民の声新聞 -4ページ目

【飯舘村の学校】怒るPTA、涙流す生徒~被曝や友人関係無視し「17年4月再開」に固執する菅野村長

飯舘村長の打ち出した2017年4月の村内学校再開方針に、村民らが「時期尚早」とNOを突き付けている。保護者からも子どもたちからも異論が噴出しているが、菅野典雄村長は「村がなくなってしまう」と譲らない。村民はなぜ反対しているのか。村立臼石小学校のPTA会長で「飯舘村の子どもの将来を考える会」メンバーでもある川井智洋さん(42)に話を聴いた。会の実施したアンケート結果からは、保護者の切実な不安や学習環境を変えられたくない子どもたちの想いが伝わってくる。



【保護者の7割超が「時期尚早」】

 昨年10月7日、村教育委員会の設置した「学校等再開検討委員会」の第1回会合。PTA会長として出席した川井さんは、菅野村長が「村内で2017年4月に再開するという前提で話し合いを進めて欲しい」と切り出したことに、大変驚いたという。

 「唐突でした。事前に何の話も無く、いきなりでしたからね。そもそも避難指示解除と同時ではなく、インフラ整備などを見極めてから子どもを連れて村に帰る人が出てくるものと考えていましたから。村のまとめた復興計画も、そういう前提でしたしね」
 国は2017年3月末までに、「帰宅困難地域」を除く「居住制限区域」、「避難指示解除準備区域」の避難指示を解除し、帰還を促す方針を打ち出している。飯舘村では、特に汚染の度合いの高い長泥地区を除いて避難指示が解除されることになり、それと同時に学校も村内で再開させようというのだ。

 「そもそも保護者の意見を吸い上げていない」と川井さん。当然、前提条件の見直しを求めたが、村長の回答は「変えられない」。村内の幼稚園、小中学校の保護者らは、業を煮やして「飯舘村の子どもの将来を考える会」を結成。昨年11月には、村立幼小中学校に通う子どもの保護者へアンケートを実施した(回収率83.4%)。

 「2017年4月1日に村内で幼小中学校を再開することについて、どのように思われますか?」という設問では、実に71.9%が「まだ早いと思う」と回答。「転校を考えている」、「結論を出すには与えられた時間が少ない」などとして「どちらとも言えない」が25.7%。「ちょうど良い時期だと思う」と答えた保護者は、わずか2.4%だった。村長が学校再開を強行した場合にも「通わせたくない」、「あまり通わせたくない」が計86.2%に上り、学校再開時期としては、38.9%が「帰村宣言(避難指示解除)から5年以上経過後」、33.8%が「同3-4年経過後」と答えている。

 村教委も昨年12月、未就園児の保護者や転校済み児童・生徒の保護者を含みアンケート調査を実施(回収率58.1%)。「村の学校等に通う」と回答した保護者は17.5%にとどまり、「村外」の76.1%を大きく上回った。菅野村長のかたくなな意思とは裏腹に、村民の戸惑いは明らかなのだ。
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雪の遮蔽効果があってもなお、0.6μSv/hを超す

飯舘中学校のモニタリングポスト。菅野村長は来年

4月再開の方針を曲げていない


【菅野村長の強引さに批判噴出】

 「まだまだ飯舘に戻って生活するには不安がある。しかし、出来れば転校はさせたくない」

 「考える会」のアンケートに寄せられた自由意見からは、わが子を案じる保護者たちの切実な苦悩が伝わってくる。多くの保護者が「放射線被曝への不安」と「友達と離れたくないという子どもの願い」とのはざまで揺れ動いているのが分かる。飯樋、草野、臼石の3小学校の子どもたちは現在、川俣町内の仮設校舎に避難先からスクールバスで通っているが、村内再開が強行されれば、村内の学校に通わない子どもは福島市や伊達市など避難先学区の学校への転入を余儀なくされる。4児の父親でもある川井さん自身、「今の住まい(福島市内)の近くに転校させたいが、子どもにとって友達は大切。悩ましいです」と話す。
 村の学校に通わせたいと答えた保護者であっても「避難先の借り上げ住宅はいつまで借りられるのか?」、「線量の問題が全く解決していない」、「転校しても他の学校になじめない」などと不安を綴っている。「山など除染されていない場所があり不安」、「放射線量がわずかしか下がっていないところに通わせたくない。避難した意味が無い」、「村が安全だと思えない」、「黒い袋が積まれたままの飯舘へ通わせるということを今は考えられない」、「村の安全を信用して戻る大人が何人いるか?」…。

