民の声新聞 -3ページ目

【避難指示解除まであと1年】原発事故で奪われ、東京五輪で棄てられる~浪江町民の怒りと戸惑い

帰るべきか、帰らざるべきか。浪江町民が選択を迫られている。「なみえ 3.11 復興のつどい」が12日、二本松市の安達文化ホールで開かれ、原発事故による避難でバラバラになってしまった町民たちが、つかの間の親交を楽しんだ。故郷を想う気持ちと放射線への不安。そして避難先で既に始まった新しい生活。安倍晋三首相は、2017年3月末の避難指示解除をステップに東京五輪で世界に〝復興〟をアピールしようと目論むが、住民たちの感情は、そんなに単純なものではない。町民の言葉からは、被害者置き去りの復興政策が垣間見えてくる。



【「これ以上、何を頑張るの?」】

 「頑張りましょう!」

 午前10時から始まった開会式で、3期目に入った馬場有(たもつ)町長の口から何度も語られたのが、この言葉だ。

 「心が折れないように頑張り抜いていただきたい」

 「みなさん、頑張っていきましょう」

 故郷を、わが家を、地域を、原発事故や津波で破壊された浪江町民。5年間、福島県内外に点在しながらそれこそ「頑張ってきた」。これ以上、何を頑張れば良いのか。関係者ですら「頑張りましょうって、何を頑張るのかわがんねな」と違和感を口にしたほどだ。

 原発事故被害者の失ったものは、金銭に換算できないものも含めてあまりにも大きい。その上、慣れない土地での避難生活は、苦労の連続だった。
 「家を建てれば『さすが、賠償金をたくさんもらっているだけあるなあ』と陰口を叩かれ、近所の人に旅行のお土産を買って来れば『賠償金のおかげで余裕があるのね』と言われる。それが現実です。何も好きで避難しているわけではないのに…」

 作品展の会場で、中通りの大玉村に新居を構えた女性(62)は怒った。仮設住宅に入らず民間借り上げ住宅で暮らしている町民は孤立しがち。そこで、大玉村や本宮市に避難している町民で「コスモス南達会」をつくり、情報交換や手芸品づくりなどに取り組んでいる。「作品づくりはね、結局はおしゃべりなの。月1回集まって気兼ねなく愚痴をこぼすことって大事なのよ」。暮らしぶりが派手になったと言われないように、周囲に気を遣いながら生きてきた。町の仲間が集まる時間が唯一、心から笑って泣けるひとときなのだ。

 女性の住んでいた津島地区は、最も汚染の高い帰還困難区域(年50mSv超)に指定されている。浪江町は海側から津島地区のある山側に向かうにつれて汚染が酷くなる。「もう帰れないわよね」と女性。「国は帰還困難区域以外の避難指示を来年3月末で解除するんでしょ?でも周りは帰りたがらないよ。山が汚染されているのに、どうして街なかが安全と言えるの?」

 津島地区の住民が国や東電を相手取って起こした集団訴訟も、目的はお金ではなく失われた故郷の回復。2020年3月までに汚染を年1mSvに低下させることを求めている。しかし今、安倍晋三首相ら国が見据えているのは福島ではなく東京五輪に他ならない。

 「オリンピックが東京に決まった段階で、私らは棄てられると思っていた。2020年までに福島は片付いたことにしたいのよね…」
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(上)「請戸の田植え踊り」など伝統芸能の継承も

浪江町の課題の1つ

(下)避難先での作品づくりは、愚痴をこぼし合う

重要な場だという

=二本松市・安達文化ホール


【「帰りたい」と「帰れる」は別】

 安倍首相の言う「復興」とは何か。国は2017年3月末までに帰還困難区域を除く避難指示解除準備区域(年20mSv以下)、居住制限区域(年20~50mSv)の避難指示を解除。東京五輪の開かれる2020年までにJR常磐線を全線開通させ、世界に「復興」をアピールしようとしている。
 「町の復興とインフラの復旧は分けて論じられるべきです。とても帰れる状況ではないですよ」

 つどい実行委員の1人は話す。児玉龍彦・東大アイソトープ総合センター長を中心とする「避難指示解除に関する有識者検証委員会」は今月下旬にも馬場町長への答申をまとめる予定。来賓として開会式であいさつした吉田栄光県議も「ドクターヘリの配備、福島医大までの搬送時間が50分を切るよう国道114号線の整備など、医療機関も含めて復興計画を加速させなければならない」と帰還に前向きだ。しかし、先の実行委員はこう批判する。「馬場町長は『きれいな浪江町を取り戻したい』と言うが、そんなこと出来るのだろうか?町議だって口では『帰りましょう』と言いながら、避難先に自宅を新築している。本音と建前があまりにも違い過ぎる」。

 避難指示解除を心待ちにしている町民もいる。小学5年生の母親は、居住制限区域に自宅を建てたばかり。自宅での生活より、避難生活の方が長くなってしまった。一時帰宅のたびにネズミの糞を掃除している。

 「ぜひ帰りたい。自宅周辺の空間線量は1μSv/h程度だからかなり落ち着きました。夫は国家資格を持っていて放射線に関する専門知識がある。その夫が『帰っても大丈夫』と言うのだから心配はありません。子どもも戻りたがっている。まったく、野生動物のために住宅ローンを支払っているようなものです。もっと早く避難指示を解除して欲しかったくらいですね」

 だが、このような町民は実際には少ない。同じく居住制限区域に住んでいた男性(78)は、二本松市内の復興公営住宅への入居が決まった。「妻が市内の病院に入院しているから、なるべく近くにいたいと思ってね。でも、そういう事情がなくても帰らないよね。数km先に原発があるんだから。誰だって故郷に帰りたい。でもそれと、帰れるかどうかは別だよ」。
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(上)浪江小学校や津島小学校の児童が制作した

「なみえっ子カルタ」。自然豊かな津島地区は、町内

で最も汚染されてしまった

(下)つどいに先立ち、黙祷する町民たち。津波で亡く

なった人々や故郷を想い、祈った

=二本松市・安達文化ホール


【「緑地公園にしていれば…」】

 「帰るも何も、津波で自宅は流されてしまいましたから…。でも、国が新築費用を全額負担してくれたとしても、元の土地に戻るつもりはないですね」
 津波で壊滅的な被害を受けた請戸地区から郡山市に避難した女性(47)は、市内に一戸建て住宅を建てて新たな生活を始めている。「夫婦2人だけならともかく、目と鼻の先に原発があって何が起こるか分からない。この子たちに被曝のリスクが本当に無いのかも分からないですしね」
 立派な病院が整備され、ショッピングモールが出来たとしても帰還の動機つけになりにくいところに、原発事故の根の深さがある。別の女性はこうも言った。「5年という歳月は、新しい土地での生活に慣れてしまうのには十分な時間だった」。今さら帰れと言われても困る、という戸惑いもある。
 「そもそも原発を造る時の説明では、40年後に廃炉にし、コンクリートで埋め立てて緑地公園にするという話だったんだ。40年を過ぎても使い続けるから、こんな事になった」

 仮設住宅の自治会長を務める50代の男性は、そう言って悔しがった。男性は、原発事故前に撮影した町内の桜並木の写真を展示した。今年も「リバーライン」は満開の桜で彩られるが、花見をすることも叶わない。
 別の男性は、「鶴田浩二の『傷だらけの人生』が好きなんだよ」と笑った。歌詞通り、生まれた土地は荒れ放題になってしまった。

 「右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の絡み合い」
 男性には、国の復興政策がそう映っているのかもしれない。



(了)

【60カ月目の福島はいま】続く葛藤。「原発事故は終わっていない」〜中通りの3.11

未曽有の大震災から丸5年となる11日、福島県中通りの人々に5年目の想いを聴いた。4年後の東京五輪を見据える安倍晋三首相は、避難指示解除と帰還促進で「復興」をPRしたい構えだが、放射性物質の拡散に翻弄され続けてきた人々は、依然として被曝のリスクと安全安心とのはまざで葛藤が続いている。国際的行事に向けて、為政者が目論む原発事故の被害隠し。自民党支持者ですら「おごっている」と怒る様子に、安倍政権の被害者切り捨てが垣間見えた。



【絡み合う「過去形」と「現在進行形」】

 「私の中ではまだ、原発事故は終わってはいないわね」

 東北本線・安積永盛駅にほど近い、阿武隈川の河川敷。元保育士の女性は、1歳の孫を抱きながら散歩の足を止めて言った。原発事故で、約60km離れた郡山市にも放射性物質が降り注いだ。当然、勤めていた公立保育園は大混乱に陥った。

 「放射線に対する見方が保護者によって様々ですから、各家庭にアンケートをとって個別に対応しました。それはそれは大変でしたよ。15分間、30分間の外遊びをするかしないか、外遊びをする際には土を触らせて良いか、飲み水はどうするか…。お母さんの中には、外遊びには参加させるが、部屋に戻る際には手を洗うだけでなく服を全部着替えさせて欲しいと求める人もいましたから。まったく、地震だけなら良かったのに余計なものまでついてきて」

 「余計なもの」のおかげで、保育だけでなく「測定」が業務に加わった。保育園に出勤すると、敷地内数カ所の放射線量を測って市に報告した。「玄関も測って欲しい」と保護者から求められ、数値が高い場合には水で洗い流した。それでも低減には限界があった。定年退職するまでに何回か異動したが、異動元の保育園より何倍も放射線量が高いこともあった。「線量計が壊れてしまったかと思うくらい高かった。場所によってずいぶん違うんですね」と振り返る。

