Making Our Democracy Work! 石井登志郎オフィシャルブログ Powered by Ameba -2ページ目

羽田孜先生と最後のお別れ

今日は青山葬儀所にて羽田孜先生の葬儀に参列してきました。

 

私たち若い政治家にとって、雲の上の存在でありましたが、とっても明るいパワーを常に発し続けていたお姿が印象的でした。まさにネアカの典型みたいな先生でしたが、そのポジティブなオーラだけでも、国民に「希望」を与える存在だったと言えるでしょう。

 

羽田先生と初めて長くお話したのは、私が神戸製鋼所を辞め、アメリカに留学することを決意し、ペンシルバニア大学への推薦状をお願いしに行った時です。20年も前の話ですが、まるで昨日のことのようです。「それで、きみも政治家になるのか?」とストレートに聞かれたことが印象に残っています。きみのオヤジのようにアメリカで学位を取ることはいいことだが、頭でっかちになるなよ、みたいなことを言われたように記憶しています。それと、話がいろんなところに拡散しましたが、とにかく人の心配ばっかりしていたように思います。それだけ、こころ温かな配慮の人でした。

それが結果として、総理の座に上り詰めながらも、政権が短命に終わった要因だったとも指摘されます。しかし、物事は長ければいいものではなく、羽田先生が日本の政界に残した足跡、つまり「ミスター政治改革」の遺産は、確実に日本政治史に残されたと言えます。この偉業は、細川内閣で政治改革特別委員長、羽田内閣で自治大臣を務めた石井一との協同作業でもありました。あの当時の政治が発していた、熱きエネルギーを間近で見たからこそ、私も政治の世界に足を踏み入れたのだと思います。

 

最後に羽田先生にご挨拶したのは、五年ほど前のことです。既にご病気を患われており、かつてのように軽快に歩いたり喋ったりできなくなっておられましたが、私の目を見て、ゆっくりと右手を挙げて、あたかも「しっかり励めよ」とおっしゃられたかのようにお応えいただきました。晩年の長い闘病生活は、ご家族にとっても大変な時間であったと思いますし、ご本人にとっても苦しい時間だと推察されます。そうした時期も、羽田ファミリーは明るいエネルギーで支え合って来られました。傍から見ていても、とてもよい家族で、それも羽田孜先生の遺された素晴らしい財産なのだと思います。

 

改めて感謝申し上げ、羽田孜先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

合掌

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夏祭りにおいて感じた教員の働き方について

さて、この前の日曜日は私の住む日野町の自治会が主催する夏祭りがありました。

 

この夏祭りのお手伝いはかれこれ10年ほど前から参加し、一昨年からは自治会の副会長もさせていただいているので、色々な観点から学ぶことがありました。ちなみに、私のお役は、たこ焼き班の班長、金魚班調達係、渉外(安全管理)、全体のオペレーションなど、多岐に渡りました。

楽しい会だったし、いつも8月の最終日曜日に行うものですから、「あー、これで夏が終わるなー」的な区切りのお祭りでしたが、今回は、学校の先生について感じるところがあったので書いてみたいと思います。

 

今回、初めての試みで、夏祭りに地元中学(瓦木中学校)の吹奏楽部の皆さんに来てもらい、演奏してもらいました。生の演奏は迫力あるし、気分も出るし、吹奏楽部の皆さんにしてみても、人前でやる機会はきっと励みになるでしょう。私も間近で聞けて、とっても嬉しい気分になりました。それはそうなのですが、そこに、ある意味で当然の流れで、顧問の先生(数学のようです)が一緒に来てくれ、タクトを振ってくれました。昨今、教員の多忙化、部活に追われる教師、という感じで捉えられることが多く、この日も「きっと休みだろうに。大変だなー。」と思ってみていましたが、私が見る限り、この先生は「全然OK、っす!」という反応で。もちろん、自治会役員である私たちの前で「もうへとへとです。勘弁してくださいよ」などと言うはずはないのですが、私が見る限り、本心から「全然OK、っす!」と言っているように見えたもので。

