Making Our Democracy Work! 石井登志郎オフィシャルブログ Powered by Ameba -5ページ目

熱騰アジア、ダッカ、バンコク、マニラから帰国しました

皆様ご無沙汰しております。29日には44歳の誕生日を迎え、多くの温かいメッセージをいただきました。ありがとうございました!

さてこの一週間、バングラデシュ→タイ→フィリピンと駆け巡ってきました。アジアは熱い、もちろん気温も暑い! 文化や政情の違いはあれど、それぞれが成長に向けて躍動している姿を肌で体感してきました。詳しいレポートはまたにして、この一枚をアップしておきます。

 

このお二人のシニアジェントルマンは、1977年に起きたダッカ・ハイジャック事件の因縁深い方々です。って、一人は言わずと知れた石井一・当時の運輸政務次官でハイジャック事件の政府派遣団長。そして真ん中の方が、当時のバングラデシュ政府ナンバー2のマームード元空軍司令官です。お互い、御年80歳。ダッカにおける死線を越えかかった二人の友情は、今なお、深いことを感じさせてもらいました。

 

1971年に独立したバングラデシュを、米中に先駆けて承認したのが当時の日本政府。そうした親日感情が、日航ハイジャック機の着陸を受け入れた要因のひとつになっているらしく。最初に着陸しようとしたカルカッタには断られたらしいし。日本国内の政府と赤軍の争いに巻き込まれたバングラデシュ政府でしたが、当時の対応は今もって感謝すべきものと思うし、私はその因縁を引き継がせていただくべく、政治のシーンでしっかり働けるよう、精進して参ります!

 

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和田とよじさん応援しながら、地方選のあり方を考える

今朝は西宮市議選の「和田とよじ」候補応援からスタートしています。和田さん、5年前の補欠選挙に公認候補として出ていただきトップ当選していただいてから、一番信頼できる、実直な仕事のデキる市議さんとして、本当に私も助けてもらいました。そんな和田さん、選挙は強くないんだなー。民主系ですが労組推薦全くなし、業界団体の組織だった支援なし、見ての通りの〝昔の″イケメンですから、ふわふわ票もあんまり期待できず。しかし、和田さんは元西宮市幹部職員で企画部長や秘書室長を歴任された市政における実力派、本当にきちんとしている人なだけに、何とか通さねばなりません。皆さん、「和田とよじ」さんに信頼の一票をお願いします!

 

さて、今朝も活動しながら思っていたのが、こんな都市部で朝の駅立ちしている最中に、公選法の関係上、候補者の政策ビラが配れないというのは何とももどかしいということです。国政選挙だと、(枚数制限はありますが)本番中でもビラを配布することが出来ます。首長も、実質的には配布することが出来ます。しかし、県議や市議などはなーんにも配れません。よって今朝も、「地元の和田とよじでーす!」と元気にあいさつをする以外にやりようがないわけです。特に8前はマイクも使えませんから、ただのニコニコ攻撃となります。知り合いがいれば、その人にも満面の笑みでお願いしちゃうことになります。どの候補者とも知り合いでない一般有権者からすれば、毎日、入れ代わり立ち代わりいろんな候補が来る中で、どいつもこいつも「おっはようございまーす!」だけではさすがに投票行動を決められないでしょう。せめて、それぞれの候補の取り組みや実績、ビジョンを知りたいものでしょう。

 

さて、そこで思い起こされるのが5年ほど前、私が衆議院政治倫理特別委員会の理事をしている際に、地方議員の選挙でも期間中に政策ビラを配布できるようにする公職選挙法改正案の準備を進めていたのですが、それをカタチにできないまま、現在に至っていることです。実際、法制局とも方針を詰め、ネット選挙解禁と共にさくっと通しましょう!、と作業を進めていたのですが、当時の決まり文句である「一票の較差是正が対応されてからだね。」との言葉に、この改正案も陽の目を見ることなく吹き飛んでしまいました。その結果が、今回の統一選でも続いてしまう、「○○太郎、よろしくお願いしまーす!」の連呼合戦になってしまっていると思うと、うーむ、一刻も早く国政に戻らねばならぬと思うばかりです。

 