 おばあちゃんの腕の中でおとなしくしている男の子は、マスクはしていない。「たしかに、特別なことはしていません。でもね、やっぱり心の中には『大丈夫かな』という不安はありますよ。こうやって預かる時には洗濯物を屋外に干さないようにしていますしね」。

 会話の中で、過去形と現在進行形が複雑に絡み合う。安倍晋三首相の言う「復興」という言葉だけでは片付けられないのが、原発事故なのだ。
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(上)孫と散歩をしていた元保育士の女性。「5年経った

けれど、まだまだ原発事故は終わっていない。孫

健康に悪影響が出ないか不安はある」と語った。

(下)手元の線量計は0.25μSv/hだった=郡山市笹川


【「自民党はおごっている」】

 福島市の父親(47)は、5回目の「3.11」を感慨深く迎えていた。わが子の通う小学校でPTA会長を務めてきた。あれ以来、卒業式の祝辞では、大震災や原発事故には一切、触れて来なかった。子どもたちの心の傷を考えると言えなかった。それが今年、ようやく「震災」という言葉を使うことができた。しかし、原発事故にまで言及することは、出来なかった。

 「完全に廃炉作業が終わって、住民が戻れるようになったら語れるかな。その頃、僕が生きているか分からないけれど。子どもたちには、大人の都合で本当につらい想いをさせてしまった。外遊びが出来ない、運動会も中止、友人との別れ…。それぞれの家庭で様々な選択をしている今、まだ原発事故に触れることは出来ないですよ」

 商売上のつきあいもあって、自民党を支持してきた。しかし、公共事業重視の復興政策には「自民党はおごっている」と怒りを口にした。

 「首相は復興、復興とばかり繰り返すし、大臣も軽はずみな発言が多い。あまりに現場を知らなさ過ぎるよね。俺たちの言葉に聞く耳を持っていない。まだ原発事故は終わっていないんだから」

 浪江町から二本松市に避難している50代の女性は、ようやく慣れた避難先での生活と故郷への想いとのはざまで、複雑な思いで黙祷を捧げた。

 東北本線・二本松駅前の市民交流センター。女性は1階の喫茶店で働く。精神障害者のための就労支援の場も、原発事故の被害者だった。喫茶店は間もなく、開店10周年を迎える。「浪江で5年、二本松で5年だわね」。女性は笑顔で話すが、放射性物質の拡散に翻弄されてきた5年間だった。

 町内の防災無線が全ての始まりだった。「総理大臣の命により…」。事態が深刻であることは、それだけで分かった。すぐに家族を車に乗せ津島地区へ。まだ国道114号線は渋滞していなかった。しかし、同地区は後に、浪江町内で最も汚染の酷い地域だと分かる。女性は家族とともに二本松市内に移動した。

「しばらくは仮設住宅に住んでいたけれど、狭いし圧迫感に耐えられなくなってしまってギブアップ。今は民間借り上げ住宅に住んでいます」

 安倍晋三首相は10日の記者会見で、帰宅困難区域以外の避難指示を2017年3月末までに解除する方針を打ち出した。女性の住んでいた町営住宅は、居住制限区域(年20mSv~50mSv)にある。避難指示が解除されれば、現在は無償の家賃負担が発生することになる。戻るか、自力で現在のアパートに住み続けるか、復興住宅に入居するか。選択を迫られる。

「しばらくは帰らない。二本松は良い所。でもね、浪江町にも愛着はあるのよ」

 女性に5年の「節目」など無い。

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(上)浪江町から二本松市に避難している女性。

住み慣れた故郷を想い、黙祷した

(下)二本松駅前の智恵子像。原発事故後の「空」は、

どのように映っただろう


【「避難する必要あるのかねえ」】

 もちろん、無関心を口にした人もいた。

 須賀川市の女子高生(18)は「原発事故当時は、あまり外出するなって親に言われたけど…あんまり原発原発と言われたくない」と話した。同じく須賀川市に住む専門学校生(19)も「あの頃からずっと、全く心配していなかった。だって、被曝量ってレントゲン撮影1回分より低いんでしょ?」とうんざりした表情を見せた。
 白河市の男性(59)は、幼稚園に通う孫を横目に「あの頃はこの子も1歳だったし、なるべく外の空気に触れさせないとか食事に気をつけるとかしていたけど、今はもうねえ…」と苦笑した。

 原発事故を受け、慌てて線量計を購入した。自宅の庭は0.8μSv/hあった。それでも「同じ町内で、高校生の娘を連れて京都に移住した人がいたんだよ。そこまでする必要があるのかねえって当時から思っていたよ」。ガラスバッジでの測定もしたし、と男性が口にすると、すかさず孫が笑顔でこう言った。

 「僕のガラスバッジ、壊れちゃったんだよ」

 これには男性も苦笑するしかなかった。

 それぞれの3.11、それぞれの原発事故。

 福島にとどまった人も県外に避難した人も、今日で原発事故が終わるわけでは無い。

 東京五輪とは全く無縁の現実が、ここにはある。


(了)


〝自主避難〟した母親たちが語る5年間~「責任者はまず謝罪を」、「なぜ住まいを追い出される?」

わが子を被曝のリスクから守ろうと福島県外に避難中の母親たちが10日午後、横浜YWCAに集い、原発事故から5年間の苦悩や怒りを語った。避難元のいわき市や大玉村は、政府の避難指示が出ていない。福島県内外で「過剰に怖がっている」、「勝手に逃げた人々」と冷たい視線を浴びてきた〝自主避難者〟たち。支援どころか、来年3月末には住宅の無償提供が打ち切られる。明日11日で未曽有の震災から丸5年。「お金じゃない。まずは謝罪を」。4年後の東京五輪に向け避難者減らしに躍起になる安倍晋三首相は、まずは頭を下げるべきだ。



【「勝手に逃げた」と言われ続けた…】

 「車中で、家族全員が喉の痛みを訴えていたことを覚えています」

 横浜市に住むAさんは2011年3月15日の夜中、子どもを連れていわき市の自宅を出た。子どもが大量に鼻血を出した。この頃、いわき市にも放射性ヨウ素が降り注いでいたことは、後になって知った。5年の歳月が経ったが戻る気持ちはない。土壌測定の結果、1平方メートルあたり数十万、数百万ベクレルもあったという数値を耳にしたからだ。「それに、除染といっても地表でなく1メートルの高さで空間線量を測っている。そのやり方では除染対象とならない家も出てくる」。とても安心して戻れる環境ではない。

 「私たちはただ、子どもの命を守りたいだけです。保養など子どもを守る取り組みをして欲しい。産業重視の復興は、命を守った後で進めて欲しいです」

 やはりいわき市から都内に避難したBさんの言葉は強烈だった。

「5年間、『勝手に逃げた人たち』と言われ続けてきました」

 いわき市は空間線量は比較的高くないため、東京で出会った人々から「何でいわき市から避難しているの?」、「福島にはいつ帰るの?」などと質問されるのがつらかったという。細かく説明しないといけないもどかしさ。しかも、「勝手に逃げた」というイメージから「『帰りたい』と弱音を吐くことも許されなかった」。あの頃、世間は「絆」一色だった。実際には「街を捨てて逃げるのか」という言葉も浴びた。「絆という言葉が何よりつらかった」と振り返る。

 やむを得ない事情で避難を続けられず、何人もの仲間が泣きながら帰って行った。いわき放射能市民措定室「たらちね」が昨年12月、いわき市内の家庭の掃除機ごみを測ったところ、1kgあたり2700ベクレルや5000ベクレル、中には1万1000ベクレルという結果まで出た。母親も子どもも吸い込んでしまっているという現実。「なぜ避難を続けているのか、理解されないのがつらいです」。
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いわき市から、大玉村から。わが子を守りたい一心

で県外に避難した母親たち。被曝回避に「区域内」

も「区域外」もない


【「責任者がまず謝って」】

 本宮市や二本松市に隣接する大玉村から神奈川県相模原市内の実家に身を寄せているCさんも「区域外避難だから、つらいと言えない」と語った。

 原発事故直後、娘を連れて実家に一時避難したが「幼稚園の入園式には出させてあげたい、と戻ってしまった」。本当は実家にとんぼ帰りしたかった。しかし避難に後ろ向きな村内の空気、「俺はどうなるんだ」と怒った夫を前に言い出せない。娘にはマスクをさせ、なるべく肌を露出しない服装をさせた。地元では外遊びをさせず、山形県米沢市まで車を走らせて遊ばせた。

 放射線が、どれだけ幼い娘の身体に影響するかは分からない。しかし鼻血が止まらない、風邪でもないのに熱を出す…。周囲のお母さんたちに聞くと、同じような症状が出ていたという。「福島で子育てする自信がなくなっていた。あんまり思い出したくない時期」。そんな時、夏休みを利用して再び訪れていた実家で、娘がこう言った。

 「放射能が怖いから福島には帰りたくない」

 Cさんにもはや、躊躇する理由はなくなっていた。背中を押してくれた娘は小学生になり、「二十歳になるまでは福島には戻らない」と〝宣言〟したという。

 今は娘に健康被害が出ないことを祈る日々。「彼女の身に何かあったら私はどうやって責任をとれば良いのだろう」。そして、こう訴える。「責任者がまず謝って欲しい。それもなくては先に進めません」。

 〝原発離婚〟を経験したDさんは、いわき市から小学生の2人の子どもを連れて埼玉県に避難した。生活保護を受給し、娘と3人暮らし。福島県が2017年3月末で住宅の無償提供打ち切りを決めてしまったため「不安な日々を過ごしています」と話す。

 「あの時、枝野幸男官房長官(当時)は『ただちに影響ない』と言ったけど『ただちに』って何でしょうか?将来は影響が出るのでしょうか?」

 土壌汚染も測らない土地に戻れば、地産地消の学校給食を強いられる。それだけは受け入れることが出来ないから、苦しいけれど避難を続けている。家計は苦しい。しかし、Dさんが欲しいのはお金ではない。

