Making Our Democracy Work! 石井登志郎オフィシャルブログ Powered by Ameba -4ページ目

副首都構想!

昨日、橋下徹大阪市長らが記者会見をし、国政政党「おおさか維新の会」設立を表明、綱領に「大阪を副首都」と盛り込むことを発表しました。

副首都!、この言葉は、2004年に石井一と私が共著で出版した「日本再生 副首都プロジェクト 国家危機管理国際都市創設の提言」から使われ始めた言葉です。この構想が、今ここでこうした形で取り上げられるのはある意味で光栄ですが、今日まで相当の労力を費やしてきた立場としては、これが単なる選挙の争点に留まるのではなく、本当に実現するための前向きなエネルギーになってもらえたらと思うものです。

 

オリジナルの副首都構想は、通称NEMIC(ネーミック)構想と呼び、一言でいえば、伊丹空港を廃港してその跡地に副首都を創設する、というものです。これは国家百年の計とも言える超大型プロジェクトですから、基本的には不偏不党、超党派の議員連盟を立ち上げて、数十回の勉強会や、立法作業も進めて参りました。20117月には、危機管理都市推進議員連盟が、「首都代替機能の整備の推進に関する法律案」をまとめるなど、活発に活動してきました。また、本構想を実現するために、一般財団法人も立ち上げて、政界に留まらない幅広な活動も行ってきました。

 

その中で、当時大阪府知事であった橋下徹氏にも賛同いただき、東京都知事であった石原慎太郎氏も、「遷都は反対だが副首都によるバックアップは必要と思う」とサポートの意思を示してもらいました。特に2011年の東日本大震災の経験は、私たちの危機意識を相当高めたのは事実です。原子力災害が最悪の事態に陥ってしまえば、首都機能はマヒしてしまいます。福島第一原発四号炉の使用済み核燃料が溶融すれば東日本がマヒするとした、近藤駿介原子力委員長(当時)のレポートが、ただの悪夢としてではなく現実に起こり得るものとして対策せねばならない、そんな思いで活動してきました。

 

ただ、伊丹空港の廃港に関しては、賛否両論あるものです。そして時間がかかるものです。よって、すぐにできる活動として、大阪城の横にある、中央省庁の合同庁舎の一角を官邸機能を代替しうるものへとバージョンアップさせることもして参りました。また、東日本大震災の教訓(仙台空港が津波被害を受けるなど)から、内陸空港の重要性を説く声もあります。これに対しては、伊丹の二本の滑走路を一本にまとめ、ターミナルビルを移動させて近隣の農地などを確保すれば、100ヘクタールほどの土地は確保できるため、そこに副首都を建設してはとの考えもあります。

 

それと、この副首都プロジェクトがなぜ関西、大阪であるのか、その客観的説得力は極めて重要です。首都機能移転では、あっちもこっちも手を挙げて、結局収拾がつきませんでした。関西は、言うまでもなく日本第二の圏域であり、その集積は今後も変わらず、日本の核でしょう。そうした点を踏まえ、関西・大阪が副首都にふさわしいと、北海道から九州までの日本人に理解してもらえるようでないと、このプロジェクトは成功しません。今日まで、その努力を積み重ねてきた自負が、我々にはあります。

 

おおさか維新の会によって、「副首都構想」を大きく取り上げることは大歓迎です。このプロジェクトは、選挙における「是か非か」の選択を迫るのではなく、オールジャパンで推進していく、そうした方向性で議論が進めていかねばなりません。

http://www.amazon.co.jp/日本再生-副首都プロジェクト―国家危機管理国際都市創設への提言-石井-一/dp/442676100X

 

安倍政権は、本当に国民経済のためになる政権か

歴史は語る 戦争より経済

イギリスにおける第二次大戦の英雄、チャーチル率いる保守党は、ナチスドイツに勝利をした余韻を持って、当然に国民の支持が得られると思っていたところ、まさかの結果に見舞われます。ドイツ降伏から2か月後の19457月のイギリス総選挙において、保守党政権はアトリー率いる労働党政権に敗北を喫します。イギリス国民は、いつまでも大戦の余韻を引きずるチャーチルでなく、「福祉の充実、生活の再建」を訴えた労働党に支持を寄せたわけです。

もう一つ、似たような事例が1992年のアメリカ大統領選挙です。湾岸戦争に勝利し、中東和平を進めたブッシュ(父)大統領の再選は固いと事前から言われ続けていました。一方で、米国民はアメリカの将来を喜ぶ一方で、経済への不満もたまっていました。そこに、「It’s the economy, stupid!」(経済こそが大切なんだ、愚か者!)とした刺激的なフレーズを掲げて、若いクリントン(夫)が大統領選挙に勝利します。当選後は経済に主眼を置き、財政再建も実現をしました。

 