そもそも、わが国の公選法ほど前近代的と言うか、健全な民主主義の足かせとなっている法律は、世界を見渡してみても極めて珍しいものです。もちろん、歴史的経緯が積み上がって今日に至っているわけですが、接ぎ木をするにも限界はあります。アメリカなどは、お金にまつわること以外に選挙の制限はほとんどといっていいほどありません。逆に日本はこの公選法のおかげで、どの候補も同じような活動しかできず、それが有権者にとって必要な情報を提供できるものではない以上、民主主義は衰退するばかりと危惧するものです。

 

つらつら書きましたが、そうは言いながら、選挙は現在進行形で行われています。少しでもベターな選択を、有権者の皆さんがしていただけるように、残りの4日間、私も貢献したいと思います。

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統一選後半区市議選 わけがわからないときは地元の候補へ投票しよう

さて、本日から統一地方選挙の後半戦が始まりました。私も西宮市・芦屋市の民主党総支部長として、公認および推薦の四候補の出陣式に出席して必勝を誓いあいました。まずは、その候補者である、西宮市では公認の岩下あきら候補、推薦の和田とよじ候補、田中良平候補、そして芦屋市では推薦の中村亮介候補へのご支援をお願い申し上げます。

で、話はここで済んでもいいのですが、他の選挙区の方もいらっしゃいますし、政党色やとしろう色以外でも候補を考えてみたい、と言う人もいるでしょう。それぞれの選挙には数十人の候補者が出ていますから、特定の候補に何らかの縁のない人は、はっきり言ってワケわからないでしょうし、その結果、投票に行かなくなると言うことはよくある話です。

そこで、私からの提案は、もうわけわからないときは、地元の候補に投票してください。その人がすこぶる悪い評判でない限りは、どんな候補者でも、自分の地域の課題くらいは対応します。いっそのこと、共産党でも公明党でも自民党でもいいですから、地域を基軸に選ぶというのでいいんじゃないかと、この際思ったりします。

私はこれまで、色々な地域行事、夏祭りや地域の清掃、自治会総会や住民交流の餅つき、運動会などに参加してきました。それぞれの地域では、地域出身の議員が、所属党派があろうがなかろうが、共に汗を流して根を張ろうとしています。党派が違えば、基本的な立ち位置が違うところは当然ありますけど、危ない交差点対応や地域の子どもや高齢者に対して目を注ぐ気持ちは、それぞれ持っています。どんなに立派なことを言い、きれいな写真写りをしていても、全く別の地域に住んでいれば、市区議レベルでは皆さんの地域にまで目を配ることはありません。どんな候補者でも、重点地域を持っています。聞くところによると、加古川などの自治会では、「自治会推薦」などというものもあるようです。本当に誰もわからずわけわからないのならば、自治会推薦があるならその候補、なくても同じ地区の候補に投票するのは、とりあえずあり得る選択肢です。

いずれにせよ、皆さん、投票には行きましょう! そして、この統一選の後に、この統一選の検証を含めて、徹底的に「ニッポンの選挙と民主主義」のあり方について、議論をして改革の方向性を考えてみたいと思います。尚、繰り返し言いますが、私の立場からはまず、民主党の公認ないし推薦の候補への投票をよろしくお願いします!

統一選後半 大選挙区における市議選を考える

さて、12日の統一選前半(県議・政令市議)に続き、26日には後半(一般市議・区議)の選挙が行われる予定です。西宮では、定数が41に対して60名程度、芦屋では21名の定数に30名程度立候補を予定しているようです。東京の世田谷区や大田区などは、80名近い候補者が出るようですから、訳わかりません。(ちなみに、こうして一つの選挙区から10名以上を選ぶ選挙を大選挙区と呼びます。)個人的なつながりがない限りは、誰を選ぶか、わかるはずもないと言うのが普通の人の感覚でしょう。

昔は、地域のつながりがあり、それぞれの地方議員はその町内代表的な位置付けであったのでしょう。たくさん候補が出たとしても、それぞれが自分の町内を固めていれば当選できた時代であったとも言えます。4月6日のブログで、有権者は何を軸に投票行動を決めるのかとして、「属人型」「組織型」「地域型」「政党型」「政策型」「感情型」「タレント型」の7類型を提示しました。これらの中では、昔の大選挙区では「地域型」「属人型」が多く、それに加えて労働組合や業界団体の「組織型」が加わる、という構図でありました。地域型と言えば、自民党や保守系だけと言うわけでなく、社会党であっても地域の代表として選ばれることも、当然あったわけです。