 今月19日には、飯舘中学校の1年生と菅野村長の意見交換会「村長さんと語る会」が開かれた。村のホームページによると、涙ながらに「皆で一緒に卒業したい」と訴える生徒もいたが、菅野村長は「物事には必ず良い面と悪い面があるもの。人生にはそこを判断しなければならない時があります」などと応じ、再開時期の見直しに前向きな答えはなかったという。

 来年4月の村内再開に固執する菅野村長。アンケートでは、強引な手法へ厳しい批判も複数寄せられた。「学校を再開するという手法で帰村を促す村のやり方に納得いかない」、「親の気持ちを無視して、村内での学校再開を進めるのはやめて欲しい」、「子ども一人一人の心の声を聴いてあげて」、「子どもたちを犠牲にしてまで、国の言いなりにならないといけないのか」、「大切な子どもを復興にこじつけて振り回さないで欲しい」、「教職員は再開に賛成しているのか?」、「子どもたちを人質にされた思いがする」、「大人が帰村を躊躇しているのに、まず学校からというのは横暴すぎる」、「ふるいにかけられていると感じる」、「帰村に対して簡単に考え過ぎていて怒りを覚える」、「子どもは行政の道具ではない」、「村長の考えにはついて行けない」。

 そして何より、次のような意見が、村民の意向を無視した菅野村長の強引さを如実に表していると言えよう。

 「なぜこの大事な話を一斉に保護者に言わないのか。なぜTVニュースで先に知らなければならないのか。これが一番おかしいと思う」
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川俣町の仮設校舎。菅野村長は、子どもたちに

つらい二者択一を迫っている


【「親が子どもの命を守ることは当然」】

 川井さんら「考える会」は今月7日、菅野村長や村教委に対し、村内での学校再開時期を早くても2020年4月以降に見直すことを求める要望書を提出。村議会にも請願書を出した。要望書は「もし健康被害が出たとしても国や県は放射能との因果関係を認めないと思うし、そうなったときの責任は親である私たちの責任になる。子どもの命を守ることは親として当たり前の事だ」、「来年4月に再開させたら、子どもの数が少なくなるのは火を見るより明らか」、「進路や修学旅行などで大事な時期を迎える現在の中学校1年生が転校を余儀なくされる」などとして「もう少し、仮設幼稚園・小中学校に通わせてください」と求めている。添えられた署名は700筆を超えていた。

 広報誌「広報いいたて」2015年11月号では「村内学校再開について、多様な角度から検討を進めていきます」と書かれているが、現段階では菅野村長は「義務教育の学校がない村は考えられない」、「あと5年も10年も仮設校舎を続けていく訳にはいかない」、「線量を下げる努力をする」などとして来年4月の再開方針を曲げていない。
 「村長は、対外的には『子どもは宝』などと言っているのに…」と川井さん。「何回でも対話はする、と繰り返し言っているが、実際には対話ではなく説得なのだろう」。
 原発事故による全村避難の結果、避難先の学校への転出が相次いだのも事実だ。村立学校へ通う子どもたちは原発事故前の半数ほどにまで落ち込んだ。新入生数は先細りで「(村内の学校に)1人でも多くの子どもに通ってもらい、復興の一翼を担って欲しい」という気持ちも理解できなくはない。ただそれは、放射性物質の拡散と汚染が続いている現状では優先されるべきではない。今は、村の存続よりも村民の健康を考えるべき時だ。