 「1円だって要らない。集団訴訟の原告になったのも、お金ではなく怒りをぶつけたかったからです。原発事故さえなかったら、こんなに苦しまなくて済んだんですよ。反省しているのなら謝罪して欲しい。それが無いから許せないのです」
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講演した除本教授。「復興政策が被害の実態にあって

いない」、「汚染は、都合よくオリンピックに合わせて

収束しない」と国を批判した

=横浜YWCA


【風評対策は被害を訴えにくくする】

 「原発災害はなぜ不均等な復興をもたらすのか」や「原発賠償を問う」などの著者で、大阪市立大学大学院の除本理史教授も講演。「避難を選択した人が肩身の狭い思いをしている」、「国の復興政策は被害や汚染の実態に合っていない」などと述べた。

 特に「復興政策の重要な柱である」とする風評被害対策について、漫画「美味しんぼ」の鼻血の描写をめぐって時の大臣までが火消しに躍起になったことを例に挙げ、「風評被害対策を一生懸命にやることで、低線量被曝を不安に感じている人の口を封じてしまう。被害を訴えにくくする働きがある」と指摘した。
さらに「政府が見据えているのは東京五輪。だが、汚染はそんなに都合よく、オリンピックに合わせて収束しない」、「住宅の無償提供打ち切りには問題がある」と国の姿勢を批判した。

 住宅支援は、自主避難者の共通した課題だ。

 「私、なんにも悪いことをしていないのに、何で県営住宅を追い出されなきゃいけないの?何で苦労して家を探して引っ越さなきゃいけないの?」

 Cさんの疑問はもっともだ。Bさんはこう言う。

 「凍土壁を造らなかったら、そのお金で4年間はいまの住まいに全員が暮らして行かれる」
 主催した横浜弁護士会の小賀坂徹弁護士が言うように「人として扱われていない」避難者たち。席上、こんな自主避難者の言葉も紹介された。

 「1年ごとに住宅の無償提供が延長されてきて、まるで1年ごとに死刑宣告を引き延ばされている気分だった」
 涙ながらに司会を務めた女性も、南相馬市から横浜市への自主避難者だ。

 「私も自殺を考えました。好き好んで避難しているわけではないんです。みんな頑張って歯を食いしばって生きているんです。それを国は分かってくれない」
 あなたの周囲にも無理解に苦しむ避難者はいないだろうか。

 まずは「5年間よく頑張ったね」と語りかけるところから始めたい。

(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】寄り添うふりして避難者切り捨て~空虚な「きめ細かく支援する」

「馬鹿の一つ覚え」と言っては言い過ぎか。都合の良い時だけ強権を発動する国は、今回に限っては「福島県が決めたこと」と繰り返す。9日午後、参議院会館で行われた自主避難者と若手官僚との交渉は、わずかな接点も見い出せないまま、平行線に終わった。「原発事故は人災か」などの質問に明確な回答は無し。もちろん、住宅の無償提供打ち切り撤回を求めても、前向きな答えは出ない。避難者数を減らし、4年後の東京五輪で復興を全世界にアピールするシナリオが着々と進んでいる。打ち切りまであと1年。避難者の悲痛な訴えも、エリート官僚の胸には届かない。



【定義ない「原発事故避難」】

 「帰還か定住かを選んでいただきたい」

 原発事故による「自主避難者」(政府の避難指示はないが、被曝のリスクを避けるために福島県外に避難した人々)はこれまで、何度となく福島県の意向調査に回答し、その度に、今後の住まいに関する希望は「住宅の無償提供継続」が最も多かった。署名も提出した。それでも、福島県は2017年3月末での無償提供打ち切り方針を撤回しようとしない。避難者たちは、打ち切りをやめるよう、国から福島県へ指導するよう求めている。だが、こうやって避難者に直接頭を下げられ、怒鳴られ、泣かれても、若手官僚の言葉は一貫して変わらない。

 「災害救助法の実施主体は地方値自体の首長なんです。だから、国がどうこう言える仕組みになっていないんです」

 内閣府・被災者行政担当の小川保彦氏は言う。復興庁の清水久子企画官も、あくまで無償提供打ち切りを前提として語った。「福島県と連携して、住宅だけでなくさまざまな支援をしていきたい。住民のニーズに詳しいのは地元自治体だ」。清水企画官は3時間近くの交渉で、「さまざまな機会を通じて」、「しっかりとご意見を伺う」、「いろんな場面で」、「福島県と連携して」という表現を何度口にしただろう。挙げ句には「避難の定義は明確にはしていない。各都道府県からあがってきた数字をもって避難者数としている。何をもって避難とするかは個々人の意識の問題になるので、正確に把握するのは難しい」と述べた。

 これには、穏やかな口調だった中手聖一さん(北海道)も、思わず「原発事故避難の定義も出来ていないで、どうやって避難者支援をするのか」と声を荒げた。交渉に同席し、この日の参院予算委員会で質問に立った福島瑞穂参院議員は「国は避難者の意向を把握してもいないのに住宅支援打ち切りを決定している。順番が逆だ」と非難した。
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(上)国による詳細な土壌測定を求めた宍戸俊則さん

(下)政府交渉にあたり、事前に6項目の質問を送って

いたが、まともな回答は1つも無かった

=参議院会館


【「人災かどうか、答える立場にない」】

 政府交渉に臨んだのは、2015年10月に発足した「『避難の権利』を求める全国避難者の会」(中手聖一、宇野朗子共同代表)。避難先は北海道や静岡、京都などバラバラ。それぞれの生活がある中、夜中までインターネットを使って会議をするなどして、ようやく交渉にこぎつけた。

 交渉では、中手さんが①住宅支援打ち切り方針を撤回するよう、国として福島県に働きかけること②避難者住宅保障策を、原発事故子ども・被災者支援法等に基づき国の責任で実施すること③年1mSv以上の被曝の可能性のある地域の住民には避難を権利として認め、医療・保養などの必要な具体的保障施策を行うこと─を安倍晋三首相や高木毅復興大臣らに宛てた要望書として提出。事前に送付していた6項目の質問事項に沿って進められた。

 しかし、まともな答えは何一つなかった。「ゼロ回答」だった。

 例えば「原発事故が人災であったとの認識を持っているか」との問い。

「判断する立場にない」

「答える立場にない」

 言質をとられたくないのだろう。経済産業省も原子力規制庁も、異口同音に明言を避けた。司会の長谷川克己さん(静岡県)は「一切、誠意が感じられない。いつも、こうやってのらりくらりだ」と怒りを露わにした。国は「事故を教訓として」、「反省をふまえて」とは答えるが、肝心なところははぐらかす。

 詳細な土壌測定を求めたのは宍戸俊則さん(北海道)。「測り方がおかしいと、国が福島県に指導するべきだった。2メートルメッシュで良いから、土壌を測って欲しい。砂ぼこりが舞うんだ。そもそも国が現状を把握してなくて、どうやって帰還しろと言うのだ」。

 同席した「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」(SAFLAN)副代表の福田健治弁護士は「(住宅支援打ち切りは)本当に福島県が決めたことなのか。国が誘導したのではないか」と迫った。だが、復興庁の男性官僚は「国が打ち切りを指示したという事実はございません」、「国から誘導したことはございません」と否定した。

 また「福島県の支援策と避難者のニーズとの齟齬について、国としてどのように確認するのか」とも尋ねたが、清水企画官は「福島県のマッチングを注視していきたい」と述べるにとどまった。原発政策を推進してきた国が、ひとたび事故が起きると「注視する」側に回る。しかも、ミスマッチに対する具体的な対応策も持ち合わせていない。これには福田弁護士も苦笑するしかなかった。
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(上)共同代表の中手聖一さん(札幌市)が3項目の

要望書を読み上げ、手渡した

(下)抽象的な答えに終始した復興庁の清水久子企画官


【追い詰められる避難者たち】

 そもそも、原発事故がなければ必要のなかった避難。国が被曝のリスクを認めないから、原発からの距離に関係なく避難の権利を認めないから、避難者は今も有形無形の〝敵〟と闘い続ける。

 来月で小学5年生になる長谷川さんの息子は、クラスメートから「お前なんか福島に帰れ」、「原発が無くなったら電力が足りなくなって困るんだよ」などといじめられているという。小学校に行きたがらない息子は最近、妻に「僕だって、来たくて静岡に来たわけじゃない…」と明かした。だからこそ、国は人災であることを認め、避難の権利も含めた十分な支援をするべきだと考える。「これまでの国の支援策がきめ細かくなかったと持ち帰っていただけませんか」。しかし、官僚はここでもはぐらかした。「イエスノーで答えないから、みんなストレスたまってるんだよ!」。

 「どんな選択をした場合でも支援する」、「国は帰還を強制しない」と言いながら、国は福島県の住宅支援打ち切りを追認している。避難という選択を尊重するのならなぜ、帰還者だけに転居費用を補助する福島県の偏った施策を容認するのか。中手さんは「(来年の打ち切りに向けて)みんな必死に準備をしている。うちのカミさんも慣れない夜勤をして引っ越した。でも、準備したくても出来ない仲間がたくさんいる」と訴えた。