こうした状況は、徐々に変化をしてきます。地域のつながりが希薄化してくるにつれて、居住する地域に縛られない、またそもそも政治家と属人的なつながりのない層が増えてきました。それに乗じて登場した、駅前などで演説をし、ビラを不特定多数に配る手法(いわゆる空中戦)を主体的に行う候補が出てきました。また、国政政党の看板を前面に出す候補も増えてきます。先ほどの7類型で言うと、「政党型」や「感情型」、もしくは「タレント型」で当選を目指す候補が増えてきました。典型的なのが、ほとんど社会人経験がない若者が、若さと勢いだけをウリに選挙に出るようなケースです。

さて、そんな中、最近の地方議会から流れるニュースの中は、地方議員のネガティブな要素を炙り出しました。政党やイメージ、もしくはタレント性を求めて投票してきた有権者は、特定の利益を求めているわけではありません。地方議員に何かを期待したいと思っていたのに、地方議会の信頼が損ねられ、政治全体への嫌悪感、忌避感につながっています。それがさらに投票率を押し下げていくという、悪循環にあります。

19日から始まる選挙は、そうした中で行われます。現行の公職選挙法では、選挙期間中に政策を記したビラを配ることもできず、政策を語るための戸別訪問も許されません。「政策型」で選んでもらおうとするには、ツールは限られています。出る方は必死ですが、候補者たちがむやみに熱意だけの押し売りをされると、有権者はさらに冷めてしまうかもしれません。みんなの税金を使って、大切な代弁者である議員を選ぶこのプロセスのあり方を、じっくり検証し、改善の方向性を見極める一週間にしたいと思います。

統一地方選挙(前半)を終えて チャーチルならどういうだろう

12日投開票で、41道府県議会議員選挙と政令市会議員選挙が行われました。選挙結果は悲喜こもごも、選挙までの気力体力胆力すべてを出し切った候補者の気持ちは、自ら当落を経験したものとしてよくわかります。選挙は、絶対評価でなく相対評価。その選挙区の構図によって状況は大きく変わります。また、選挙に強いことと立派な議員であることは、必ずしも同一なことではありません。よって、運よく生き残る人もあれば、吹き飛ばされることを理不尽と感じざるを得ない候補もいます。ですが、それも含めて選挙です。

今回、選挙運動をしていて感じたのは、「ウラ寒さ」です。特に、号泣さんを生んだ西宮市選挙区では、有権者の選挙運動を見る目は、シベリアなみに寒かったように思います。これは、候補者云々の問題ではないと思います。記者などにも聞きましたが、他党の候補も寒々しかったようです。投票率は35.9%と、県内ワースト3位の低さとなったことが示す通り、有権者は本当に冷めていました。これは、もちろん政治に携わる側に大きな責任があるのですが、それだけ有権者にとって投票に行く必要性を感じさせない議会ならば、ゼロベースでその存在意義を考えてみる時ではないでしょうか(こう書くことで、地方議員の皆さんがポジティブに反発し、地方議会の役割の発信を強化し、改革案が出てくればすばらしいことです)。

もうひとつ感じたのが、大阪維新の底堅さ、特に大阪においての強さは目を見張るものです。大阪圏以外では、ほとんど存在感がないことも、逆に確認できた地方選挙でした。さて、関西に話を戻しますが、上西議員の話で維新全体にも影響が出るかと思いましたが、そういうレベルの話ではなかったようです。ちなみに、民主党は、大阪市内においては府会も市会もゼロ、府全体では平野元官房長官の地元で一人通っただけであとは全滅、堺市会でこそ数人当選していますが、これを壊滅状態と呼ばずして何というか、現実はシビアです。大阪都構想の議論を見ていて思うのが、1993年の政治改革、2005年の郵政民営化、2009年の政権交代選挙です。変えようと攻めて行く方のエネルギーの方が、守るべきとの議論よりも強い傾向にあります。その議論が正しいかと言うのはさておき、「攻めこそ最大の防御なり」とはよく言ったものです。今、世論調査では大阪都構想の賛否は拮抗していますが、この調子で行けば賛成が上回るのではないでしょうか。