 菅野村長は、2011年8月に出版した著書「美しい村に放射能が降った」(ワニブックスPLUS新書)の中で、原発事故直後から全村避難に否定的だったことを綴っている。

 「(3月25日に)長崎大学大学院の高村昇教授が『基本的な事項さえ守れば、そんなに心配することはないよ』という趣旨の話をしてくれたので、私も安心した」

 「村民が村を出てしまえば、この飯舘村はなくなってしまう」

 「飯舘村が、原子力事故における放射能汚染被災地の範となって、復旧・復興を果たす」

 「ともかく、村をゴーストタウンにすることだけは避けたかった」

 「村民を強制的に即時避難させようとしない私を『殺人者』呼ばわりしたり、強く非難したりするメールもあった」

 「我々の村は危険だと言っても、原発周辺の自治体と比べれば、線量ははるかに低い」

 「放射線のリスクだけで、村民の仕事や家庭を壊すわけにはいかない」

 そんな菅野村長にしてみれば、避難指示解除と同時に村内で学校を再開させることは何ら疑問の余地が無いのだろう。無投票当選した2012年10月の村長選挙後にも「今後4年間で帰還を開始する」と語っている。〝公約〟に忠実な村長を、村民は今後も支持し続けるのか。今年10月にも村長選挙が予定されている。



(了)

【自主避難者から住まいを奪うな】〝福島の寒さよりも冷たい〟役人たち。住宅無償提供継続を改めて否定

約400人の地方議員が参加する「原発事故子ども・被災者支援法」推進自治体議員連盟が25日、衆議院会館で政府交渉に臨み、2017年3月末での自主避難者向け住宅無償提供打ち切りの見直しなどを求めた。福島県からの避難者も出席して「私たちは福島に帰らないワガママな奴ですか?」と怒りの声をぶつけたが、復興庁をはじめ、ずらりと並んだ役人たちは、改めて支援打ち切りの見直しを否定。最後まで血の通った前向きな発言は無しく、しどろもどろの回答に終始した。郡山市議は呆れ顔で言った。「あなた達は福島の寒さよりも冷たい」



【「新たな支援」対象は半数だけ】

 絵に描いたような「官僚答弁」に、当事者たちは我慢ならぬと声をあげた。

 「住宅は生活の根幹。なぜ他の項目より優先順位が下がるのか理解に苦しむ。そもそも、福島県が発表した支援策は、こちらが求めてきた内容ではない。転居費用にしても、福島に帰らないと支給されない。今の家に住み続けさせて欲しいんですよ。住宅へのニーズはあるんです」

 鴨下祐也さん(いわき市→東京都)は、避難者団体「ひなん生活をまもる会」の代表として、これまで何度も国や福島県と交渉してきた。署名も添え、一貫して住宅の無償提供継続を訴えてきたが、そのたびに、県は「国に伝える」、国は「県に伝える」とはぐらかされ、もどかしいやり取りを繰り返した。挙げ句、福島県は昨年6月、政府の避難指示に拠らない、いわゆる自主避難者への住宅無償提供(みなし仮設住宅)を2017年3月末で打ち切ることを決定。12月には、世帯収入に応じた家賃補助を2年間に限って行うことなどを柱とした新たな支援策を発表した。

 同議員連盟事務局長の中山均新潟市議によると、福島県の担当者は問い合わせに対し「家賃補助が受けられる避難者は、だいたい半数だ」と答えたという。つまり、少なく見積もっても、避難者の半数は「自立」の名の下に確実に切り捨てられることになる。

 共同代表の佐藤和良前いわき市議は「全ての人を助けるのが『救済』。半数も切り捨てられるのは救済とは言わない。棄民だ」と声を荒げた。復興庁の男性参事官補佐は「切り捨てる方向で考えているわけではない」、「出来る限りの支援をしていく」と再三、強調したが、一方で「国と福島県で協議して決めたこと。現時点で打ち切りの方針が変わることは難しいだろう」と、住宅の無償提供継続を事実上、否定した。帰還政策に基づいた住宅支援打ち切りは決定事項。困っているなら少しだけ助けてやろう─。それが国の意思なのだ。
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(上)富岡町から会津若松市に避難中の古川好子さん