 「幼い子どものいる母子家庭では、保育園に預けて、ようやく週に1日働ける状態。それすらできない人もいる。国は被曝か貧困かの選択を迫っているんだ。今こそ国が前面に立たないと悲劇を生む」。
 宍戸さんの周囲にも母子家庭が多い。「昨晩も、泣きながら妻に電話をしてきた人がいた。避難していなければ、相談する人が周囲にいたんだ。それが避難者。実態も把握せずに政策を進めるな」。そして、こう懇願した。「今からでも遅くない。避難者が何を考えているのか、何に困っているのか聴いてください。避難者だって国民です」。
 「今日は第1回。今後も交渉を続けていく」と中手さん。避難者はもはや、うわべだけの抽象的な言葉など聞きたくない。



(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】「県が、県が」逃げる国。役人には届かない「住み続けたい」の願い

叩きつけるような強い雨が、切り捨てられる避難者の怒りを表しているようだった。都内に住む原発事故避難者らが7日、参議院会館で内閣府や復興庁の役人と住宅支援打ち切り問題について話し合った。避難者らは、福島県が決めた2017年4月以降の「新たな支援策」について国の評価を迫ったが、役人らは「福島県が決めたことに口出し出来ない」と一蹴。あくまで決めたのは福島県。国もそれを追認する。「どうしたらいいっぺ」と戸惑う避難者の心情などお構いなしに、避難者減らし・避難者切り捨てを着々と進める構えだ。



【「これから、どうすっぺ」】

 これまでも何度、同じ光景を見てきたことだろう。

 何を尋ねても、役人たちは「福島県が考えて判断されたので、国がどうこう言うものではない」とくり返す。それしか言うなと上司から言われているのか、そもそも当事者意識が希薄なのか。〝官僚答弁〟の見本のような淡々とした言葉が続く。何度となく実施された避難者意向調査でも、現在の住まいに住み続けることを希望する声が常に多い。しかし、この日も「福島県の決定を国が覆すことは出来ない」とバッサリ。汚染も被曝のリスクもなくなったとする国は、福島県の帰還政策を歓迎しているかのようだ。

 「このような場に初めて来たが、こんなに怒りがこみ上げてくるとは思わなかった」
 福島県いわき市から都内に避難中の女性(74)は、ハンカチで涙を拭った。原発事故直後に避難をし、今は都営住宅で独り暮らし。右も左も分からない東京での生活だが、どのバスに乗れば病院まで行かれるかなど、ようやく慣れてきたところに浮上した住宅支援打ち切り問題。「こんなに情けない答えとは思わなかった。結局、みんな他人事なんですよ。原発推進は国の政策なのに」。

 来年からどうするか、尋ねられても困ってしまう。今の住まいに住み続けたいという希望しかないからだ。しかし、国も福島県も東京都も、現段階で退去以外の選択肢を示してはくれない。住み続けるのなら居座るしかないが、それにも多大なエネルギーが要る。「これから、どうすっぺ」、「来年どうしたらいいっぺ」。そんなやりとりが最近、多くなったという。
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ずらりと並んだ内閣府や復興庁の役人たち。「福島県

の決めた住宅支援策について云々することは控えたい」

と繰り返し、避難者の怒りを買った=参議院会館


【「福島県の施策で一定の効果ある」】

 話し合いを主催したのは、都内の避難者でつくる「キビタキの会」。事前に福島県が公表した「新たな住宅支援策」について、次の5項目の質問や提言を事前に国にぶつけていた。


①「新たな支援策」で、避難先にとどまる避難者の住まいの安定は確保できると考えているか

②親戚宅に避難した人や中古物件を購入する人も家賃補助の対象者とするべきだ

③家賃補助の3万円という金額は妥当か。帰還しない避難者へも転居費用を補助するべきだ

④希望する避難者が都営住宅に住み続けられるよう、東京都と協議するべきだ

⑤福島県や避難者受け入れ自治体とどのような協議の場を設けているのか


 しかし、内閣府も復興庁も「福島県がまとめた施策を評価することは出来ない」、「福島県がいろいろな状況を勘案して決めたもの。どうこう言えない」と繰り返すばかり。住宅支援の対象となる避難者数についても「福島県からは、2015年10月時点で1万8千人と聞いている」と回答。家賃補助の金額を算出するにあたって6万円という金額が基準になっているが、福島県と東京都では同じ6万円でも借りられる部屋の間取りは異なる。しかし、役人は「福島県の個々のやり方については、そこまで細かく聴いていない」と逃げた。そのくせ、最終的に復興庁の担当者は「どんな施策でも、すべての人を救済することは出来ない。福島県の施策で一定の効果はあると思う」と〝お墨付き〟を与えたのだった。

 しかし、そもそも現在の住宅無償提供は2012年12月28日までに避難した人しか対象となっておらず、しかも収入要件を満たさないと家賃補助を受けられない。当然、避難者から「〝一定の効果〟からもれた人はどうなるのか」との質問が出たが、復興庁は「まずはお話を伺う」と答えるにとどまった。そして、次のようにきっぱりと言い切った。

 「復興庁として、現状が『子ども被災者支援法』に抵触しているとは考えておりません」

 これが、原発事故被害者を守らない「支援法」の現実なのだ。
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山本太郎参院議員は「福島県と一体となって原発

事故の矮小化を進めている」と国の姿勢を批判した。

「皆さんの立場も分かるが、もう少し寄り添って欲しい」


【住み続けることは可能?】

 淡々と「福島県の判断」と繰り返す役人に、避難者からは思わず失笑が漏れた。しかし、一つだけ収穫があった。復興庁の担当者が「『目的外使用』など、制度上、公営住宅に住み続けることは不可能ではない」と明言したのだ。すぐに「無償になるかは分からないし、入居を希望する応募者の状況もあるので約束できるものではない。東京都の公営住宅は需給がひっ迫している」と〝フォロー〟したが、避難者の1人は「これまで、2017年3月末で絶対に退去しなければいけないと考えていたが、そうでないことが分かったのは大きい」と話した。

 退去せず、訴訟も辞さない避難者もいるが、そんな余力もなく福島に戻ることを考え始めている避難者もいる。そもそも原発事故がなければ避難などする必要がなかった。なぜ被害者が追い詰められなければならないのか。なぜわが子を守るという当然の行動が認められないのか。避難者たちの当たり前の疑問はしかし、霞が関の住人たちには理解されない。
 話し合いに駆け付けた山本太郎参院議員は「原発事故被害者を被害者でないことにするために数字をいじり、どんどん福島に帰そうとしている。国は福島県と一体になって、原発事故の矮小化を進めているのではないか」と声を荒げた。「この場に来た決定権のない役人の立場も分かるが、もう少し被害者に寄り添って欲しい」。
 原発事故がなければ、避難者など生まれなかった。放射性物質が降った。住環境が汚染された。被曝のリスクを避けようと自ら逃げた人々は「自主避難者」と呼ばれ、冷遇されてきた末に切り捨てられる。

 「ナイフでも持ってきて死んでやれば良かった」

 避難者の1人がつぶやいた。雨は上がっていた。しかし、自主避難者を取り巻く状況はどしゃ降りのままだ。


(了)

【放射能のバカヤロー!】双葉町民が埼玉県加須市で怒りの声~「故郷を返せ」「原発事故さえなければ」

原発事故さえなければ、今ごろ自宅に戻れていた。故郷を奪った「放射能」への怒りは「バカヤロー」という言葉になって響いた。福島県双葉町から埼玉県加須市に避難していた町民が5日、避難生活を送った旧騎西高校に集い、原発事故に対する怒りを語った。2020年の東京五輪に向け避難者の帰還政策を加速させる安倍政権に対し、避難者の1人は言った。「バカ安倍は安全だと言っている」。故郷を汚された被害者の言葉は、事故から5年を経て忘れつつある私たち1人1人にも突き刺さる。



【「返せよ!オラの双葉町」】

 ギター1本。歌というより絶叫に近い声が響いた。

「放射能のバカヤロー! 何でみんなを苦しめる?」

「帰れるのはいつの日か」

「青い空の双葉町、灰色にしたのは誰か」

「オラたちが悪いことをしたのか?」

 パイプ椅子に座って聴いていた男性の目からは、いつしか涙があふれて止まらなくなっていた。ハンカチでぬぐってもぬぐっても、涙は止まらなかった。

 歌っていた荒引定男さん(66)の自宅は、福島第一原発から5kmほどの場所にあった。「オラの住んでいた山田地区は、いまだに13μSv/hもある。看板のスローガンじゃないが、何が『明るい未来』だ!」

 歌の合い間に「目をつぶると思いだすよな、故郷を」と語りかけると、先ほどの男性が「んだ、思い出す」と答えた。荒引さんの表情も泣き顔のようだ。「思い出して聴いてくんちょ」と歌ったのは、このような歌詞だった。

 「返せよ!思い出いっぱいのオラの双葉町」

 故郷に帰りたいけど帰れない。ステージ後、汗を拭いながら荒引さんは「もう帰れないと思う」とつぶやいた。しかし5年が経ち、そういう当事者の苦悩が忘れられてはいないか。「果たして政治家は、真剣に謝ったか?」と荒引さん。しかし一方で、複雑な想いも口にした。

 「正直言うとね。今は忘れたいよ。そっとしておいて欲しい。こうやって人前で歌っているのも、忘れるためかもしれないよね。ほら、酒を呑むのだって、1人より大勢でパーッと呑んだ方が発散できるでしょ?」

 私は「そうですね」と言うより他に言葉が見つからなかった。故郷への想いと原発事故への悔しさ。当事者にしか理解できるはずのない葛藤。「節目の5年」という手垢のついた表現がいかに陳腐か、お分かりいただけよう。
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「放射能のバカヤロー」と絶叫した荒引さん。「人は

恨まねえけど、原発は憎たらしい」

=埼玉県加須市・旧騎西高校


【「すぐに帰れると思っていた」】

 旧騎西高校は、2011年3月30日から2013年12月27日まで双葉町民が避難先として身を寄せた。避難者数は一時、約1400人に上った。2年9カ月にわたる避難生活を、小丸栄子さん(82)=双葉町両竹=が振り返る。