いま、中教審が出した提言で、教員にタイムカードを導入して超過勤務をしないようにしようとか、部活を外部専門家に委託しようとか、そうしたアイデアが出ています。それはそれで時代の求めるものと思われますが、一方でこの顧問教員のように、本当にやりがいを感じて、ストレスを感じるまでではなく、自分の意思で休日にもサポートをする教員の行動まで制約してはいけないだろうなぁ、と感じたところです。今後、国や市町村レベルなど様々な場面で、教員の働き方問題が議論になると思いますが、私としては、できることならいろいろな教員の「本音」に触れていきたい、そう感じたところです。

 

特に、西宮の先生方、学校に関わっている方々、是非、リアルな、いろんな声を聞かせてくださいね!

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民間に運営委託した図書館視察

今日、前から行きたい!、行きたい!、と思っていた海老名市立中央図書館に行ってきました! 朝のミーティングが二子玉川であり、そこで二子玉川の開発に圧倒され、二子玉川公園がイケすぎていて卒倒しそうになり、その勢いで海老名に乗り込みました。

海老名の図書館は、ツタヤに運営委託をした全国第二の事例として有名です。要は、今までの図書館の常識を打ち破り、本を売る本屋さんと、本を貸す図書館が一体化し、おまけにスタバが入ってコーヒー飲みながら過ごせる、というスペースです。

そもそも私はかなりの図書館好きです。高校生時代に図書館に目覚め、その頃は早稲田大学の図書館に入り浸り受験勉強しました。意志が強くないので、周りで勉強している人がいると、その空気につられて勉強する、そういう図書館が大好きです。今でも、地元にいるときは神戸市立中央図書館、東京にいるときは千代田区立図書館に行くことがあります。西宮の図書館にそうした安楽の場所がないのが残念だなー、と思っているのが正直なところです。

さて、話題のツタヤ運営の公立図書館、海老名中央図書館の話に戻します。こうした現場視察で大切なことは、データではなく「空気感」。その場を取り巻く雰囲気が、いいか悪いか、それを感じるために、海老名まで出向きました。データに基づいて予算がどうだとか、それはあとでいくらでも言えますが、そこにいる市民が幸せを感じてその空間にいるか否か、その点に注目してみました。

確かに、楽しい。居心地がいい。勉強もしたくなる(ような気がする)。そして、地元にも欲しい! そんな気になりました。

ただ、やはりそのコストがどうなのか、それ以外に公立図書館の役割についてどう考えるか、別に武雄市や海老名市のモデルをそのまま使わなくてもできることがあるのではないか、スタバを入れているのは外資に迎合していないか(?!)、などなど考えるべき項目はたくさんです(その前に見た二子玉川公園もスタバだった。なんでやのー?)。しかし、本能的に「羨ましい!」という感覚も、大事にしたいなと思います。

いずれにせよ、いい勉強をできました! 西宮の図書館に何が足りないか。そもそも、今のままでいいのか。もっと本質的に、図書館をはじめとした文化施設に何を求め、現状をどう良くしていくか、考える上でとてもいい刺激になる訪問でした。

今日の二子玉川公園にせよ、海老名中央図書館にせよ、やはり現場は偉大です! 様々な事例の〝空気″を吸って、良いエキスをもっと身につけていきたいと思います!


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東日本大震災の被災地を視察に行ってきました!