は「避難者の事を、帰らないワガママな奴と考えている

んですか?」と迫った

(下)要請書を提出した佐藤和良氏。国側は最後まで、

住宅支援打ち切り撤回へ前向きな姿勢は見せなかった


【「全避難者が住宅に困ってはいない」】

 この日の交渉で、同議員連盟が要請したのは次の4点。


①住宅支援について、避難当事者の意見を十分に聴取する場を設け、反映させること。


②2017年4月以降の住宅支援施策について「支援法」に基づく抜本的・継続的な住宅支援が可能となるよう、福島県の支援施策も含めて県と協議のうえ見直すこと。


③各自治体の空き家活用施策や居住支援協議会での住宅確保要配慮者として避難者支援策を位置づけること。


④原発事故汚染に対処するため「支援法」に基づく新たな法制度を確立すること。


 しかし、事前に要請内容を知らせていたにもかかわらず、国側は新年度予算要求に向け昨年10月に作られた資料を配布するだけで具体的な回答はなし。「今後も説明会や交流会の場でご意見を伺っていく」、「福島県による家賃補助が終わる2年後以降、どうなるかまだ見えていない。改めて県と協議することになるだろう」などと答えるにとどまった。

 議員らは、東京都豊島区の実例を挙げながら、各自治体に設置された「居住支援協議会」の「住宅確保要配慮者」に原発事故避難者も加えるよう国の指導を求めたが、国交省住宅局安心居住推進課の企画専門官は「国が一律にお願いするものではない。避難者であるか否かにかかわらず、住まいに困っているのであれば現行制度で十分、住宅情報提供の対象となっている」として拒否した。

 同省のホームページによると、「住宅確保要配慮者」は「低額所得者」、「被災者」、「高齢者」、「障害者」、「子どもを育成する家庭」、「その他住宅の確保に特に配慮を要する者」と定義されている。議員らは「原発事故避難者、と一言入れるだけでだいぶ違う。検討して欲しい」と食い下がったが、同専門官は重ねて拒否。交渉終了後の本紙の取材に対しては「避難者全員が住宅に困っているわけではない。困っている避難者は、現行制度で十分に対象となり得る。盛り込んでしまうと困っていない避難者まで対象になってしまう。立場ではなく、現実に困窮しているかどうかが問題だ」と理由にならない理由を述べた。
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内閣府、復興庁、国交省の役人がずらりと並んだが、

血の通った言葉は一つも出なかった=衆議院会館


【埋まらぬ役人と避難者の温度差】

 「お気持ちは分かります」、「ご意見を多数いただいている」、「出来る限りのことをしたい」…。原発事故以来、放射線を避けるため〝自主的に〟避難している人々は、これらの言葉を何度、聞かされてきたことか。古川好子さん(富岡町→会津若松市)が業を煮やしてマイクを握る。

 「避難者を、福島に帰らないワガママな奴だと考えているんですか?はっきり言ってください」。この5年間、ずっと「先の見えない」日々を過ごしてきた。住宅の無償提供が延長されるか否か、毎年心を痛めながら見守ってきた。「来年3月には住む所が無くなるかも知れないというドキドキ感は、あなた方には分からないでしょう」。特別扱いなど要らない。放射線から逃れる権利、せめて住まいだけでも心配なく避難できる権利を国の責任で認めて欲しい。ただそれだけなのだ。