 「あの日、私は自宅に1人でいてね。気付いたら首のあたりまで水に浸かって、やっとの思いで2階に逃げたの。自衛隊の人に避難所に連れて行ってもらって、ようやく孫たちとも合流できた」
 凍てつくような寒さの中、洋服は海水で濡れたまま。川俣町の避難所に移動しても着替えることは出来なかった。埼玉に移動する直前、ようやく郵便局などからまとまった現金の引き出しを許された。

 「これはきれいすぎるわね。初めは畳だけだったのよ。何とか用意した段ボールも低いから、中まで全部見えてしまった。でもね、確かに大変だったけど井戸川町長(当時)についてきて良かったと思ってる。放射線量の低い土地に私たちを避難させて守ってくれたんだもの」

 旧騎西高校の一室で、当時の〝段ボール生活〟が再現された。避難者はいくつかの段ボール箱を並べ、自分のスペースを確保した。それでも、1人あたりのスペースは畳半分ほど。女性専用の部屋など用意されるはずもなく、着替えなどプライバシーも何もない。家族が発作を起こしても、雑魚寝状態で看病するしかなかった。別の女性は「隣の人の歯ぎしりや寝言が聞こえた」と苦笑した。「すぐに帰れると思ったから、何も持ち出さなかったわよ。津波がおさまるまでの避難だと思ったんだもの」。川俣町では入浴できた人もいたが、せっかく汚れを洗い流しても真新しい肌着には替えられない。まさに着のみ着のまま。誰もが、気付いたら「避難者」になっていた。しかも、その避難は本当に正しい方向だったのか。「西さ逃げれば良いと思っているから、分かんねえもの。結果的に悪い所、悪い所に逃げていた」。
 おにぎり1個を家族で分け合って食べた。カップラーメンは何よりのごちそうだった。おにぎりに飽きてしまい、どこからか調達してきた焼肉のたれをつけておにぎりを食べていたという。つらかった避難生活。しかし、もっとつらいのは、津波の残像だ。

 「目の前で人が流されていった。私は何も出来なかった。今でも時々、あの光景が思い出される。頭から離れません」

 女性は涙ながらに語った。津波に原発事故。安倍晋三首相には決して理解できぬ被害者の苦しみが、今なお続いている。
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着のみ着のままで避難した双葉町民は、プライバシー

など全くない避難生活を強いられた。段ボール箱

での仕切りのみ。「原発事故さえなければすぐに戻れ

たんだ」と女性は語った


【「バカ安倍は安全だと言っている」】

 双葉町民らが当時を振り返っていた頃、安倍首相は福島県内を巡っていた。
 「バカ安倍は安全だ、戻せと言っている。戻れるわけねえべさ」

 テレビ局のカメラが撮影していることも気にせず、矢内進さん(76)は怒りをぶちまけた。

 「国道6号線が全面開通して、みんなタイヤで放射性物質を持って行っているんだ。分かってねえと思うけどな。政治家も官僚も安全だ安全だと簡単に言ってるけど、安全なら家を貸すから住んだらいいさ」

 矢内さんは何度も「分かってねえんだよ」と繰り返した。双葉町内にある娘の自宅は18-20μSv/hもある。「除染?除染なんかしたって駄目だっぺはあ」。

 原発事故被害者を切り捨てて東京五輪に邁進する安倍政権。矢内さんが期待するのは、夏の参院選だ。「18歳から投票できるようになった。若い人は、こういう状況、今の政治をどう判断するのかな」。福島の汚染が解消されぬまま、再び原発が動かされることへの怒り。「地震や津波だけなら良かったんだ。その後に原発がな…」
 小丸さんも安倍首相に注文をつけた。

 「こういう場に来て、私たちの話を聴くべきよね。もう忘れちゃってるのね」
 そう、私たちに出来る事はまず、原発事故被害者の言葉に耳を傾ける事。そして、放射性物質の拡散によって苦しめられている人々の存在を忘れない事なのだ。


(了)

【棄民にNO!】原発事故被害者が都心をデモ~住宅無償提供打ち切り撤回求めるも、復興庁は拒否

都心のサラリーマンやOLの目に、怒りの声をあげる原発事故被害者の姿はどう映っただろうか。想いは胸に響いただろうか。「謝れ!、償え!、保障しろ!」─。原発事故の被害者でつくる「原発事故被害者団体連絡会」(ひだんれん)が2日、都内で集会とデモを行い、国の棄民政策にNOを突き付けた。集会に先立って行われた政府交渉では、避難者向け住宅の無償提供打ち切り撤回を要求したが、復興庁の役人は拒否。4年後の東京五輪に向けて切り捨てられてはたまるかと、改めて団結と連帯と確認し合った。被害者として当然の権利主張すら聞き入れられない人々がいることを、忘れてはならない。



【「福島県民は切り捨てられて良い?」】

 なぜ被害者が都心をデモ行進しなければならないのか。なぜ、サラリーマンに耳をふさがれ、迷惑そうな表情で振り返られなければならないのか。原発事故から5年経ち、東京五輪を4年後に控え、被害者切り捨てが進行しているからに他ならない。
 デモに先立ち、午前10時から衆議院会館で開かれた政府交渉。復興庁や環境省などから役人がずらりと席を埋めたが、口をついて出てくるのは「復興」への取り組みのアピールと、除染の〝成果〟ばかり。「除染はほとんど終わっている」、「心の復興にも支援していきたい」、「先行調査で見つかった甲状腺がんは、放射線の影響とは考えにくいと評価されている」…。役人らが早口で現状報告を終えると、当然ながら当事者から手が挙がった。

 「福島県民は切り捨てられて良いんですか?原発事故は福島県民のせいですか?」

 福島県浪江町から兵庫県に避難中の菅野みずえさん(63)=原発賠償関西訴訟原告団=だ。

 「甲状腺を調べてもらったら、『癌だ、直ちに切った方が良い』と言われました」と話す菅野さん。周囲から「オラたちは、病院に行っても『何ともねえ』と切り捨てられてしまう」という声を多く耳にしているという。「福島県民、特に子どもたちが守られていない。子どもは国富じゃないですか。東京オリンピックのために戻すのですか?そっだらごとおかしいじゃないですか?」と語ると、会議室には「んだ、んだ」という声が響いた。
 いわき市から都内に避難中の鴨下祐也さん(47)=福島原発被害東京訴訟原告団=の質問にも、役人は誰も答えることが出来なかった。

 「除染が終わった終わったと言うけれど、原発事故前の土壌の数値はどのくらいなのか?事故前の何倍か把握しているのか?」

 そもそも国は、被害の実態を把握していない、把握しようともしていない。政府交渉に同席した「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」(SAFLAN)副代表の福田健治弁護士が「何度『県が』と言うか数えようと思ったが、途中でやめた」と呆れたように語ったが、国は積極的に避難者数を把握しようとしないばかりか、住宅支援についても「福島県が」、「福島県が」と何度もくり返した。

 あくまで住宅支援を打ち切ったのは自治体であって国ではないという姿勢。そのくせ、福島県が既に打ち出している、2017年3月末での住宅無償提供打ち切りについては「政府の方針は既に決まっていること」、「方針が変わるものではございません」と撤回を明確に拒否してみせる。SAFLAN事務局長の大城聡弁護士も、口調は静かだったが国の姿勢をこう批判した。

 「私の周りには、住宅支援の打ち切りを『分かりました』、『仕方ない』という避難者は1人もいない。子ども被災者支援法14条にもうたわれているように、避難者の皆さんがどう思っているのか、しっかり意見を聴いて欲しい」。同条には「施策の具体的な内容に被災者の意見を反映し、内容を定める過程を被災者にとって透明性の高いものにするために必要な措置を講ずるものとする」と記されている。しかし、実際には被害者の意見が反映されているとはとても言えない。安倍晋三首相も内堀雅雄福島県知事も、当事者に会おうともしない。

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(上)東電本店前でシュプレヒコールをあげる武藤類子

さん。「福島原告告訴団」の団長として、ようやく東電

旧幹部らの強制起訴にこぎつけた

(下)外堀通りをデモ行進する参加者。サラリーマンら

が振り返るなか、被害救済を訴えた

=東京都港区新橋


【「犯人が私らに命令している」】

 政府交渉の場では、「ひだんれん」共同代表の長谷川健一さん(飯舘村)が7項目にわたる緊急要請書を、安倍首相宛てに提出した。

 要請書では、避難者への住宅無償提供継続を求めているほか、年間追加被曝線量が1mSvをしたことが科学的に実証されるまで帰還を強要しないこと、「支援法」が定める避難・期間・居住の選択の権利を認め、「被曝を避けて生きる権利」を保障することなどを要求している。
 しかし、役人たちが用意した資料には、帰還を前提とした施策ばかりが網羅されていた。土壌測定をせず、空間線量だけであたかも汚染がなくなったかのように判断する。葛尾村から都内に避難している小島ヤス子さんは「根拠なく東京に来ているわけでは無いんです。犯人の側が勝手に私らに命令している」と怒ったが、どれだけ交渉の場を設けても、どれだけ被害者自ら怒りをぶつけても、霞が関の役人には届かない。交渉後、長谷川さんは「何の進展もなかった。がっかり」と肩を落としたが「これに負けてはいけない。国や東電は我々が声をあげることを嫌っている」と自らを奮い立たせるように話した。

 この日の政府交渉は「子ども・被災者支援議員連盟」の総会として行われたが、会長を務める荒井聡衆院議員(民主・北海道)が途中、「メディアがいると率直な意見交換ができない」との理由で取材者に退室を求め、避難者らと紛糾する場面もあった。