「議会制民主主義はひどい制度だ。ただし、人類が考え出したその他の制度は、もっとひどい。」と言う主旨のことを言ったのはイギリスの大宰相、チャーチルです。チャーチルは選挙がことの他大嫌いだったそうです。初出馬時に落選し、その後しばらく当選しますが、間では三回連続落選します。保守党から自由党、そしてまた保守党へと戻ったり、選挙区もスコットランドやイングランドへ幾度か変わるなど、その変遷はイギリスならではとはいえ、日本ではあまりあり得ない歩みではあります。ただ、チャーチルの志が折れずに挑み続けたことが、大宰相としての器量を生む糧となったのかもしれません。人類が新たな制度を見出さない限り、議会制民主主義が今後も続いていくでありましょうから、この選挙の結果をよりじっくり検証し、チャーチルならばどうするだろうか、そんな答えのない問いに思いを巡らせてみたいと思います。

なぜ、選挙への挑戦者がいないのか

今回の統一地方選挙では、41道府県で選挙が行われますが、そのうち総定数に占める無投票当選の比率が過去最高の21・9%に上りました。香川では全41議席の約3分の2(65・9%)に当たる27議席が決定、続いて山形(45・5%)、宮崎(43・6%)-の順となっています。兵庫県では全40選挙区中17選挙区が無投票となり、全87議席のうち18議席が選挙を経ずに決まることとなりました。率にして20.7%が選挙の洗礼を受けることのなかった議席となります。

メディアはこの事態を受け、「深刻ななり手不足」と書いていますが、これは正確ではありません。「なり手」は無投票であってもいるわけで、選挙への「挑戦者」がいないわけです。これは端的に言って、選挙に対するリスク、つまり落選や人目にさらされて活動するリスクの方が、議員となって得られるものよりも大きいと多くの方が考えているからです。通る可能性が低い選挙に、喜んで進んで出る人なんてほとんどいないでしょうし、ましてや仕事を辞めたり資金をつぎ込んでまで、自己犠牲的にリスクだけかぶる人などいるはずもありません。

選挙がないことは、有権者にとっても不幸なことです。選挙は、議員を選ぶということが目的ではなく、四年に一度、議会で何が行われてきて、何が課題であり、今後に市民の代弁者たる議員が何をしようとするか、チェックする最大の機会です。仮に当選者が同じであり続けても、選挙がないよりはあることの方がよいに決まっています。民主主義の基本中の基本が選挙であり、それがないということは極めて不健全です。どうにか、この不健全な状況を、健全なものにせねばなりません。

私もこれまで、何人もの方の立候補を後押ししたり、相談に乗ってきました。志があってもノウハウがわからない人などは、喜んでサポートしますが、就職するようなノリで来る方や、単なる上昇志向で来られる方、もしくは戦略も夢も政策目標もない方などは、どうやって納得して立候補へ踏み切らないようにさせるか、大変気をもむものです。一方で、政党や政治集団の役割も大変大きいものです。つまり、昨今は特に政党名やムードで選ばれることが多くなっていますから、十分にフィルター機能を果たさないと、とんでもない人を議会に送ってしまうことになります。

今の時代は、議員になりたい、挑戦したいと言う人を探すのが難しい時代になりました。一方で、皆が税金を納め、その行き先を決める大事な役割を果たすのが議会でもあります。そう考えれば、議会に優秀な、というより市民県民の役に立つ人間が集まる仕組みを考えねばなりません。同時に、選挙に挑戦する人に対して、有権者がなぜ冷めた目で見てしまうのかも考えねばなりません。私自身、何度も選挙に携わっていますが、今ほど選挙運動に対して寒い目を投げられている時はないと思います。それだけ、政治に対して有権者は期待をしていないし、胡散臭い、遠ざけたいものと思っていると思われます。