安倍首相はわかっているように見えるけども

安保国会で見苦しい姿を国民に曝し、批判に耳を傾けずに集団的自衛権行使を認める法律を通した安倍政権。その余韻を打ち切るかのように、「新三本の矢」なんてものが出てきました。安倍さんは、チャーチルやブッシュの失敗を意識しているのかもしれません。だから3年前に再び政権に復帰した時も、最初は経済に力を入れ、そして今、再び経済に力を入れる姿勢を見せています。

しかし、目くらましに経済を使っているだけではないのか、私にはそう見えます。金融緩和と円安によって経済がよくなったと言うけども息切れ間近、地方創生も中途半端に数千億円を地方にばらまいているだけ、TPPはたかだか数パーセントの関税率を下げるために農業に大打撃を与えるような、無意味な交渉にも見えます。

GDP600兆円にするとか、出生率を1.8にするとか、介護離職をなくすとか、一億総活躍社会を目指すとか、安倍さんが924日に掲げたアドバルーンは、確かに耳触りは悪くありません。ただ、自民党の政治はいつもそうですが、うまいこと期待させることに長けてはいるだけのようです。

 

経済と国民生活を本当に大切にする姿勢から、外交も見えてくる

冒頭に触れた、チャーチルとブッシュの敗北から学べることは、アトリーとクリントンは、本当に経済に目を向けていたと言うことです。その点からすれば、安倍さんはやはり、経済よりも自分の理想が先行しているように思えてなりません。

中国の習近平国家主席が、アメリカを訪れ、オバマ大統領と会談をしました。サイバーテロや南沙諸島問題での応酬ももちろん注目ですし、立場の違いが際立った会談ではありました。ただ、私の注目する最大のポイントは、両国は今後さらに経済的なつながりが高まり、国民生活の相互依存が深まっていく中で、対話が続くことです。実利からすれば少々の軍事的な衝突すらあってはならない状況に、両国が置かれる中、米中が現実に即した外交を進めようとしている大きな岐路に立っています。

自分の理想に突き進む安倍さんと、米中首脳の外交と、どちらがしたたかで国民利益に叶うか、そうした視点でも今の政治を見てゆくと、今の政治に対する評価も変わっていくかもしれません。

 

安保法案の採決 「野暮」な日本政治を凝縮した姿だ

「あんた、イキだねー!」と言われれば、江戸っ子風に、「イケテルねー、カッコいいねー。」という感じでしょうか。(いきまたは意気とは、江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。身なりや振る舞いが洗練されていて、かっこうよいと感じられること。また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。出典:wikipedia

「イキ(意気)」の反対は、「野暮(ヤボ)」。「あの人、野暮ったい。」なんて表現を、ファッションなどでたまに使ったりします。意味は「世情に疎く,人情の機微を解さない・こと(さま)。そのような人をもいう。」(出典:三省堂大辞林)要は「イケてない」状態でのこと。

 

ここ数日の国会の混乱状況は、本当に残念です。江戸っ子がみたら、「こりゃ、イキだねー。」とは到底、言える状態ではなく。

 

そもそも、総理があれだけ言っていたホルムズ海峡の機雷除去を、イラン情勢の変化もあったからでしょうか、想定から外したことひとつとってみても、立法事実は弱く、また、憲法解釈を捻じ曲げてこの法案をごり押しするのは、「野暮」以外の何ものでもありません。

 

一方で、確かに、中国の傍若無人とも思える振る舞いや、アメリカ軍の財政面その他制約によって日本独自の力、というか自国防衛にかける責任を示さねばいけない状況にあるのも事実です。今日の平和が、9条によってもたらされたと言うより、日米同盟によってもたらされたという主張も、説得力はあります。しかし、憲法は憲法、法的安定性、立法事実、これらは法治国家の命です。

 

本来は、法案をまとめるのでなく、まずPKO法などハードルの低いものから一つ一つ積み上げて、与野党のコンセンサスを得ながら進めるべき話ではったのではないか。意地になって突き進む自民党政権に対抗し得ない野党も無力ですが、与党内からもっと反対論、抑制論が出て来なかったことは、極めて深刻ですし、連立を組む公明党の責任は甚大です。

 

私がなぜここで、「イキ」と「野暮」を持ち出したか。それは、何が「正」で、何が「誤」か、これはそれぞれの価値観、立ち位置によって変わって来るものです。中国の古いことわざに「一月三舟」とあります。これは、元出雲市長、衆議院議員であった岩国哲人先生のコラムの題名でもありますが、含意は、「一つのものでも、見る者によって違ったように見えること。」です。北に向かう舟から月を見れば、月も北に動いているように見える、東に向かう舟から月を見れば、月も東に動いているように見える。止まっている舟から月を見れば、月も止まって見える。

物の見方が、人によって違うことを受け入れながら、自分とは違う「正義」の価値観があることを受け入れ、そして議論し、違いを埋めながら、修文を重ねてコンセンサスを得るのが、本来の議会の役割です。

