒が就任したことである。現在の生駒の肩書は「技術フロンティア研究本部長兼基盤技術開発本部長」。基盤技術開発本部では常務の松本繁幸・副本部長を従えるなど、「副社長級」の待遇のようだ。生駒は経営会議にも出席しており「御手洗さんの隣が指定席になっている」と関係者は言う。「常勤で経営に関する事項を含めて重要な役割を果たしていただいている」とキヤノン広報部は言うが、言葉巧みな元教授がワンマン会長を転がす姿が目に浮かぶのは、筆者だけだろうか。


研究開発部門のトップの肩書を得た生駒は6月上旬、研究開発部門の会合で「経肺投薬デバイス」「燃料電池」「MEMS(微小電気機械システム)スキャナー」の研究テーマの終結宣言を行った。「研究打ち切りについて詳細な説明はなく、『すべて経営者のコミットメントを取り付けている』の一言で押し切った」(研究部門の幹部)。その他の小さな研究テーマも大半がお蔵入りになる方向で、研究員の間に将来への不安が広がっている。

「私は、戦略というのは、何をするのかを決めるのではなく何をしないか、何に特化するかを決めることだと思っています」。日本TI社長時代に、生駒はこんな発言をしている。キヤノンに舞い降り、研究テーマを大量に切り捨てる役回りは、生駒にとって本望かもしれない。

リストラに怯える研究開発部門の士気低下は深刻だ。入社30年を超えるあるベテラン研究員は「生駒氏は蓄積のあったテーマを軒並みリセットして、次は『安全安心』『ロボット』『医用イメージング』だと宣言しているが、具体的に何を言っているのかわからず、皆困っている」と不満を漏らす。


生駒の目利きに疑問の声もある。一例を挙げれば05年の太陽電池に続き燃料電池の研究を打ち切ったこと。地球温暖化と原油高に直面した世界のビッグビジネスはこぞって省エネルギー・環境関連の研究開発を進めている。とりわけ太陽電池の需要はうなぎのぼり。ある専門調査機関が太陽電池市場に参入する技術競争力を特許の質と量で総合評価した結果、1位シャープ、2位キヤノン、3位三洋電機の順だった。キヤノンはすでに撤退しているものの、アモルファスシリコン型太陽電池で高い技術開発力が認められた。67歳の元教授の「執刀」でキヤノンは有望分野まで切り落としていないか。

一方、巨費を投ずるSEDの前途は暗い。「液晶やプラズマディスプレイに比べ高真空が要求され、電子源の劣化を促進するガス放出をしない材料の使用、真空に耐えられるデバイス構造など、電子源以外にもコストアップを免れない。液晶やプラズマの急激なコストダウンに太刀打ちできないし、キヤノンは液晶やプラズマを販売していないので上級機種として売ることもできない。現段階でSEDの勝算は極めて低い」(キヤノンの研究者OB)というのが研究開発部門の本音だろう。本来、「技術顧問」の生駒がなすべきは、御手洗の目を覚まさせ、SEDを撤退へ導くことではないか。


ワンマン会長に「老耄」の影


キヤノンは暗い、陰鬱だ。06年11月にキヤノンの富士裾野リサーチパーク(静岡県)に勤務する37歳の研究員が電車に飛び込み自殺したが、沼津労働基準監督署は今年6月、過重な業務で精神疾患を発症したのが自殺の原因として労災認定した。自殺直前の残業は260時間を超えていた。昨年9月にはキヤノンで研究所長を務めていたA氏が急死。数理解析が専門の社内外で知名度の高い研究者だった。「鬱病による自殺らしい」との噂が流れ、所内に緘口令が敷かれたようだ。

「最大の問題は取締役でも執行役員でもない元教授が研究部門のトップに座り、経営会議メンバーになっていること」とキヤノンOBは言う。経営責任を負わない顧問契約の元教授が、会社の未来を左右する新事業と次世代技術を勝手に決める姿を、株主は何と思うだろう。

最高益を続ける業績にも陰りが見える。カメラ事業の主戦場であるデジタル一眼レフの国内販売台数では07年にニコンにトップシェアを奪われ、08年上半期(1~6月)もニコンにリードされている。半導体ステッパー(回路露光装置)では最先端の液浸量産機の製品化がニコンに比べ2年近く、オランダ ASMLに比べても1年半遅れた。御手洗の焦りは容易に想像できるが、自社の研究開発部門を信頼せず、お気に入りの元教授に「外科手術」を委ねるやり方は「老耄(ろうもう)」を感じさせる。昨年、シャープの町田勝彦会長(65)が、49歳の生え抜きのエンジニアを社長に抜擢したのとは雲泥の差。72歳と 67歳の「老人コンビ」が研究開発部門を絞め殺しかねない。(敬称略)

(貼り付け終わり)