この状況は、放置すればもっと悪い方向へと進んで行くことが想像されます。この先を考えると、とにかく改善策を考えねばなりません。以下に、私の考えの一端をお示しします。まず、議員の流動性を高めることです。具体的には、一人区を認めず、複数区を原則とすることです。一人しか通らないところへ挑戦するのは大変ですが、二人以上の定数ならば、当選確率もそれなりに高まります。それと、任期制限をすることです。同一選挙区からは例えば上限を三期とすれば、必ず流動性は高まります。優秀な人材ならば、県議から市議へ、もしくは他の選挙区へ、移って機会を伺うこともできるはずです。また、選挙運動そのものも考えねばなりません。今の県議選は、選挙期間中にビラの配布すら認められていません。ビラを配らずに自分の考えを伝えるには、マイクで大声を出すしかありません。それでは、選ぶ方も選びようがありません。さらには、落選が人生のリスクにならないような、そんなことも考えていくべきと思います。

いずれにせよ、地方議会と選挙のあり方に関しては、本質的な大改革が必要です。私の住む西宮は、号泣県議を産んでしまいましたが、その結果として今回の県議選では、より輪をかけて投票率が下がるように思えてなりません。抜本的な改善策を講ずることができないなら、地方議会の存在意義はますます低まるほかはありません。皆さんも色々なお考え、アイデアを是非お聞かせください。

インターネット選挙運動はなぜ低調とみられるか プッシュとプルを整理する

2013年の参院選から、公職選挙法が改正されたことによってインターネットを使用した選挙運動が解禁されることとなりました。解禁直後の参院選でこそ、“初”のネット選挙として注目が集まりましたが、その参院選を含め、2014年の衆院選、そして今回2015年の統一地方選と、ネット選挙というものが“低調”、つまり期待外れであると見られています。私は、ネット選挙の解禁に関して、当時与党であった際の担当者として、公職選挙法改正案の改正案作成に携わりました。よって、ネット選挙解禁に関してはそれなりに熟知しているつもりです。その立場から言えば、多くの候補者や識者、マスコミは、ネット選挙に関して、勘違いをしているというか、過剰な期待をし過ぎているところがあると、私は思います。そして、未知数なネット選挙のパワーは、選挙の種類や候補者の特性、地理的制約によって大きく変わってくるわけで、現時点ではまだまだかなり発展途上であると言わざるを得ません。
ネット選挙が解禁されれば、相当なインパクトをもたらし、投票率が上がり、政治参加が促進され、さらには民主主義の形が変わるのではないか、とまで言われました。実際は、参院選でほんの一部の候補がYouTubeの動画機能を活用して予想以上の得票を獲得したり、党首など有名な政治家がTwitterやFacebookの活用によって、主張が拡散したり支援の輪が広がったりもしましたが、全体から見ればごく一部の特別な事例に留まったと言えます。多くの候補が、ネットを使って活動報告をしたものの、その効果が実感できるほどのものではありませんでした。

なぜ、こうまで低調なのか、地方議会選挙で活用し切れていないのでしょうか。それはまず、メディアごとのネットの特性を候補者が十分理解していないことと、そして、そもそもネットを通じた主張の伝達そのものに、中味が伴っていなければいくら伝わったとしても相手には響かない、ということです。上記二点につき、もう少し記します。

まず、メディアごとのネットの特性についてですが、一口にネット選挙と言っても、ホームページからSNS、電子メールなど手段は様々です。これらを、“プッシュ”と“プル”、つまり押し出すメディアと、引き出してもらうメディアに分けて考えます。ホームページなどは、わざわざ見る側がページを開くわけで、情報を引き出してもらわねばなりません。つまり、“プル”のメディアとなります。一方で、電子メールは、求めなくても送りつけられるわけですから、“プッシュ”のメディアとなります。SNSであるTwitterやFacebookは、それぞれの特性はあるものの、プルとプッシュの間にあるメディアと考えられます。さて、ではそれぞれの特性について考えます。まず、プルのメディア、つまりホームページなどは、余程面白いか、有名であるとか、特定の政策課題に関して特筆すべき内容でない限り、有権者はわざわざホームページまでやってきて、情報を“プル”(引き出し)しません。2013年参院選の緑の党の三宅洋平候補や、維新の党の橋下徹氏のように、エッジが立っていないと拡散は望めません。一方のプッシュのメディアですが、これはコツコツとメールアドレスを集めねばなりませんからそう簡単に多数に情報を伝達することはできません。ただ、いったん情報を“プッシュ”できる状態になれば、それは固定客になり得ます。(もちろん、中味が伴ってではありますが。)その中間の、SNSに関しては、中味がなければただの“ゴミ”情報であり、拡散されるまでもありません。