 「感情的なことがマスコミを通じて流れるのは良くない」と非公開を主張する荒井会長に対し、オープンにするべきだとの声が避難者や取材者からあがる。すると荒井会長は「私たちも命がけで法律(支援法)を作ったんですよ」、「ここは議員の総会なんですよ、間違えないでください」と怒鳴り出す始末。最後は、出席した国会議員らの挙手で取材を認めたうえで質疑応答が行われたが、支援法を制定したと威張る前に、荒井議員はこの5年間、支援法が原発事故被害者を守れなかった現実を真摯に受け止めるべきだろう。

 同議員は「災害救助法には限界がある。そろそろ議員立法で支援法を一部改正する時期に来た」と何度も口にしたが、立法を待つ間に、来年3月末には避難者向け住宅の無償提供は打ち切られてしまう。帰還困難区域以外の避難指示区域が解除されれば、さらに多くの「自主避難者」が生じる。「棄民」は目の前だ。立法を待つ猶予はない。鴨下さんもこう話す。

 「災害救助法は、住宅の無償提供打ち切りの根拠にはならない。それは福島県も認めている」
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(上)日比谷公会堂で開かれた全国集会では、「被害

者を切り捨てるな」と書かれたプラカードが掲げられた

(下)政府交渉で緊急要請書を手渡す長谷川健一さん。

住宅無償提供の打ち切り撤回を求めたが、役人の

回答は「NO」だった=衆議院会館


【「なくすべきは避難者数ではない」】
 日比谷公会堂で開かれた全国集会。

 京都に避難した宇野朗子さん(原発損害賠償京都訴訟原告団)は「避難の権利が認められないなど、あってたまるか。なくすべきは避難者数ではなく、被曝の強要です」と訴えた。「なぜ福島だけが年20mSvなのか」と語ったのは菅野秀一さん(南相馬・避難勧奨地域の会)。年1mSvでなく20mSvを基準値として住民を戻そうとする国の帰還政策を「東京オリンピックへの参加国が減らないようにするため、海外に日本の原子力の技術を輸出するためだろう。電力業界からの政治献金もある。まさに経済優先。原子力ムラがこの国を動かしている」と批判した。

 南相馬市から神奈川県横浜市に避難中の村田弘さんは「もう静かに怒るのはやめましょう」と呼びかけた。「先日、住民説明会のために小高区に帰ったら、小学校の国旗掲揚台に除染作業中のゼネコンの社旗がはためいていた」と話し、「(故郷の)山は青いはずだった。それが今はフレコンバッグの黒い山になってしまった」と悲しみを口にした。「知事は内堀だが、われわれは外堀を埋められようとしている」。

 原発事故から5年。ここに来て、国による切り捨てが加速している。原発事故当時の東電幹部らを相手取って集団刑事訴訟を起こし、検察審査会による強制起訴にまでこぎつけた武藤類子さん(福島原発告訴団)は「私たちは理不尽な被害を受けた被害者です。償えと言っているだけ。当たり前の事を言っているだけです」と語った。
 当たり前のことを何度訴えても、大声をあげても涙を流しても、聞き入れられない被害者が数多くいる。巨大地震への危機感も節電意識も薄れた都心で、果たして原発事故被害者への理解は深まっていると言えるだろうか。

 なぜ被害者が都心をデモ行進しなければならないのか。

 その一因は、あなたの無関心かもしれない。

(了)

【自主避難者訴訟】実は〝勝訴〟でない京都地裁判決~不十分な「避難の権利」認定。「後退」との指摘も

自主避難者を取り巻く厳しい環境は何も変わらない。そう思わせる判決だった。京都地裁は18日、福島県郡山市から京都市内に自主避難した男性の不眠症やうつ病と原発事故との因果関係を認め、妻と合せて約3000万円の支払いを東京電力に命じた。自主避難者に対する東電の賠償責任を認めた初の判決として注目されたが、一方で2012年9月以降の自主避難の合理性や年20mSv以下の被曝のリスクは否定。「むしろ後退だ」との見方もある。命を守るための避難がなぜこうも冷遇されるのか。判決を機に、改めて自主避難者を取り巻く状況を整理したい。



【「ADRに納得出来ない人には励ましに」】

 「京都地裁の自主避難者訴訟には、大きな争点が2つありました」

 原告代理人を務めた井戸謙一弁護士が解説する。「大きな争点」とは①原告(父親)の精神疾患や働けなくなってしまったことと、福島第一原発の事故との因果関係が認められるか②自主避難の相当性がどこまで認められ、その精神的苦痛に対する慰謝料がいくらと認定されるか─だ。
 井戸弁護士は言う。

 「1つ目の争点について、裁判所は因果関係を認めました。その結果、金額はADR(裁判外紛争解決手続)の和解提示額の3倍に達しました。ADRの和解提示額に納得できない人には励ましになる判決だと思います」
 実際、2011年6月から北海道札幌市に避難中の宍戸隆子さんは「PTSD(心的外傷後ストレス障害)が原発事故の被害であると認定されたことがまず、画期的だ」と評価する。「ADRをしている自主避難者も、基本的には転居費用や失業などの実質的な損失だけを補てんされているケースが多い。精神的な賠償を裁判で求めていくことができるという先例になり、とても心強い」。

 原発事故後、福島市や郡山市などの「自主的避難等対象区域」から避難した場合、例えば母子避難(18歳以下の子ども1人、妊娠していない母親1人)だと、東電は2012年8月31日までを対象期間として子どもに72万円、親に12万円の計84万円を賠償金として支払った。しかし、実際に要した費用を無視した定額賠償であるうえ、対象区域から外れる白河市や西郷村など「県南地域」からの母子避難の場合は、わずか12万円のみ。少しでも実費に近い金額を賠償として求めるのであれば、ADRを利用することになる。
 ADRは、国の原子力損害賠償紛争解決センターによる和解仲介手続き。訴訟と比べて費用が安く、期間も短くて済むメリットがあるが、「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク(SAFLAN)」副代表の福田健治弁護士によると「弁護士が仲介委員を務めるが、彼らの考え方や対応にばらつきが生じているのも事実。最大の問題は、東電側に和解案を受け入れる義務がないこと」。

 さらに「センターは文科省の原子力損害賠償紛争審査会の一部門で審査会からの独立性がなく、原発事故による損害の範囲などを定めた指針を大きく外れるような和解案は出さないことが多い」(福田弁護士)。今回の判決が前例となるのであれば、費用や時間、労力をかけても裁判で東電と争おうと考える避難者にとっては、確かに大きな前進と言える。
文科省①
補償の獲得は自主避難の権利の確立につながる。

自主避難者たちは原発事故直後からずっと闘い続

けている=2011年12月、文科省前


【国の意向を追認した京都地裁】

 だが、問題はもう一つの争点だ。「京都地裁は、東電の言い分も含め自主避難として合理性があるのは2012年8月までとし、慰謝料の金額は父親について100万円しか認めませんでした。これでも、ADRでは20万円しか認めなかったので5倍の金額ではあります」と井戸弁護士。さらに「低線量被曝のリスク問題については、年20mSvを下回れば健康被害のリスクは無いと認定。福島県内で多数、見つかっている小児甲状腺がんについても、被曝が原因とは認められないとしました。極めて不当な判断であり、到底承服できません」。

 つまり、原発事故による避難と精神疾患との因果関係を認めて賠償金の支払いを命じた点は評価出来るものの、2012年9月以降の自主避難の合理性を認めていない点、低線量被曝の危険性について年20mSvを基準にしている点については、決して〝勝訴〟とは言えない判決だったのだ。井戸弁護士は「国の言い分に従っていれば無難だというのではなく、裁判官には全身全霊をかけて何が正義なのかを探求していく強い意志が求められる」と司法に訴える。

 匿名を条件に取材に応じた弁護士が、今回の判決の本質を指摘する。

 「極めて厳しい判決。そもそも自主避難者への賠償を認めるか否かというところに行き着いてしまい、その意味で、原子力損害賠償紛争審査会の指針から後退していると言わざるを得ない」

 判決を受けて、インターネット上には「勝手に逃げておいて補償して欲しいとは図々しい」など否定的な書き込みも少なくなかった。まだ避難しているのか、自力で生活しろ…。思えば自主避難者たちはこの5年間、世間の無理解と闘い続けてきた。
 前述の宍戸さんは2011年10月20日、避難者でつくる自治会の会長として、文科省で開かれた原子力損害賠償紛争審査会の第15回会合に出席している。「避難したお父さん、お母さんたちは、ただやみくもに不安になったわけではありません」と自主避難者の実情を語った。「目の前でいきなり娘や息子が鼻血を出した。いきなり具合が悪いと寝込んでしまった。その状況がずっと続く。これは何かおかしいんじゃないか…。これは避難の判断基準にならないでしょうか」。

 自主避難の合理性や賠償の範囲、金額などを話し合っていた審査会で、こうも訴えた。「福島から避難するというだけで、夫や親、親類や友人らから頭がおかしいんじゃないかと言われた。国が言っていることに逆らうのか、と。非国民とすら言われることもあった。そういう人が何人もいる。それでも命を守りたかった。そこを酌んでください」。

20mSv/年
国の定めた年20mSvという基準に批判の声が少なく

ないなか、京都地裁も国の意向を追認した


【「欲しいのは避難の権利」】

 自主避難者への賠償をどうするか。数回にわたって話し合われた審査会は実は、比較的、自主避難者に寄り添った意見が飛び交っていた。2011年9月21日、第14回会合の議事録には、次のような発言が記録されている。