今回は、女川町で副町長さんらにお話をお伺いし、現地をご案内いただきました。震災から65ヶ月、なるほどと思うように復興は進んでいるところは進んでいるようです。一番印象的なお話は、津波によって全部がなくなっちゃったから、町づくりがゼロからできた、というお話。人口がもともと10000人の町に集落が56あったので、商店街も公立学校も、それぞれあったものが、この津波で全部流されました、と。そして、新たな町づくりでは、全部真ん中に集めて一つにします、小中学校は一つの一貫校にします、という感じ。これ、コンパクトシティであり、今の政府が言う地方創生の話であり。

津波で流されたことは、悲しく辛いことであったことは間違いないこと。一方で、その起きてしまった現実を前に、創造的に復興したらこうなった、と。なるほど、なるほど。

 

それともう一つ素晴らしい話は、この復興において、60歳以上は口を出さない、60以下のために盾にはなるが、主体的に復興を牽引するのは、この計画の成否が評価される30年後に生きている人らがしなくてはならない、とみんなで一致していること。そして、実際に若い世代が、その期待に応えて頑張っている、シニアは力強く後ろから支えている、ということ。

 

すべての住民が、辛く厳しい経験を乗り越えて前に進もうとしているお話を聞き、とても刺激になったし、勉強になったし、希望を見た気がしました。付け加えると、西宮市はじめ阪神大震災を経験した自治体から、多くの職員が派遣され、彼らがこの復興にかなり尽力している、ということも、とても大切なことです。感謝報恩、こうした形で繋がっているのも、美しい話ではないですか!


私たちができることの一つは、こうして関心を持ち続けることでもあります。女川駅前は、力強く復興し、とても美味しそうなお店が並び、日本中のみならず世界中からのビジターを歓迎してくれます。皆さんもぜひ、東北の元気になりつつある被災地に行ってみてください!


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教員免許取得のゴールが見えて来ました!

昨年四月から佛教大学の通信課程生となり、夜にシコシコレポート書いたり、何度か今日(14日)のようにスクーリングに通いましたが、たぶん、今日で完了(きちんと単位が取れてれば、ですが)。来春には、ワタクシにも教員免許をいただける流れです。

国会にいる時、文部科学委員会で幾度も「教員の年齢構成に偏りがありすぎる。40代の教員が少なすぎるのと、社会人経験を持つ教員も少なすぎ。もっと多様な教員構成を、文部科学省は目指すべきだ!」と主張しましたが、実態をもっと知らないことには、偉そうなことは言えないと悟り。また、新学習指導要領の導入によって大きく変わっていく教育内容、特に高校公民においては、18歳投票権もあり、新科目の「公共」が設置されることになります。そうした中で、私自身、高校公民の教員免許の取得を志し、佛教大学の通信課程に通うことにしました。

この六月には、教育実習も経験しました。目の回る忙しさには参りましたが、壮大な人体実験という意味では、とても有意義であったと思います。教員出身の国会議員はいくらでもいますが、国会議員を経験した者が教育実習した例って、もしかしたら最初ですかね?

日本は、大学の課程における25歳以上の割合が2%と極端に低く、欧米の20%以上とは天地の差です。社会人のキャリアアップが常識の国々と比べて、依然として18の春に決めたキャリアがその後の人生を決める日本とは大違いです。私のユニークな挑戦が、呼び水となって日本の学び直し文化が拡がっていくことを願うばかりです。

それにしても、佛教大学、実にシブくて、通信課程生にはとても充実しています。佛教大学ならではの、インド哲学必修には苦闘させられましたが、それもよい思い出です。今日は、若い友人もでき、とてもよい一日となりました!
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新しい政治団体ポスターについて

7月3日から、新しいポスターの掲示に回っています!

 

石井としろうが代表を務める「みんなのまちづくりプロジェクト」演説会告知ポスターでは、トレードマークとして、「OPEN!」の文字と共に、元気に窓が開けられたような形をマークにしました。「市民の声が風通しよく届く、開かれた西宮市」「市民に分かりやすく市の情報が伝わる西宮市」という意味を表しました。そして、行政にとって大切なフェア(=公正)さと、アクティブ(=行動力)を掲げて、市政に挑みます。

 