 そして、こうも言った。「明日から野宿してください。その代わり、立派なスポーツジムを無料で使って良いですよと言われたら、あなたたちは困りませんか?あなたたちの感覚は、私たちの生活レベルと全然違うんですよ」。これには、復興庁の参事官補佐も「ハードの整備を必要としている人はいる。それと住宅支援を比べるものではない」と答えにならない言葉を吐くしかなかった。顔は紅潮していた。
 中通りから母子避難している女性は泣いていた。「放射線被曝の実害が出ているんです。私たちは正当に避難している。ワガママではありません」。子どもはまだ4歳。被曝の危険性を考えると到底、福島には戻れない。「住宅支援打ち切りは子どもの貧困につながります。避難・移住の権利を認めてください。国は私たちの家賃を東京電力に支払わせてください」と訴えた。しかし、もはやどれだけ涙を流しても役人の心には響かない。「打ち切り方針が変わることは難しいだろう」と繰り返したうえで、こう言った。

 「それはそれとして、できる限りの支援をしていきます」
 平行線のまま、2時間が過ぎた。蛇石郁子郡山市議が「国の考えが冷たい。福島の寒さよりも冷たい」と怒りを込めて話した。「なんでこんなに馬鹿にされなければいけないのか。ハード面には大規模な予算がつくのに、生存権にかかわる部分は細切れ。そんなに戻れと言うなら、20mSvを超える場所に国の役人が来て、範を示して欲しい」
 「切り捨てない」と言いながら、一方で「避難の必要はなくなった」と帰還を促す国。背後には、4年後の東京五輪が透けて見える。棄民へのカウントダウンは着実に刻まれている。


(了)

「天国のお母さんの無念は私たちが晴らす」。大熊町から避難の末旅立った95歳~福島原発かながわ訴訟

「福島原発かながわ訴訟」の第13回口頭弁論が22日午後、横浜地裁101号法廷で開かれ、福島県大熊町から神奈川県横浜市内に避難し昨夏、95歳で亡くなった母親に代わり、訴訟を引き継いだ次女(67)が意見陳述をした。大熊町では何不自由なく一人暮らしを謳歌していた母は、田村市内の避難所での過酷な避難生活を経てすっかり衰弱。要介護認定を受けるほどに。「家に帰りたい」。原発事故後、一度も自宅に帰ることが出来ずに旅立った母の無念を、娘たちが晴らすべく闘っている。次回期日は3月23日。



【かたいラーメンをかじった避難所】

 大正9年生まれのおばあちゃんにとって、避難所での日々はさぞかしつらかったことだろう。次女が語った「変貌ぶり」が、高齢者避難の過酷さを如実に物語っていた。

 「最初の避難場所で大熊町が手配したバスに乗り、あちこちを転々とした結果、3月12日にようやく田村市の避難所に入ることが出来たそうです」
 1976年、夫の退職を機に大熊町に自宅を建てた。同町を選んだのは、岩手県陸前高田市出身の夫が、大熊町に同じ「大野」という地名があることを懐かしく思い気に入ったからだった。夫は自治会長を務め、自宅の広間には多くの人が集まってにぎわった。震災の3年前に夫が先立つと、町内の墓地に眠る夫に見守られながら、一人暮らしを謳歌していた。生活の上で特段、不自由な点もなく「人生で今が一番のんきで良いよ、終の所として生きられるだけ生きていくよ」と話していたという。病院への送迎は近所の人がやってくれたが、寝たきりになるわけでもなかった。
 ところが、たどり着いた田村市の避難所は廃校となった小学校。体育館は既に避難者であふれており、保健室のような部屋に入れられたという。「6畳ほどの部屋に8人も詰め込まれ、寝返りも打てなかったと話していた」。

 2日ほど食事もとれず、ようやく配られたラーメンも水が出ないため調理することが出来るはずがない。そもそも廃校だから、水道が止まっていたのだ。「母は、かたいままのラーメンをかじるしかなかった」。水が出なければ当然、トイレもままならなかったという。
 こんな生活が、90歳を過ぎた高齢者に悪影響を及ぼさないはずがない。娘たちも母親の居場所を必死に探していたが、田村市内の避難所に身を寄せていることが分かったのは、ずいぶん後になってから。次女の夫と40代の息子が車で迎えに行くことが出来たのは3月26日。避難所での孤独な生活が始まってから、実に2週間が経過していた。