 「避難指示よりも外側の人で逃げた行為も合理的であったと認める以上は、そのときの強制、恐怖心による避難というのは、政府指示と同質ではないけれども、一種の近い恐怖心による強制のようなものがあったと考えても良いのではないか」(中島肇・元東京高裁判事)

 「こんな所に5年10年住めと言われても住んでいられないよねという感覚を持たれることは、ある意味で合理的かもしれない」

 「子どもさんが感受性が高いので、親御さんが、じゃあ20mSvというのは怖いという感覚を持たれることには、ある一定の合理性があるんじゃないか」(ともに米倉義晴・放医研理事長)

 「そこに長いこと住んでいると、今すぐということじゃないかもしれない。長いこと住んでいると危険かもしれないということで避難しているとすると、これは20mSvというのは基準にならないんじゃないか」(能見善久・東大名誉教授=審査会長)

 その中で、自主避難者への金銭的補償に否定的な意見を述べていたのが、後に原子力規制委員長を務めることになる田中俊一氏だった。2011年12月6日の第18回会合では、閉会直前に「私なりに頭を整理する意味でメモをつくりました」として、次のように語っている。

 「賠償という形で対応することが、不安や恐怖を克服する最も適切な方法であるとは、私は考えていません」

 「低線量被曝に対する対策は、個人への賠償という形ではなく、多数の住民の不安や恐怖を軽減するための長期的な施策が優先的に講じられることを願う」

 第14回会合では、こうも述べている。

 「20mSv以上は避難で、来年の予測線量が20mSv以下であれば一応、現存被曝線量で住んでいいということになっています」

 日々の生活を考えれば、お金は当然、必要だ。しかし、多くの自主避難者が求めてきたのは「避難の権利」だった。今回の京都地裁判決は、その点において不十分なのだ。

 「自主避難の補償それ自体が、自主避難の権利を認めてくれることなんです。お金の話だけではないんです。自主避難の権利が欲しいんです。避難する権利は、命を守りたいという権利は、認めて欲しいんです」

 「自主避難者は福島だけでなく、命を守るという観点で、関東圏の方も、それこそ向こうに残っている方も、全員に補償が出るのが一番いい」

 審査会でこう訴えた宍戸さんは、今なお避難を続けていることについて、このように語る。

 「いま発表されている『安全』という放射線量の数値や識者の言葉が、未来で覆る可能性を否定できないからです。予防原則に従えば『生命を守るための避難』という選択を継続したいと考えるのは当然だと思います」

 まもなく原発事故から丸5年。避難の権利が確立されるどころか避難の合理性を否定するような動きばかりが活発化している。それが今回の判決であり、住宅の無償提供打ち切りなのだ。


(了)


【自主避難者から住まいを奪うな】「入居後6年」の猶予と避難者のジレンマ~京都府の取り組み

2017年3月末で自主避難者向け住宅(みなし仮設住宅)の無償提供が打ち切られるのを受け、避難者受け入れ自治体の対応にばらつきが生じている。京都府は、来年4月以降でも入居日から6年までは無償入居を認め、府営住宅への優先入居枠を設けた。一方、避難者の側にも安住の地を求めて早めに動くと自己負担が生じてしまうジレンマを抱える。切り捨てられようとしている避難者と受け入れ自治体の行政マンの想いを、京都で聴いた。



【最大で2018年12月まで入居可】

 「何が、どこまで出来るか分かりませんが、最大限のことはして差し上げようということです。その点は、震災直後から山田啓二知事も理解があります」
 京都府防災・原子力安全課の被災地応援担当課長は語る。福島県が、2017年3月末で自主避難者向け住宅の無償提供を打ち切ることを受けて今月1日、府営住宅の中から5戸を優先入居枠として確保し、募集することを公表した。現在、みなし仮設住宅に生活しているか否かにかかわらず、2011年3月11日の時点で福島県内(避難指示区域を除く)に住んでいて、府営住宅への入居を申し込む時点で京都府内に生活していれば対象となる。

 当然、収入要件などの資格を満たしている必要はあるが、それでも「公営住宅への優先入居を各都道府県にお願いしているが、具体的には検討途中」とする福島県や、「公営住宅に優先的に入居できるかは、方向性も含めて検討中。現在、都営住宅に入居している避難者には、基本的には2017年3月末で退去していただき、自力で住まいを探していただく」という東京都と比べて、はるかに前向きだ。
 京都府には1月末現在、把握できているだけで697人が避難しており、そのうち、7割近い480人が福島県からの避難者だ。府災害支援対策本部は原発事故翌年の2012年6月から7月にかけて避難者を対象にアンケート調査を実施したが、複数回答ながら、その時点で既に「不安な事、困っていること」の最上位が「住まいのこと」だった。いつまで「みなし仮設住宅」として扱われ、家賃が免除されるか不安な日々を送っていたかが分かる。災害救助法を根拠に、自主避難者の「みなし仮設住宅」は2014年以降は1年ごとに更新されてきた。それが来年3月末、いよいよ打ち切られる。「自立」を名目に避難者は自己負担を求められる。

 そこで、京都府は福島県の意向に関わらず、避難者の現在の住まいへの入居期限を「入居日から6年」と決めた。打ち切りまでは、受け入れ自治体が負担した家賃を福島県に請求し最終的には国が負担するが、来年4月以降は京都府の「持ち出し」となる。受け入れ自治体によって対応が異なるのはそのためだ。

 「2017年3月末で一律に打ち切ってしまっては、避難した時期によって1年しか今の住まいに居られない世帯も出てくる。公平性を保つ意味でも、入居日を起点にすることにしました」と被災地応援担当課長。「みなし仮設住宅」への新規申し込みは福島県が2012年12月28日で終了したが、締め切りギリギリに京都に避難した場合は、2018年12月まで猶予を与えられることになる。

 自主避難者向け住宅の無償提供延長を求める声は依然として高く、自主避難者自ら何度も国や福島県との交渉を続けているが、現状では福島県は「打ち切りの方針は変わらない」との姿勢を崩していない。公営住宅に入居している避難者に対しては京都府も当然、6年が過ぎたら退去を求めることが前提だ。少しでも時間的猶予が与えられることは、避難者の精神的負担がどれだけ軽減されることか。
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京都府は、住宅の無償提供が打ち切られる自主避難

者のために、府営住宅に優先入居枠を設けた

=京都市内


【「夜の仕事とWワークしようかしら」】

 17日午後、京都市伏見区の市民放射能測定所に、自主避難者が集まった。原発事故直後から支援を続けている「うつくしま☆ふくしま in 京都」の相談会だ。福島県避難者支援課が「打ち切り後の新しい支援策」と胸を張る、2年間限定の家賃補助などに関して、同団体代表の奥森祥陽さんが解説した。しかし、浮き彫りになったのは支援策の中身はもとより、避難者たちが抱えることになるジレンマだった。

 奥森さんは言う。「そもそも無償だった家賃が有償に転換するだけ。早めに動いて府営住宅などに転居したら、その瞬間から家賃負担が発生する。ギリギリまで今の住まいに住んでいればタダ」。

福島県いわき市から避難中の女性は、高校1年生と中学3年生の2人の娘と3人暮らし。民間のアパートに移り住むとなれば、福島県の家賃補助(1年目は3万円、2年目は2万円)を受けるにしても、5万円近い負担が毎月生じることになる。引っ越し業者に頼めば、初期費用は50-60万円はかかりそうだ。「夜の仕事とダブルワークしようかしら」と冗談交じりに話したが、目は笑っていなかった。
 公営住宅への入居を検討しているが、当選して入居できるか否かは「賭けのようなもの」。今回は、優先入居枠が5戸分用意されたが、今後はどれだけ用意してもらえるか分からない。一般募集でも、子どもの学校など家族のニーズにあった住宅があるかどうかも分からない。しかも、府営住宅に当選したら、敷金として3カ月分の前家賃を用意しなければならない。打ち切りを前提に早めに動かなければと焦る気持ちもあるが、2012年3月下旬に避難したため、じっくり探すことにしようと考えている。
 「汚染が続いている以上、いわき市には帰りません」と女性。結局、住宅支援を打ち切っても自主避難者たちの多くは帰還しない。むしろ、放射線被曝を避けようと避難するなかで、困窮を強いるだけの施策なのだ。
 34歳の女性は、2012年2月に福島県会津美里町から京都市内に母子避難した。同町は福島第一原発から約100km離れているが、小学生の息子を放射線被ばくのリスクから遠ざけたかった。悩んだが、息子の同級生が京都に避難したことを知り、決心した。避難を始めてから4年が経つが、福島には戻らないと決めている。
 「現在の住まいは家賃が7万1千円。負担が大きいので公営住宅への転居を考えています」

 避難後に京都の男性と再婚。昨年、第二子を出産。現在も妊娠中で夏の出産を控えている。原発事故がなければ避難する必要などなかった。再婚したが、所得は決して多くは無い。新しい命と住まい。母親は11カ月の息子を抱いて自宅に帰った。
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どういう身の振り方が最善か。母子避難者にとっては

家賃負担は死活問題。京都府が退去期限を「入居日

から6年」としたことで、少しでも猶予が生じるのが救いだ


【「何をもって『自立』と言うのか」】

 京都府の被災地応援担当課長は「ただ単に追い出すわけにもいかない」と話す。今後は府営住宅への優先入居だけでなく、不動産業者などと連携して、多くの選択肢を提供していきたいという。「自主避難者の方々は、自分から避難者であることを言いにくい傾向にある。そういうことを一から言い出さなくても業者との話がスムーズに進むように、橋渡しが出来たら良いですね」。
 同じ行政マンとして、福島県避難者支援課の対応について、慎重に言葉を選びながら「国とギリギリの折衝をしたのだろう」と語る。だが「今の福島が安全なのか危険なのか。どちらなのか私たちには判断できない。あくまで避難者がどう捉えるかです」。京都に定住したいと考える避難者にどんな支援が出来るのか。財源は府民の納める税金だから府民の理解も要る。この先、10年も20年も支援を継続するのは難しい。昨年8月に実施した避難者への意向調査では、定住希望が少なくなかった。府職員も苦悩を抱える。