 

「野暮」な中でも、各地で沸き起こったデモは、「イキ」だと思います。今まで、デモに行かないような層が動いた、それを実は結構な数の世論が注目をしている、新たなムーブメントであります。もちろん、多くの「プロ市民」が含まれていることも事実ですが、今回はプロ市民ばかりではないことも事実で、こちらの事実の方が重いと思います。この「イキ」な動きの芽を、大きく育てねばなりません。

 

政界再編を見る視点 「憲政の常道」へ突き進み、過去との訣別へ邁進すべし

兵庫が産んだ大政治家、斉藤隆夫が追求した「憲政の常道」


「憲政の常道」という考え方があります。私が尊敬する兵庫の大政治家、斉藤隆夫は、粛軍演説、反軍演説で有名で、衆議院を除名されながら、その後の選挙で大政翼賛会から推薦を得ず、しかしトップで議会に返り咲いた、反骨の政治家でした。戦後は、片山内閣、吉田内閣で閣僚を務めています。その斉藤隆夫は、憲政の常道を貫いた政治家でもありました。「憲政の常道」とは、大日本帝国憲法下において一時期運用されていた政党政治における政界の慣例のことで、衆議院の第一党となった政党の党首が内閣総理大臣として組閣がなされるとするが、その内閣が失政によって退陣した際は、野党第一党の党首が組閣をするべきもの、とする考えです。(ただし、党首の病気などで退陣が余儀なくされた場合などは、この限りではありません。)大正時代から昭和初期まで、こうした考えに基づいて日本の政党政治は機能して行きます。斉藤は、昭和22年に発足した社会党の片山内閣と連立を組んだ民主党に属していました。予算案が否決されるなど混乱した内閣は総辞職をしますが、民主党の大勢は芦田均首班を目指して政権維持を画策します。一方で斉藤は、「憲政の常道を貫き、政権は野党第一党である自由党に担わせるべし」と主張しますが、大勢を崩すには至りませんでした。ここで斉藤は、民主党を見捨て、同志を引き連れ、新党を結成します。

 


「憲政の常道」は、今こそ貫かれるべきだが、そのために決意すべきこと


それ以降、新憲法下になってからは、選挙制度の問題や実質的に政権を担える政党が自民党しかなかったことから、ほとんどが自民党内の政権移譲による疑似政権交代が繰り返され、「憲政の常道」が形になることはありませんでした。東西冷戦構造があったことも、自民党内の疑似政権交代=たらい回しを許された要因だったかもしれません。

しかし、時代は変わり、今の選挙制度はまさに政権が一時に変わりうる可能性が大きい小選挙区制度を中心とした選挙制度です。もはや世界の冷戦は終わり、日本でもイデオロギー論争は求められておらず、自由と民主主義を基本理念とした政党政治が行われなければなりません。つまり、野党サイドは、常に政権の受け皿たり得る存在でなくてはなりません。

さて、今、野党の一部が分裂し、政界再編の話が永田町では賑やかしい状態です。そして、民主党と維新の大阪以外が、合流をも視野に入れていると報道されています。自民党に変わりうる受け皿づくりはもちろん必要ですが、果たして、この単なる「足し算」が、本当に憲政の常道に則した受け皿になるか、疑問が残ります。それは、「政権運営に失敗した民主党がちょっと大きくなったところで、また託したいと思えない。」と考える国民が大多数だということです。政権を担える存在であるとの安定感を示すと共に、絶対に経ねばならないのは、「過去との訣別」です。

斉藤隆夫の歩みを振り返り、身を賭して信念を貫く政治家の強い思いの大切さを改めて感じています。いつまでも過去の遺産や栄光にすがるのではなく、前だけを向いて、突き進む姿を国民に感じてもらうことなしに、「憲政の常道」を貫くことはできません。私は、来たるその時に向けて、もうしばらく、爪を研ぎ続けたいと思います。

原発再稼働について 絶対安全はないことを認識し脱原発と叫ぶだけでなく道を拓くべし

この世に「絶対安全」はない

九州電力川内原子力発電所が明日にでも再稼働するということです。安全や緊急時の対策についての議論がありますが、まず言えることは、この世で原発の稼働に際し、絶対的な「安全」というのはあり得ません。「絶対安全」と事業者や政府が言った時点で、その姿勢は決定的に真摯さに欠けると思います。原発再稼働の是非は、リスクをどれだけ低減した上で、もしもの時に起こりうる最悪の事態にどれだけ備えているか、そうした対策を講じた中で、社会の大半が許容できるリスク以上のメリットがあるか、こうした中で判断されることと思います。よって、神の領域に迫り得る絶対的な安全を求めるならば、全ての原発は再稼働できないこととなります。

 