また、ネット選挙で考えるべきは、それぞれの有権者に対する影響度合です。先に述べた三宅洋平候補は参議院全国区、橋下徹氏は全国政党の党首であり、2000万人の関西圏で絶大な影響力のある大阪のトップであります。一方で、多くの地方自治体議員候補は、多くても30~40万人、少なければ10万人未満を対象とし、数千から1万数千票を取れば当選する選挙です。目的とする客層がそもそも違うわけです。それを理解せずに、むやみにTwitterの投稿を増やしても、そう効果は大きくありません。

ではどうすべきか。よほど突飛(エッジが立っている)でないかぎり、もしくは全国区か広い範囲での影響力を求めるのではない限り、候補者は“プッシュ”のメディア戦略に重点を置くべきと思います。一度でもリアルに接触した有権者に対し、中味のある内容の情報をこちら(候補者)から送ることに重きを置いた方が、効果はあるはずです。もちろん、プル用の対策もそれなりにすべきです。街頭で候補者を見かけた人が、少しでも興味をもってくれた際に、プロフィールなどの基本情報すら見られないならば、投票先の選択肢には失格となります。ただ、プルしてくれる(=ホームページを訪ねてくれる)人の方が少数であることを、わかった上で戦略は練るべきです。

この統一選で、いろいろな候補者と話をしましたが、その多くが、「ネットはあまり意味がない」と言い、最低限のホームページの作成やブログの更新にとどめ、従来の活動に集中しています。私は、その判断は、この期に及んではある意味で賢明と思います。ただ、本当にネットの強みを活かすための効果的な対策を講ずることが出来れば、しっかりとした中味を携えながら、新しいネット選挙の展開にむけた可能性も、まだまだ開けると思います。私自身が、その先行事例となれるよう、研究と実践を続けてみたいと思います。

選挙に街頭演説(及び選挙カー)は必要か?

統一地方選挙は、ある意味ですばらしい機会です。自分の選挙をやっていたら自分の選挙のことしか考えられませんが、統一選は一挙に複数の選挙を垣間見ることができる素晴らしい機会です。ここ数日は、相当数の陣営に応援はいりましたが、それぞれの候補者の個性、地域特性から、街宣活動にもいろいろなスタイルや目的があることを改めて感じました。

その分析を論ずる前に、まず、本当に私が思っていることがあります。そもそも、街宣活動は〝騒音″です。平穏な静寂の中を、政治家が勝手にマイクを通じて大音量で話すわけですから、基本的には〝迷惑″と断ぜられても返す言葉がありません。ただ、効用もあり、その効用は他の手段だけでは獲得しえないものであるために、私を含めて政治家は活用しているわけです。まあ、中には〝騒音″などとは全く思っていない政治家もおりますし、私を含めて普段はその騒音性を認知しながらも演説が熱くなると、度を越してしまうこともあるのですが。いずれにせよ、効用を考えずに拡声器を使うことは褒められたものではないものであります。

では、拡声器を使う活動の効用をいくつかの類型に分けてみたいと思います。
第一に「売名型」があります。要は、名前を売るための活動です。名前が売れていても、その存在証明的に名前の連呼が中心の街宣はこの類型です。名前を知られていなければそもそも投票の対象になりえない、という考えから来ています。また、既に支援者となっている方に対し、頑張っていますよとのメッセージがこの型です。
第二に「イメージ刷り込み型」です。これは、「売名型」の発展段階として、例えば「経済成長の○川」「医療福祉の○村」「清廉潔白な○田」のように、中味まで行かなくとも政策や候補者の強みをイメージとして刷り込むものです。政党名を言うことも、この類型にはまります。
第三に「情熱型」です。本人が一生懸命、力強くしゃべることで、「あぁ、頑張っているなぁ」と思っていただく(と都合よく解釈しながら)ための街宣があります。また、後援会や事務所スタッフなど内部向けに、本人の気合いを示して陣営を引き締める効果を狙います。
第四に「政策型」です。地域の課題や取り組んできた政策課題の説明を街頭で行うものです。有権者に判断材料を提供するという意味では、この型が一番意義あると思います。
第五に「青空演説会型」です。どこかの店頭や個人宅前で、時間を決めて支援者に集まっていただき、政策を訴えるケースです。この場合は、支援者が近隣住民を動員してくれること自体が強力な選挙運動となります。また、説得力ある演説をできれば、支援者がさらに支持拡張に動いてくれることにつながります。