「みんなの声が響きあう、開かれた西宮市へ!」と書いたのは、市民のいろいろなアイデアや市政に対する感謝や喜びの声が、もっと届く西宮市にしたいと思ったからです。市民は、政治をなかなか身近に感じることができず、市長や市議の選挙では、投票率が四割前後となっています。一方で、市長や市議に選ぶことに興味がなくとも、自分の子どもが通う小学校の問題や、交差点の安全や防犯対策など身近な課題に関しては、誰もが何らかの思いは持っているものです。今の時代、代議制民主主義が当たり前に根付いたため、個々の課題を論ずるよりも、誰を代表(首長や議員)に選ぶことだけが民主主義のように思われることもあります。しかし、本来は誰かを選ぶことが目的であるはずはなく、それぞれが思う課題を改善していくために、みんなが意見を言える社会、それが一番理想的な民主主義だと思います。それを表したのが「みんなの声が響きあう」「開かれた西宮市」ということです。

 

久しぶりの掲示ですが、結構イメチェンした!、と評判(?!)でもあります。掲示にご協力いただける方は、office@toshiro.jpまでご一報ください!

 

今朝の神戸新聞に掲載された、市長選に関する記事について

今朝の神戸新聞において、「西宮市長選 元衆院議員石井氏が立候補へ」と題した記事が掲載されました。

 

概ね、記事の内容通りです! 

 

現在、新しい政治団体(みんなのまちづくりプロジェクト)を立ち上げ、市民の皆さんの声を可能な限り集め、目指すべき西宮市のVISIONを作成する作業に取り掛かっています! 

 

皆さんには、ぜひ身近な市政に対するご意見やご提案、お住まいの地域の問題などをお聞かせください! まずはメールまたはFBTwitterでのダイレクトメッセージをいただければ幸いです! 今朝も西宮北口の駅前に立ち、アンケートをお配りしたり、駐輪マナー員のおじさんとお話して、色々な気づきをいただいたところです。

 

石井としろう事務所メールアドレス office@toshiro.jp

 

国会を離れ、西宮で暮らした日々は、私にとって新しい気付きを与えてくれる毎日でした。国の政治ももちろん大切ですが、日々暮らす街をよくできるのは、身近な行政の役割です。西宮に暮らしていると、「ここを、もっとこうしたらいいのに!」「なぜあの市で出来ていることが、西宮では出来ていないのだろう?」「市民の皆さんは、市政を身近に感じているのだろうか」というような思いが、次から次へと湧いてきました。

 

湧き出したこの思いをカタチにするために、私ができることを考え抜いた上で、今に至っています! どうぞ縁ある皆様方には、私の新たな歩みに向けて、倍旧の叱咤激励をお願いいたします!

 

平成2975

 

石井としろう拝

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170705-00000004-kobenext-l28

 

本岡昭次先生の思い出

本岡昭次元参議院副議長が逝去された。昨日、その報に接してから、何度か本岡先生のあの時の顔が、どうしても頭の中に出てくる。

“あの時”とは、2010年の夏、民主党政権時に迎えた参議院議員選挙直前の、水岡陣営決起集会の時だ。あの時、本岡さんは私にこう言った。

 

「としろうさん、いやー、びっくりした。あんたにも裏切られるとは、ほんま、びっくりした。今まで政治をやっていて、いろいろ裏切られてきたもんだ。あんたにも裏切られて、ほんま、びっくりしたわぁ。」

 

満面の笑みで、私をつかまえて、「あんたに裏切られて、ほんま、びっくりした。」と本岡先生は言った。

 

私は裏切った覚えも、つもりもなく、本岡先生にそんなことを言われる筋合いはないはずなのだけども、どこかとても痛いところを突かれたと感じ、返す言葉が全く見つからず、ただ黙って、本岡先生の顔を見るしかなかったことを思い出す。

 

これには、少し背景を書かねばならない。

 