使用済み核燃料のリスクは再稼働に関係なく存在する

一方で、忘れてはならないのは、原発の再稼働をしようがしまいが、全国に散らばる我が国の原発には、使用済み核燃料や使用前の新燃料がプールに存在していると言うことです。東電福島第一原発事故において、当時の原子力委員長である近藤駿介氏が示した最悪のシナリオでは、定期点検中で稼働していなかった四号機のプールに保存されていた使用済み核燃料が、プールの崩壊によって水がなくなり、冷却が出来なくなって核反応を起こして東日本が壊滅してしまう、というリスクでした。その意味では、原発が動こうが止まったままであろうが、わが国は相当なリスクを、各原発立地において抱え続けているという現実を、しっかり認識せねばなりません。

 

卒原発への歩みを着実にすべし

私は、いわゆる「卒原発」論者です。そして、卒原発をできるか、もしくは原発を維持せざるを得ないか、その選択は今後の条件整備が出来るか否か、にかかっています。その条件とは、第一に再生可能エネルギーの導入と省エネの普及、第二に高効率火力のさらなる普及、そして第三に原発の経済合理性の評価を適正にすることが挙げられます。ここでは第三点目だけ申し添えますが、今回の川内原発再稼働を九州電力が進める要因は、経済性があると会社が判断しているからです。関電も他の電力会社も、原発を再稼働させたいのは、今の仕組みのままで行けば、経済的合理性があるから動かすわけです。民間企業ですから当たり前ですね。一方で、青森県六ケ所村の核燃再処理施設はこれまで2兆円の巨費が投ぜられながら当初の政策目標は見失われ稼働の目処も立たずじまいです。福島原発の損害賠償費用も、東電は5.5兆円と言いますが民間研究機関の試算では、本来はその十倍を計上すべきとの指摘もあります。そもそも、原発を立地し稼働することが経済合理性にかなった仕組みは、政治によってつくられたものです。厄介な使用済み燃料やもしもの時の損害賠償費用を勘案すれば、原発が必ずしもお得な電源ではないことは、多くの国民が理解し始めています。そのための仕組みへ是正するのも、政治の役割です。

原発稼働こそ国力だとの妄信や、原発即廃炉を叫ぶだけの立場でなく、この再稼働を迎えてしまったことをもどかしいと思いつつ、一歩一歩、着実に卒原発を迎えられるように、歩んで行きたいと思います。

参議院選挙制度改革 今の国会議員に、これがブサイクな議論との自覚はあるか

「一票の較差」を改善するための参議院選挙制度改革が参院を通過し、早々に成立するようです。合区を含んだ1010減という決着ですが、理念も議会の本質論も議論されることなく、つじつま合わせにしか見えないこの改革案は、今の日本の政治を象徴しているようです。この議論がブサイクである自覚をもって、国のあり方から民主主義の本質論を論じ、その上で衆参両院のあり方と選挙制度が導かれるような、そんな骨太な議論をせねばなりません。ただの党利党略、個利個略にしか見えない議論をされては、国民が不幸なだけです。

 

参議院の語源である「参議」は、8世紀初頭の朝廷組織における官職が始まりであり、明治政府においては閣僚に当たる卿より上の位でありました。木戸孝允、大隈重信、伊藤博文等々、明治維新に名を連ねる勇者はその多くが参議に任ぜられ、力を発揮します。明治18年に内閣制度が発足するとともに参議制度はなくなりますが、それまでは政府に対して大きな影響を及ぼしてきました。

その後、議会が発足し、庶民の代表からなる衆議院と、貴族院とで構成されますが、第二次大戦の敗戦によって憲法が改正され、貴族院は参議院となり、衆議院と同様に国民から等しく選挙によって選ばれることとなります。ちなみに「衆議」とは大勢で議論すること、まさに大衆討議とも言える、国民の代表が衆議院であるということなのでしょう。

 

さて、敗戦によって「参議」は「参議院」として復活します。しかし、それまでの「参議」とは違い、「衆議的参議」として復活したと言えるでしょう。ただ、敗戦後の短期間で作られた我が国の骨格の中で、本質的な参議院の位置づけや、そもそもの二院制のあり方などが深く考え込まれて新憲法となったとは考えにくいと言うことです。一票の較差裁判は、現行憲法の14条(国民は平等である)と43条(両院は国民から選ばれる)という原則的な二条文による規定から解釈されているわけですが、今日直面するような一票の較差問題が提起されて今のような表面的な議論が行われていることを想定しているとは思えず、この点をとってみれば、憲法が規定する統治論について、何らかの改正が全く行われてこなかった弊害が現出している結果と思います。

 