大まかに、以上が私の考える類型です。
街宣活動全体に共通するのが、街宣活動だけではほとんど票には結びつかない、ということです。街宣活動とその他の活動が絡み合い積み重なることによって、有権者の投票行動につながります。上記の五類型はそれぞれ独立した別個のものではなく、一つの街宣であっても複数の型が混ざり合う場合が多いです。朝の駅頭などは、第一から第四まで全ての効用を狙うと共に、ビラなどを加えてその効用を高めて行きます。

さて、つらつらと書きましたが、標題に記した「街頭演説(街宣カー)は必要か?」という問いに対する私なりの答えは次の通りです。街宣効用の目的が、陣営にとって明確ならば意味はあるし必要である、ということです。惰性で、候補者含めウグイス嬢も名前だけの連呼をするのであれば、全く意味はありません。駅頭での演説も、伝えるメッセージがなければ意味はありません。要は、候補者の「中味」と「戦略」あってこそ活かされるのが、拡声器を使った街頭演説活動なのです。

政治的無関心層をどうやって投票にむかってもらうか

前回のブログで、有権者が何をベースに投票先を決めるか、7つの類型を提示してみました(属人型、組織型、地域型、政党型、政策型、感情型、タレント型)。ただ、投票行動に至る前に、そもそも政治への関心がなければ、投票所に足を運ぶまでにはなりません。政治的無関心層へのアプローチをどう行うか、これは選挙を通じた代議制民主主義国家が抱える共通の課題であり、政治学の主要な研究テーマでもあります。

政治的無関心に関する定義として著名なのは、アメリカの社会学者デイヴィッド・リースマンによる2分類、つまり「伝統型無関心」と「現代型無関心」がまず挙げられます。「伝統型無感心」とは、政治は社会的地位の高い者たちに任せておけばよいという立場から、一般大衆が政治に対する関心を抱かない状態を指し、選挙権を有しないために参政できない状況も含まれるとします。もう一方の「現代型無関心」は、国民が政治を他人事のように捉え、関心を抱かない状態を指します。政治を解する予備知識や学識を持ち合わせていても、自分に関係がないとして参政しようとしないこと、または、分かりにくい政治を理解しようとしない状態を言います。

このリースマンの分類を補完する形でさらに進化したのが、ラスウェルが示した三類型です。一つ目が「無政治的無関心」とし、リースマンのいう伝統型無関心と現代型無関心を綜合した概念とします。二つ目が「反政治的無関心」とし、宗教的な理由などにより、積極的に政治との関わりを避けようとする状態を指します。三つ目が「脱政治的無関心」とし、かつては積極的に政治に参加していたが、挫折や幻滅を味わったことで政治から離脱している状態を指します。

さてこうした分類を現代の日本の地方政治にあてはめるとすれば、特に大きな割合と考えられるのが、そもそも政治に関心を抱かない「現代的無関心」と、今回の号泣県議の一見などを見て幻滅した層による「脱政治的無関心」ではないでしょうか。選挙に行っても何も変わらない、誰がなっても同じ、そもそも誰に入れていいかわからない、こうした「現代的無関心」に、議員の不祥事が連発して「脱政治的無関心」も加わり、結果として投票率が下がっていく、こうなればまさに悪循環と言わざるを得ません。

この状態に加えて、今回の地方選では21.9%が無投票で当選者が決まってしまう、つまり一般の有権者には選ぶ機会も政策や取り組みを聞く機会もないまま、その地域代表が決まると言う状態になっています。いよいよ、日本の民主主義も本質的、抜本的改革をしなければならないところに来ていると思います。一部の議会で進む、議会のネット中継や傍聴を促進する取り組み、そして移動議会による街かど報告などは大変すばらしい動きではあります。また、公選法の改正によってインターネットを通じた選挙運動が解禁されたことも、このましいことです。しかし、本質的に代議制民主主義を考え直さなければ、そもそもの必要性から論じなければ、この議会に向けられた低調な民意は、変わることがないように思えます。