2010年の参院選を迎えるにあたり、定数2(当時)の兵庫選挙区には、現職の水岡俊一参議院議員が改選を迎えた。本岡昭次先生の後継である。水岡さんひとりならいいのだが、政権基盤を盤石にしたいと考えた小沢一郎幹事長は、複数区には複数擁立という原則を打ち立て、兵庫選挙区には厚生労働省官僚であった三橋真記さんを公認することとなった。

 

さて、過去官僚であっても、選挙は素人である。そこで、当時、兵庫県連代表であった松本剛明代議士は、私を三橋候補の事務局長に指名し、選挙態勢を組むように指示をした。いくら小沢幹事長の意向だと言っても、大義があったとしても、その役回りを受けたらどうなるか、政治家ならばすぐわかる。「イヤです」というとか、松本さんの電話に一切出ないとか、そうした抵抗手段もあっただろうが、心のどこかに、三橋さんの事務局長も面白い、と思う自分もあり、「火中の栗」を拾うこととなった。

 

それから数か月、私と私の事務所は、三橋陣営にどっぷりつかり、参院選に挑むこととなる。一方で私自身は、現職の衆議院議員でもあり、党の支部長であるから、水岡陣営に対しても顔を出し「二人当選を勝ち取りましょう!」と言って回っていた。ただ、そうは言っても、三橋陣営の事務局長となった者を、水岡陣営が快く思っているはずもない。その視線を痛いほどに感じながら、選挙戦は進んで行った。誰もが「としろうはあっちばかりやりやがって」と思っていたが、誰もそれを口にする人はいなかった。口にしなくても、人の見る目でよくわかっていた。心の中では、「仕方ねーだろ、小沢一郎と松本剛明に命令されてるんだから!」と思っていたが、それをわざわざ言うのもバカみたいなので言わずにいた。

 

そんな中、水岡陣営の決起集会が神戸であった。鳩山政権が退陣し、小沢幹事長も辞任、菅政権は総理の発言によって支持率が伸びず、兵庫選挙区は定数2に二人擁立、それも若い官僚出身の女性候補の脅威に、水岡陣営は相当なピリピリムードであった。そんなピリピリムードの中、私もその決起集会に出席し、壇上に並ぶこととなった。

 

「がんばろーっ!」とみんなで三唱した後、舞台裏から我々議員が出ていく通路で、本岡さんが私をつかまえた。そして、冒頭の言葉を私に投げた。

 

「あんたにぃ、裏切られるとは、ほんまぁ、びっくりしたぁ。」

 

である。それも、満面の笑みで。

 

今、改めて思う。あの時の私は、本岡さんの言うように、裏切っていたのだろう。しかしあの時は、それを認めるわけにはいかなかった。「小沢さんや松本さんに命令されて」と心の中で言い訳をし、自分にも言い聞かせ、そして両陣営にいい顔をできると思っていたのだろう。今思えば、政治家として、その判断が「独立」していなかったのである。そこを本岡さんはわかっていて、「政治家としての行動は、その責任はすべて自分にあるのだぞ。」と言いたかったのだと思う。誰かに命令されて動くのは政治家ではない、自分の信念でこそ政治家は動け、いい顔ばかりしようとするな、そう本岡さんは私に言いたかったのだろうと、思う。

 

そう考えると、政治家・本岡昭次の歩みも、すごく理解できるというものだ。政治改革特別委員会の委員長を解任されようが、社会党という大船を飛び降りて新党を立ち上げ、旧民主党の素地を作ったという歩みも、すべてが信念に基づいて“独立”した行動であった。その歩みの中で、本岡さん自身が“裏切られた”と感じたことは数多あっただろうし、逆に“裏切った”つもりはなくとも、“裏切られた”と言われたこともあったかもしれない。その度に、7年前の私のように呆然と立ち尽くしていたのであれば、政治の道は歩めないのである。

 

本岡先生の意図されたことが、私の理解と一緒かどうか、もはや確かめる術はないが、とにもかくにも、私にはこのように、理解させていただくこととしたい。

 