改めて、私の意見を整理します。まず、立憲主義の中で政治は行われなくてはなりませんから、今議論されている定数改正、最低でも1010減は、即座に成立させねばなりません。次に、そうは言うけども、合区というような解決策は何の理念もビジョンもないので、そもそも参議院はどうあるべきか、衆議院と合わせて二院をどう機能させるか、民主主義に基づいて国民の意見をどうくみ取るか、を整理せねばなりません。都道府県の枠組みも、これまた唯一絶対の枠組みか、考える必要もあるでしょう。明治維新の廃藩置県から150年経って根付いているとはいえ、アメリカの州のようにそれぞれが違う法律を持っているわけでもなく、大久保利通らが便宜的に線引きをしただけに過ぎない都道府県だとの見方もあります。ちなみに兵庫県は、大久保利通が神戸港を抱える県には体力をつけさせておいた方がよいから、普通よりも大きくしようと言って、豊岡県と飾磨県をくっつけたそうです。今の時代を生きる我々も、もっと柔軟でもよいのかもしれません。

 

それはそうと、以上を踏まえ、私の提言は次のような方向性です。まず、衆議院は一票の較差が極力ない選挙制度とします。ここで、小選挙区制度を維持するか、完全比例制度にするか、中選挙区にするかは更なる議論が要りますが、とにかく、衆議院の一票の較差は厳密に平等を維持する制度とすることです。二倍以内なら許容範囲、というような甘い基準でなく、フランスのように1.5倍以内などを目指すべきです。次に参議院は、都道府県単位もしくは道州(ブロック)を単位とし、過疎部や地方の代表が議会へ出て来られる仕組みにすることです。参議院の選び方も含めて、憲法で規定するのです。さらに、国会内改革を行い、衆議院の優越強化や、両院協議会の役割をより強化するなどして、ねじれで国会が止まらないような仕組みを作ることが求められます。これらに必要な憲法改正も、当然視野に入れるべきです。

 

選挙制度を語る上で、言及せねばならないのが1994年に成立した政治改革関連四法案についてです。これらの改革については、20年の月日が経ちましたから、評価を論じても良い時期ではないかと思います。改革論の原点は、そもそも、政治にカネがかかり過ぎると言うこと、中選挙区制度では同士討ちがあって政策議論にならないことが大きなデメリットとして指摘されてきました。この中で、カネの面では、政党交付金の是非論はあろうと思いますが、カネが作れなくても政党の支えで選挙に出られるようになったのは事実です。政権選択ができるようになったのも事実です。一方で、政党本部の力が強くなり過ぎ、議員の多様性が損なわれたとの指摘もありますし、田舎の強固な地盤では議席の流動性がほぼなくなってしまう、議員が地方議員よりも小さな世界で動き回るようになったというのも一つの事実です。

 

いずれにせよ、今回のような表層的で深みのない選挙制度論が、極めて格好悪いことをもっと声高に叫びたい思いです。より深く、民主主義の進化を期すことができるような、本質を論ずる大きな改革の議論がしっかりとされるように、私も提言を続けたいと思います。

 

内閣支持率調査 上がらぬ野党支持率を正面から受け止めよ

先週の安保関連法の衆院通過を受け、マスコミ各社が世論調査を行い、軒並み内閣支持率が下落と報じています。支持率3割を切れば危険水域とされるものが見え始めたとの論もありますが、一方で、政党支持率にはさほどの変化はなく、自民党の圧倒的第一党はそのままです。野党第一党である民主党の支持が、誤差程度しか上がっていないことをまともに受け止めなければ、仮に安倍政権が退陣したとしても、自民党が得意な「疑似政権交代」によって新しい総裁が誕生すれば、自民党政権は安泰です。

 

民主党は、安保関連法案に徹底抗戦し、廃案を目指すとしています。憲法違反との指摘を受け、十分な国民理解も進んでいない中、強行採決をしたことへの批判は当然でしょう。一方で、2010年頃以降から、中国の海洋侵出は著しく、北朝鮮の無秩序で勝手な態度や、アメリカ軍の財政制約など、日本の外的環境は大きく変化しているのも事実です。これに、何らかの手当てが必要だとの世論は根強く、「廃案を目指す」とする民主党の主張は、一般市民からすれば「ここで何もしないのか?!」と解釈されかねません。勿論、対案として領域警備法を提出し、PKO法、周辺事態法の改正案を準備したことは、当然承知をしています。しかし、国民にその思いは伝わっておらず、まるで昔の社会党を見ているような気になったのは私だけではないはずです。「自民党って感じ悪いよね」なんてプラカード掲げた議員がいましたが、「強行採決反対」くらいまでならお役目としてやむを得ないとしても、ネット社会でつぶやかれている意味不明な言葉を、国民の代表である国会議員が掲げているのは、寒い思いです。安倍政権への反対や自民党への批判を声高に叫ぶだけでなく、民主党は、もっと前向きなメッセージを国民に発せねばなりません。

 