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天国の母親に代わり、法廷で意見陳述した次女。

「母の無念な気持ちを無かったことには出来ません」


【1度も帰宅できないまま天国へ】

 変わり果てた母親の姿に、次女は驚いた。

 「横浜に到着した母は衰弱しきっていて骨と皮だけになっており、涙が止まりませんでした」

 体力はなかなか戻らず、4月下旬頃まで寝たきりの状態が続いた。しかし、ようやく支え無しに歩けるようになったと思ったら、今度はリハビリ中に転倒して腕を骨折してしまう。そして原発事故から4カ月が経った2011年7月、とうとう要介護度3と認定された。周囲の支えがあったにせよ、大熊町では一人暮らしが出来ていた。その後、要介護度は4へと進行し、2012年5月には特別養護老人ホームに入った。
 次女は言う。「本当なら最期まで母を自宅で看てあげたかったです」。しかし、母親と同じように次女の身体にも大きな負担がかかっていた。仕事を辞め、献身的に母親の世話をしているうちに体調が悪化し「家族共倒れになりそうでした」。夫や息子、横須賀に住む妹も協力してくれたが、ストレスは想像以上だった。母親が老人ホームに入ってしばらく後、今度は次女が硬膜下血腫で手術を受けたのだ。手足や言語機能に障害が残らなかったのは何よりだった。
 「母は、原発事故で住む所を奪われ、自由気ままな生活も奪われ、交流のあった方々とはもう生きているうちに会えないだろうと寂しい思いをしながら避難生活を続けていた。そのような母を見るのは本当につらく切なかったです」
 2014年2月には要介護度5にまでになってしまった母親は2015年7月5日、終の棲家と決めた大熊町に1度も帰ることができないまま、天国へと旅立って行った。享年95。普通なら「大往生」と笑顔で見送られるのだろうが、哀しい「震災関連死」だった。原発事故がなければ、今年も大熊町で楽しい正月を迎えていただろう。しかも、母親の遺骨は横浜市内の墓地に埋葬された。夫は強制避難区域に指定された大熊町の墓地に眠る。原発事故は、連れ添った夫婦の亡骸までも引き裂いたのだ。

 「母亡き後、その無念な気持ちを無かったことにはできませんので、私たちきょうだい4人は、この訴訟を引き継ぐことにしました」

 大熊町は母親だけでなく、子や孫にとっても大切な「故郷」だった。「母を失ったのみならず、いつも帰る場所だったふるさとを失い、私たちは皆が集まる場所を失ってしまったという喪失感でいっぱいです」

 勇気をふりしぼって法廷に立った次女の姿を、天国の母親はきっと頼もしそうに見守ったに違いない。
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この日の口頭弁論で弁護団は、津波による全交流

電源喪失の予見可能性や避難の合理性について

主張した=横浜市中区・波止場会館


【前年には共有されていた浸水の危険性】

 この日の口頭弁論で、弁護団は津波の予見可能性と避難の合理性について論じた。

 栗山博史弁護士は、保安院の担当者間で2010年3月に交わされたEメールを紹介し、貞観地震と同じような規模の地震が再び起きれば、福島第一原発が浸水し、全交流電源喪失を引き起こす可能性があることが十分に分かっていたと主張した。Eメールには「防潮堤を作るなどの対策が必要になると思う」、「福島は、敷地があまり高くなく、もともと津波に対しては注意が必要な地点だが、貞観の地震は敷地高を大きく超えるおそれがある」などと書かれており、遅くとも震災の1年前には浸水の危険性が共有されていたことを伺わせる。栗山弁護士は「なぜ津波対策が先送りされたのか、国や東電は責任を問われるべきだ」と述べた。
 一方、小賀坂徹弁護士は「原告らは、放射線の影響を避けるため、自らや家族の命と健康を守るために避難している」と避難の合理性を主張。「原告らは低線量被曝の健康影響について客観的に判断したのであって、単なる『不安や恐怖』という主観のみに基づいて避難しているわけではない」と強調した。また、このようなたとえで避難の合理性を示して見せた。