今もまた、あの顔が出てきた。「としろうさん、あんたにぃ・・・。」満面の笑みで言わなくてもいいのに。。。それがまた、心に響いて仕方がない。

 

本岡昭次先生に生前賜ったご厚情に心より感謝申し上げ、心よりのご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

石井登志郎

【ラジオ新番組『みんなでマナブ!』(ラジオ関西 毎火24:00)がスタートします!】

さて、新年度の4月となりました! 皆さんの便りでは入学、新社会人など新たなスタートの様子が聞こえてきて羨ましい限りですが、私もこの春から新たな取り組みを行います! 本日から、毎週火曜日24:00からラジオ関西(558KHz)にて、私がメインパーソナリティーを務め、アシスタントに女優(の卵)の清川千里さんにサポートしてもらって、リスナーの皆さんと一緒に「ふむふむふむー。」と、楽しく学んでいけるような番組にしていく予定です!
「火曜日24:00って、水曜0:00じゃね?」という突っ込みはその通りです! 業界的に、この時間は前の日を引っ張るそうです。日付が変わったその瞬間、眠りにつくその前に、石井としろうと一緒にサクッと学んで眠りにつきましょう!
ちなみに、ラジオがなくても、今は『radiko.jp』てのでパソコンからラジオを聞くことができます。また、「聞き忘れたー」という方は、放送後にはこれまた『radiko.jp』のタイムフリーてので、放送後一週間は番組が聞けるそうです。技術の進歩はすごいねー。

36年前、アメリカ大統領に就任したロナルド・レーガンは、その社会人としての人生を、ラジオからスタートさせます。天賦の喋る才能に、磨きをかけたのがシカゴでのラジオ時代の経験であったと言います。私も、喋りは下手ではないと言っていただくこともないわけではないのですが、実際に自分で聞いてみると、「ありゃりゃー」と思うことが幾度もあり。今回も、まだまだ発展途上と実感するところですが、それも含めて「学び」の機会と、とても楽しみに収録に向かっています。

是非皆さんも、日付マタギに、もしくはradikoで、新しい石井としろうのチャレンジ、『みんなでマナブ!』にお付き合いください!

 

ラジオ関西 http://jocr.jp/

radiko タイムフリー http://radiko.jp/#!/timeshift

アシスタントの清川千里さんと、収録中!

読書録 『レーガン -いかにして「アメリカの偶像」となったか』村田晃嗣著 中公新書(2011年)

レーガンと言えば、レーガノミクスと呼ばれる経済政策で強いアメリカ経済を復活させ、ゴルバチョフとのコラボレーションで冷戦を終焉させ、その功績から首都ワシントンDCの空港や空母にもその名が冠せられている、偉大で底抜けに明るいアメリカの大統領であるというイメージがあります。確かにその通りなのですが、この本を読んで、いかにレーガンという人物がその時々の時代の波に乗って上昇していったか、一人の人間の人生は、単に努力や素養だけでない、時代の流れというものをいかに掴むかにかかっていると、強く感じさせられます。ラジオ時代の幕開けからテレビ時代に入り、政界に足を踏み入れて大統領にまで上り詰めるレーガンが歩んだ時代は、イギリスではサッチャー、日本では中曽根、ドイツではコール、そしてソ連ではゴルバチョフという首脳と同じ時代なわけですが、それらは決して偶然でなく、世界的な流れ、歴史の大きなうねりの中の必然だったのかと思います。そう考えると、今のトランプ大統領の誕生、それに先立つイギリスのEU離脱は、イギリスやアメリカが例外と考えるより、そうした方向性での大きな流れが、他国にも押し寄せているのだとみるべきでしょう。それと、古き良きアメリカの象徴とも思えるレーガンは、その底抜けに明るく見える笑顔とは裏腹に、プライベートに関しては離婚を経験し子どもとは溝を抱えながらの人生であったことを知りました。人生いろいろ、その中でどう道を切り拓くか、とても刺激のある一冊です。