野党は、数の上で少数だから政権の座にないのです。最終的には多数でモノを決める議会の構造上、法案審議、議決の場では負けるわけで、負けることを前提に、しかし果実を取る作戦をとらなければいけないと思います。その意味では、領域警備法の提出は評価すべきと書きましたが、審議が100時間近く経ったところでの提出とは、アリバイ作りだったのではないかと指摘されても仕方ありません。こうした一連の行動が、内閣支持率が低下しながら、民主党の支持がほぼ変わらない、微増に留まっている原因ではないかと思います。

 

更に言えば、民主党には未だ、「政権交代をして失敗した」と国民に思われています。そうした評価を「マスコミに作られた不当な評価だ」と言っている限り、支持の回復はないと思います。もちろん、政権交代によって成果を出せたことが相当数あることも事実です。ただ、内部分裂を引き起こし、実現できなかった政権公約が多かったのも事実です。こびりついたイメージを払しょくするためには、その決意が外に見える形でないといけません。私はこれまで幾度も、党名変更、それが無理ならせめてロゴマークの変更を行い、これまでの民主党の失敗を総括しながら、次なるステップへ踏み出す決意を国民に示すべき、と主張してきましたが、全く聞き入れられませんでした。改革政党の旗印を(特に関西では)維新に奪われてしまい、今やリベラル(これ自体は悪くない)しか振る旗がないように見える民主党から、再び改革の意欲と国民の信託を受ける政党へとフルモデルチェンジするためには、今のままではダメと感じている民主党員は、私だけではないはずです。

 

民主主義国家には、健全な二大政党制が理想形であると私は今も思っています。アメリカやイギリスのように、国民の分断(民族、階層、地域)が極めてない我が国において、二大政党制は根付きにくいとの指摘はあります。ましてや、自らを保守政党とする自民党は、世界の保守政党の中でも社会保障政策に相当手厚い施策を積み重ねており、これに対抗するもう一つの軸を作るのは、確かに至難の業です。しかし、それを乗り越えたもう一つの軸を構築することでこそ、日本の民主主義は健全に機能します。安保法案の対応は、その機能の一翼をもう一度民主党が担えるかどうか、試される最後の機会です。参議院での審議が始まりますが、用意できている法案はしっかりと提出し、審議に臨み、少数であることを自覚しながら、果実を取る作戦に出てもらいたいと心から思います。

 

孫文であれば、今の日本政治と東アジア情勢をどう見るだろう

今週、5年ぶりに台北を訪れました。私の勝手な理解では「中国語を話す日本的な国」。国民性の穏やかさ、街の居心地のよさはまるで日本です。20間にも満たない滞在でしたが、その心地よさは、以前と変わっておらず、ずっと住みたいという気持ちにもなりました。

 

そんな台湾にかれこれ9年も住みついて、今や事業家として活躍中の鈴木烈君と、久々の出会いを喜び、懇談の機会を持つことが出来ました。もともとすずかんファミリーとして出会った烈君と私ですが、あれは10年前、私が初めての衆院選に落選直後、葛飾区議だった烈君が区長選挙に打って出て、見事に玉砕したことは昨日のことのようです。その選挙に関し、今でも覚えているのが、ネット選挙解禁前ということもあり、前日の1159までにウェブサイトを書き換えなくてはいけない!、と大騒ぎし、その作業をなぜか私と当時都議会議員であったM.Kさんとで、すったもんだしたことが思い出されます。政界で鮮やかに散ってからの彼は、ある意味見事でした。冗談だと思っていたら本当に台湾へ高跳びし、今や飲食店数十店舗を経営する会社の社長ですから、人生いろいろです。人間は、年を取ると顔に人生が表れるものです。42歳になった烈君の人相は、昔と変わらずきれいさっぱり、いい土地で、家族と仲よく、そしていい仕事をしていることがよくわかりました。さて、私の人相はどう映っただろうかしら。

 

台湾を離れる朝に、現代中国の立役者、孫文の功績を記念するための国父記念館と、台湾(=中華民国)を建国した蒋介石の功績を讃える中正記念堂を訪れてきました。神戸に縁もあり、日本を愛し、日本の女性も愛した孫文を敬愛する私としては、その大きな像を見ながら、戦後70年と今のアジア情勢に思いを馳せました。

 

孫文を讃える国父記念館にいって驚いたのが、「抗日戦争祝勝70周年記念」の記念展示があったことです。中正記念堂にもありましたが、こちらは蒋介石が主人公ですから、この類の展示はあるだろうなと思いましたが、孫文の国父記念館の方にもあるとは、めまいがしましたし、厳しい現実を突き付けられた思いでした。ただ、展示には多少の違いがありました。中正記念堂では、盧溝橋事件に始まり、南京大虐殺や日本軍の侵攻によって故郷を追われた5千万人以上の難民などの絵が数十枚飾られています。一方の国父記念館には、そのような絵や記述はほぼなく、中華民国立国にあたり様々な方面で功績のあった方々の紹介がされていました。しかし、それらも含めて題名は「抗日祝勝70年」です。