さて、それをどう変えるか。そのヒントは、(逆説的ですが)今の選挙運動をすることによって見えてくると考えます。選挙は人間模様であり、非合理的であるけれど本気のぶつかり合いでもあります。寒く感じられる民意も、何に寒いかを感じることで改革の方向性が見えてくると信じ、応援を続けたいと思います。

 

号泣県議の郷から、地方議会選挙中に選挙を考える

一昨日から統一地方選の県議選がスタートしています。私も、民主党の総支部長として、当該支部の公認および推薦候補の支援に加わって活動しています(公認の奥野尚美さん、推薦の栗山雅史さん)。もちろん一生懸命やってはいますが、自分自身の選挙ではないため、少しは客観的に見られるものです。傍から候補者本人の演説やふるまいを見ながら、有権者の反応を観察しつつ、選挙とは何か、民主主義とは何か、つらつらと考えてみました。

有権者は、何をベースに投票行動をするのでしょう。私なりに、いくつかの類型を考えてみました。

一つ目が、「属人型」。候補者との個人的なつながりで投票を決めるもので、政策はあまり参考にしないで投票行動に結びつきます。学校の同級生であるとか、昔の仕事仲間であるなどがこのカテゴリーです。
二つ目が、「組織型」。医師会など業界団体や労働組合の支援候補だと言うことで投票行動につながります。それぞれの仕事に直結する組織型だけでなく、宗教などの組織もこのカテゴリーとなります。
三つ目が、「地域型」。同じ地域であると言うことから、地域代弁者的なものを求めて投票行動につながります。都市部ではあまりありませんが、地方では自治会や町内会が推薦することもあります。
四つ目が、「所属政党支援型」。支持する政党の公認ないし推薦候補であると言うことで、投票行動につながります。このカテゴリーの場合、候補者自身はよくても、所属政党によって支持が離れてしまうと言う、ネガティブな要素となる可能性も含んでいます。
五つ目が、「政策型」。子育てや高齢者福祉や、特定のハコものの是非などのシングルイシューで切り込めると、こうしたパターンで投票行動につなげることが出来ます。
六つ目が、「感情移入型」。これは、駅に遅くまで立っているとか、熱心に一人で頑張っているとか、情に訴えると共に一生懸命さに惹かれて投票行動に結びつくケースです。
七つ目が、「タレント型」。ルックスがいいとか、面白そうで親しみやすいとか、政治に直接関係なくとも、人の心を惹きつける要素が投票行動に作用するケースです。「感情移入型」と似ているところがありますが、「タレント型」は、より先天的と言うか、作られたイメージが投票行動に影響すると言えると思います。

その他もあるかもしれませんが、だいたいこのどれかに当てはまるか、複数の要因によって投票行動が決められます。もちろん、投票先に選ばれる大前提として、名前が知られていなくてはなりません(候補者がこればっかりに力を入れてしまうのが悪い風潮ですが、知られないとそもそも選択肢に入りません)。それから、有権者の側の投票所に足を運ぶモチベーションが投票所へ足を運ぶ面倒さを上回らないと、棄権に結びついてしまいます。今回、ららぽーと甲子園などで期日前投票ができるなど、新たな取り組みがされてはいますが、そもそも論として、有権者が投票したいと思わなければ、どうにもなりません。
県議選に関しては、残りはわずか数日、いまからできることは限られていますが、それぞれの候補が持っている客観的な〝武器″が最大限に発揮できるために、私たちが出来ることはまだまだあります。そのためのサポートを、私も続けていく所存です。


さてさて、ご存知の通り、私が暮らし、私が政治活動をする西宮市は、あの号泣県議の郷です。4年前にどうして彼が通ってしまったか、今回の選挙は、どうしてもそれを考えてしまうわけです。私も含め、候補者とその応援弁士は、「あのような議員を選ばないように、今度は投票率もしっかりあげて(前回は38%)、きちんとした選択をしましょう!」と言ってはいますが、街の空気を感じる限りは、投票率はさらに下がりそうで、大変に危機感を覚えます。今からでも、投票率が少なくとも前回を上回り、有権者の皆さんが私の訴えを通じて、私の支援候補を当選させてもらうように、明日からも頑張りたいと思います。