 国や福島県は、自主避難者たちに「自立」を求める。しかし、原発事故が無ければ福島で「自立」していた人たちばかりだ。これまで多くの避難者と接してきた被災地応援担当課長も「何をもって『自立』と言うのか。避難者に対して安易に使うべき言葉ではないのではないかな」と話す。「避難者と話すなかで、『自立』という言葉に抵抗感を示す方々もいらっしゃる。それは理解できます」。
 「避難の必要はなくなった」と言い放つ国。「福島では普通に生活している」と帰還を促す福島県。避難を継続する人々を救うか否かが、受け入れ自治体の善意に頼るしかないところに、安倍政権の原発事故被害者への冷淡さが伺える。


(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】「打ち切り御免」曲げぬ県庁。3万の家賃補助で追い詰められる避難者

原発事故による、いわゆる「自主避難者」向けの住宅無償提供を2017年3月末で打ち切る方針を示している福島県は7日午後、東京都内で打ち切り後の家賃補助を軸とした「新たな住宅支援策」に関する説明会を開いた。しかし、従来から無償提供の継続を求めている避難者側との溝は深まるばかり。県側は「福島に戻れる環境は整いつつある」、「無償提供は6年が限界。打ち切り方針は変わらない」などと繰り返し、避難者の声に耳を傾けない。挙げ句、取材者を締め出そうと画策して避難者から批判を浴びる始末。当事者が置き去りにされたまま、「復興」という名の棄民が加速している。



【「打ち切りの撤回は致しません」】

 これまで何度も繰り返されてきた光景だった。

 福島県避難者支援課の幹部らは避難者からの質問に端的に答えず冗長な説明に終始していたが、次の言葉だけはきっぱりと言い切った。

 「打ち切りの撤回は致しません」、「方針が変わることはありません」

 県職員の口からは、住宅の無償提供継続について「難しい」、「ハードルがかなり高い」、「6年が限界だ」などと消極的な表現ばかりがついて出た。無償提供の継続を妨げる「高いハードル」とは何か、何を根拠に「6年が限界」と捉えたのか、具体的な説明は無い。そしてこうも言った。「内閣府との協議の中で、福島県として打ち切りを判断した」。避難者から声があがる。「福島に戻れるという判断をしたのは県なんですね?」。県職員はうなずいた。「はい。放射能に汚染されたのは事実だが、生活できる環境が整っている。そもそも、避難指示区域以外では普通に生活しています」。

 避難者に寄り添うと言いながら公の場で発信する言葉がこれでは、自主避難者への世間の誤解は払拭されるはずがない。なぜ避難の必要が生じたのか。原発事故による放射性物質の拡散があったからだ。2015年2月に実施された県の「避難者意向調査」でも「応急仮設住宅の入居期間の延長」を求める声が最も多く、その理由の多くが「放射線の影響が不安」だった。何のための「意向調査」だったのか。

 避難者支援課によれば、「避難されている方の声にお応えしたいという支援策」が最大月3万円の家賃補助(2年間)だったという。さらに「住宅を見つける時間が欲しいという声を受けて」家賃補助は3カ月前倒しされることになったと職員は胸を張った。これには、説明会場の後方に座っていた若い母親らから怒りの声があがった。

 「全然応えてないよ」

 実は、決まっているのは民間住宅へ転居した場合の「家賃補助」と福島に戻る際の「転居費用補助」(10万円)だけなのだ。各都道府県の公営住宅への優先入居は「お願いしている。いろいろな角度から検討を進めている」(避難者支援課)状態。実際、東京都都内避難者支援課の担当者はこう言っている。

 「福島からの避難者が優先的に都営住宅などに入居できるかは方向性も含めて未定です。このままいけば、都としては2017年3月末で住宅の提供義務がなくなるわけで、退去して自力で住まいを探していただくことになります」

 これが「避難者の声に応えた」という福島県庁の〝努力〟の結果なのだ。
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(上)説明会の冒頭、福島県避難者支援課の幹部らは

取材者の途中退出を提示。避難者らから「やましい

ことでもあるのか」と批判を浴び、撤回した

=東京都中野区

(下)年収まで実名で書かせる「意向調査」の回答用紙


【「来年3月で家族はバラバラです」】

 避難者の言葉に耳を傾けない県職員に、福島県相馬市から東京都立川市に避難しているという男性(57)が静かに語り始めた。「早く福島に帰って欲しいと言っているようにしか聞こえない。なぜ避難しているかと言えば、原発が爆発したからですよ。なぜそれが分からないのですか?」。

 男性は自力で住まいを確保したため、国の支援なく現在の住まいの家賃も支払っている。この間、都営住宅へ入居するべく申し込んだが、4回とも抽選に外れてしまった。うつ病を患い、妻が働いている。「貯金を取り崩しているけれど、やばいです」。ハローワークにも通っているが、年齢がネックになり仕事に就けていない。
 「僕は、川内、高浜など全国の原発で働いてきました。汚染は6年で消えるものじゃない。でも、帰還を強制しているような気がしますね」
 南相馬市原町区から調布市に避難中の男性(60)も「県にはまったく期待していない。いくら声をあげても反映されないじゃないか」と静かにマイクを握った。

 味の素スタジアム、旧赤坂プリンスホテルを経て現在の都民住宅に入居した。高齢の母親は東京の暮らしになじめず、南相馬の自宅に帰った。3LDKに幼稚園に通う2人の孫を含めて6人暮らし。家賃に共益費や駐車場代も加えれば「来春以降は、福島県内では考えられないほどのお金がかかる」。

 少しでも息子世帯の負担を減らそうと、妻と南相馬に帰る苦渋の決断をした。福島に戻る人だけには10万円の転居費用補助が出るが、県庁に問い合わせると「息子世帯の家賃補助か転居費用かの二者択一です」と言われた。泣く泣く、妻と二人の転居費用は補助を受けないことにした。男性は「不公平だ」とも主張したが、福島に戻らない息子世帯の転居費用は支給されない。しかも、息子世帯が受けられる家賃補助は最大で3万円。避難者支援課が想定している「家賃6万円」では、都内で借りられる間取りは、都心から離れても1Kかせいぜい2K。男性は「全く不完全な支援策だ」と怒りをぶつけた。

 「来年3月で家族はバラバラです」という男性の言葉に、避難者支援課の職員は言葉がない。孫との同居をあきらめたのは、何より放射線被曝への不安があるからだ。しかし、県庁の考え方は「皆、普通に生活している」。男性はたまらずこう言った。「こんな支援策、誰も納得していませんよ」

 そして、囲み取材では皮肉交じりに語った。

 「確かに、これまで無償提供の世話になってきたし、決定権のない人たちにいくら言ってもね…。彼らも立場上、ああ言わされているのだろう」
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南相馬市から調布市に避難中の男性。息子世帯の

家賃負担を少しでも減らそうと、断腸の思いで妻と

自宅に戻ることを決めた。「来春から家族はバラバラ

です」。息子が得られる家賃補助は月額3万円だけ


【実名で収入書かせる「意向調査」】

 WHO(世界保健機関)は、「健康」を次のように定義している。

 「肉体的、精神的および社会的に完全に良好な状態にあること」。
 「日本子どもを守る会」がまとめた「2015年版子ども白書」でも、「住宅問題と若者の貧困」や「子どもの居住権」が重要な課題として掲げられている。住まいは生活の根幹だ。
 しかし、避難者たちがどれだけ訴えても福島県は聞く耳を持たない。説明会の終了後、「県知事に直接、訴えたい」と母親の1人はつぶやいたが、内堀雅雄知事は自主避難者と会おうともしない。福島県は、新たな支援策を発表した後に「意向調査」の名目でアンケート用紙を避難者に送付しているが、記名式の上に健康状態のほか家族個々人の年収まで記入させるようになっている。「収入を把握して追い出す材料にするのだろう」、「家賃補助を少しでも減らしたいのか」と避難者らは憤る。シリアルナンバーを切り取るなど、個人を特定されぬよう工夫して回答する動きが広がっている。

 この日の説明会では、避難者支援課の職員が質疑応答の取材を禁じる発言があり、紛糾する場面があった。テレビ局や全国紙の記者も取材に来ていた。説明会に来られない避難者のためにも、すべてを記録して報じて欲しい─。集まった避難者から怒りの声があがった。「何かまずいことでもあるんですか?」。県職員は、出席した避難者のプライバシー保護を理由に挙げたが、個人が特定されないように配慮すれば良いだけのことだ。取材を禁じる理由にならない。そもそも、取材者の退出を求める避難者などいなかった。行政の隠蔽体質が如実に表れた一幕だった。
 あとどれだけ避難者が声をあげれば届くのか。しかし、避難者には個々の日常生活がある。運動家ではない。そもそも、避難者支援課の意向調査票が届いて初めて、住宅の無償提供打ち切りを知る避難者も少なくないという。

 「当事者の発信が大事なのは分かるけど、私たちにも生活がある。私が声をあげて来られたのは、子どもが病気の時などに手を差し伸べてくれた近所の人がいたから。原発事故への理解があったから。避難者をサポートする体制が整わないと、当事者が声をあげることなんてできませんよ」
 母親の目は潤んでいた。避難は美談ではない。避難者たちは追い詰められている。


(了)