 

私はこれを見て、「親日的なはずの台湾でもこれか?!」と思いますが、だからと言って、今の台湾人に日本に対する厳しい感情があるとは思えません。そう考えると、例えば私たちは20世紀初頭の日露戦争勝利を今でも祝っていますが、別にロシア人を今でも忌み嫌うというために祝うよりは、ロシアに勝ったことで先進国の仲間入りを果たしたことを記念しているのだと思います。そう考えると、大東亜戦争は日本以外のアジア諸国にとって、その後に真の建国と独立を果たすために、忘れることができない歴史の転換点であったのだと理解します。さて、仮にその理解が正しいとすれば、真の建国と独立を果たすきっかけとなった「抗日勝利」は、中国、台湾、朝鮮半島、フィリピンなどでは、今年の70年目に留まらず、80年、100年、場合によっては300年、500年と続く節目として語り継がれるかもしれません。しかし、それが今後も「抗日勝利」という表現であるとすれば、日本人としては抵抗があるところです。1945年と言う節目を「抗日勝利」という表現から、例えば「真のアジア諸国独立幕開け記念」などに変えるための、戦略的アプローチを、まずは比較的親日であるフィリピンと台湾からしてみたらどうかと思います。

 

孫文が残した言葉の中で、心を打つものが「三民主義(民族、民権、民主主義)」であり、「博愛」であり、「天下為公」であり、そして「覇道でなく王道を貫くべし」とした思想です。特に「覇道でなく王道を」とは、今の日本を取り巻く国々の指導者にしっかり言い伝えねばなりません。孫文曰く、武力によってねじ伏せる『西洋の覇道』に対して仁義道徳で感化させるのが『東洋の王道』だとし、日本の目指すべきは東洋の王道を基礎においた大アジア主義である、と訴えました。今の中国(北京)指導部の南沙諸島への進出や日本近海への侵出は、まさに「覇道」と言わざるを得ず(北朝鮮の金王朝はもっと覇道路線)、そこに相手国も覇道で事に当たれば、そこには力と力のぶつかり合いしかなくなってしまうわけであります。

もちろん、大東亜戦争を起こした大日本帝国こそが、「覇道」の極みではないかとの指摘を忘れてはなりません。そうした歴史を刻んできたからこそ、日本は「王道」を貫き、力によって他国をおさえつける道には断固として反対し、仁義道徳を重んじ、平和国家としての路線に邁進すべきだと考えるところです。日本の国会では、安保法制に関して大変大きな節目の状況です。私は、日本を取り巻く国際環境が変化をしていることを理解しますし、アメリカやフィリピン、オーストラリア等々の指導層の日本に対する期待も承知をしているつもりです。さてそこで、日本が取るべき道は、米比豪などの現時点での期待にどう応えるのか、日本が歩んできた歴史に思いを馳せながら、その日本が貫くべき「王道」が何かを見極めて道を選ぶ、大変大きな岐路に差し掛かっていると思います。

総理がいくら口で否定したとしても、今日までの言動からして、歴史修正主義と言われても仕方のない人が中心の政権で、「覇道」と思われる方向へ日本を導くことは、どうも釈然としない思いです。孫文であれば、安倍総理と今の日本人にどう声をかけるだろうか、日本が迎える歴史の大きな岐路に、思いを馳せるのでありました。

 

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フィリピンの激戦地・コレヒドール島の訪問慰霊記

先ほどマニラから帰って来ました。今回は、以前から一度は行きたいと思っていたコレヒドール島に行く機会を作れました。マニラから高速船で一時間の、マニラ湾の入り口にある小さな島ですが、その重要な地理的条件により、日米のフィリピンにおける戦闘の中でも一番の激戦地となった島です。

 

たった9平方キロしかない小島でありますが、その戦死者数は一万人以上を数えます。日本軍だけでは4,500人以上とされています。特に敗色濃厚となり「I shall return.」の言葉通りフィリピンを奪還しに戻ってきたマッカーサー率いる米軍に追い詰められたコレヒドール島の3,000人にも上る日本軍は、無謀な作戦によって玉砕を余儀なくされます。日本軍戦死者の慰霊墓地には、20歳前後で散ることを余儀なくされた日本軍の若い兵士の名前が刻まれています。例え戦争に負けたとしても、死ぬ必要がなかった命があまりにも多かったことは、まさに為政者、司令官が責めを負わざるを得ないものです。政治家の責任は、極めて重いと改めて感じました。

 

元日本兵の野中義治さんと言う方の「コレヒドール島玉砕記」と題した手記には、以下のように記されています。

軍とは名だけ、まったくの無装備・無戦力のまま、いわゆる負けいくさの冷酷さとひあいのなかで玉砕した防衛軍将兵は五千人をこえる。

その全員が歓呼の声にゆうやく父祖の地をはなれ、じゅん国の意気もたからかに幾度かの戦いに死線をのりこえてきたつわものばかりであった。その歴戦の勇士たちが唇をかみ切るほどの無念さと、身をふるわせてもやり場のない焦慮のうちに、むなしく散華して行ったのである。

日本軍名「桜隧道」のマリンタトンネルの中で一瞬に戦没した三千数百人の将兵の中に「万歳」の声は一つもない。

断末魔の口から出る声は母の名であり子供の呼び名であった。

その戦況があまりにも凄惨であったがために、生存者の誰もが口に出しては言えなかったのではないかと思われる。

 

 

日本軍戦死者の慰霊墓地からほどない距離のところに、フィリピン政府によってつくられたフィリピンの独立に至る足跡をたどった施設があります。そこで私が見てショックを受けたのが、第二次大戦時の日本軍による残忍な様子を表した数十枚の絵画が掲示されていました。いわゆる慰安婦とするために強制連行しようとしている様子であったり、日本の軍人が農村で民間人の首をはねているような絵です。中国や韓国でなくフィリピンでも、70年前の歴史がこうした形で掲示されていることに、何とも言えない気持ちとなりました。

 

先般、来日したフィリピンのアキノ大統領が、日本との訪問軍地位協定(VFA)の可能性について言及したとされています。自衛隊がフィリピンで活動する可能性について、現実的な議論に入るとの指摘もあります。アキノ大統領にしてみれば、南沙諸島で傍若無人な振る舞いをする中国をけん制するためには、アメリカだけでなく日本の影響力も必要と考えてのことでしょう。現在、国会で審議されている安保法制の議論では、ホルムズ海峡での有事についてよく言及がされますが、実際の国際情勢としては、フィリピン(およびベトナム)との関係をどう位置付けるかの方が、よりリアリティが強いと思います。一方で、コレヒドール島を訪れて再認識しましたが、日本の背負う歴史の重さは今なお続いており、それに正面から向き合うことなく突き進むことは許されるものではありません。

 

無念の中に散り、南の島に眠る英霊に思いを来す、印象深い機会となりました。

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民主党兵庫県第7区総支部代表退任のご報告

昨日5月末日を区切りとし、民主党兵庫県第7区総支部代表を退任いたしました。200412月に任ぜられ、もう10年半の月日が過ぎたことになります。これだけの長期に渡り、地域の政党支部代表として活動させていただいたことに、まずもって感謝申し上げます。

この間、総選挙は四度経験し、国会でも活動の場をいただきました。その他、地方選挙と参議院選挙は各三度、その他、市長選挙や補欠選挙などにおいても、西宮・芦屋の地で陣頭に立たせていただきました。また、多くの市民の方と触れ合わせていただく機会をいただき、政策課題に共に向き合い、人間として、政治家として大いに成長させていただく機会をいただくことが出来ました。本当にありがとうございました。

 

私はこの529日で44歳となりました。私が神戸製鋼所を退職し政治家を目指し、そのためにアメリカ留学を決意したのが25歳の時だったわけですが、当時、迷惑ばかりかけていたB課長が確かあの時、44歳だったように思います。そのB課長が退職を告げた夜に、飲み会の帰りのタクシーの中で「石井君、君の挑戦を応援するよ。アメリカではね、40歳台になると『over the hill』と言って人生の丘を越え、それから先は折り返していく人生になる、って言われているんだ。もっとも、それは節目をお祝いしてもらう際に『over the hill』、ここまでよく登って来たね、とねぎらってもらうわけだが、丘を越えたら、あとは下がるってことだけどね。ま、キミは丘を目指して登りたまえ! ハハハ!」。そんな励ましを受けたことを思い出します。

 

昨今の長寿化で、over the hillのお祝いは50歳とすることも多いようです。いずれにせよ、私も年齢的には『over the hill』の年となりました。しかし、まだ全然、丘を越えるどころか、今は断崖から転げ落ちそうな(落ちてしまった?)状態にあります。どうやら、今の登り方ではまた転げ落ちるのかもしれない、いや、もしかしたら、登り方を工夫するか気合を入れ直せば、この道でも登れるかもしれない、そんなことに思いを巡らしています。近未来には登り方をしっかり自ら心に決め、わき目もふらずに馬車馬のように走り始める日まで、皆様にはしばし、猶予をいただくことになります。

 

今は、人生80年の時代。私がしっかり健康を維持できれば、政治家としてあと30年、もしくはそれ以上の時間があります。はやる気持ちがないと言ったら嘘になりますが、30年先を考えると、目の前だけを見て日々を送ってはいけないとも思います。日々、健康であり、愛する妻子に恵まれ、今も私を応援いただく方がたくさんいることに感謝しながら、今後益々実りある日々を過ごし、私の『hill』に向けて登り続けることをお誓いして、退任のご報告と致します。

 

ありがとうございました!