 「雨が降って濡れそうだ、という不安ではなく、既に雨が降って濡れているから避難しているのです」
 原告団は秋以降、東京など他の訴訟と同様に、専門家の証人尋問や原告本人の尋問でさらに低線量被曝の健康への影響や国・東電の責任を立証していく方針。原告団長の村田弘さん=南相馬市小高区から避難中=は、国や福島県による住宅無償提供打ち切り決定に怒りを示しながら「震災関連死と呼ばれる方々の無念さを、私たちは腹に据えないといけない」と呼びかけた。
 次回期日は3月23日14時。横浜地裁101号法廷で開かれる。


(了)

法廷に響いた「じいちゃん」の哀しみ。「原発事故が家族をバラバラにした」~福島原発被害東京訴訟

政府の指示に拠らない、いわゆる「自主避難者」たちが国と政府を相手取り、原発事故による損害の賠償を求めた「福島原発被害東京訴訟」の第15回期日が20日午前、東京地裁103号法廷で開かれた。いわき市の70代男性が意見陳述に立ち、放射線被曝を避けるため都内に避難中の娘や孫への想いを述べた。「じいちゃん」の意見陳述を中心に、原発事故被害者の哀しみや苦悩に思いを馳せたい。次回期日は3月16日。



【「孫を放射能汚染から守りたい」】

 静寂に包まれた法廷。用意した原稿を持つじいちゃんの手は、小刻みに震えていた。

 「原発事故がなければ、私たち家族がバラバラになることはなかった。このことだけははっきりしています」

 視線の先では、女性裁判長がじっと聴き入っている。背後は、ほぼ満席となった傍聴席で支援者らが見守る。緊張でやや早口になったが、最後まで読み上げた。「平穏でささやかな毎日が、原発事故によって一変してしまいました」。

 原発が爆発したと聞き、小学校1年生と2年生の2人の孫の健康を真っ先に心配した。自宅を増築し、二世帯住宅での娘家族との〝同居〟。孫からは「じいちゃん」と呼ばれ、男性が寝かしつけることもあったという。そんな可愛い孫たちを被曝させてはいけない─。娘と話し合い、都内への避難を決めた。「孫を放射能汚染から守らないといけない」という一心で向かった東京。しかし、慣れない東京、しかもホテルやウイークリーマンションでの避難生活は「言葉では言い表せない、つらいものでした」と振り返る。

 先の見えない避難生活。物価も高く、仕事と年金による家計は、いつ破たんするとも分からない。「常日頃から、自分がしっかり働いて、家族につらい不自由な思いをさせないようにと考えている」という男性は、断腸の思いで妻といわき市に戻ることを決める。しかし、孫たちを汚染の恐れのある故郷に戻すわけにはいかない。被爆回避のため、じいちゃんは孫と離れて暮らすことになった。
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法廷で「原発事故前の幸せな生活を返して欲しい」

と訴えた、いわき市の男性。娘と孫は都内に避難し、

離れ離れになってしまった


【ガーデニングやめてしまった妻】

 原発事故が引き裂いた孫とじいちゃん。だが、放射性物質の飛散がもたらしたものはそれだけではなかった。ガーデニングが好きだった妻は昨年1月、植木職人に頼んで庭の植木を全て切ってもらったという。

 「庭の空間線量は高かったが、除染はより線量の高いところが優先されるため、私の自宅は除染してもらえる見通しも立たない。妻はとても植木の世話をする気持ちにならなかったようです」。植木だけでなく、庭ではチューリップやラベンダーなども育てていたが、原発事故後は手をつけなくなってしまったという。「孫の姿が自宅からなくなり、好きな土いじりも放射能汚染によって制約され、妻はとても悲しい思いをしています」。
 男性は、実名を伏せて原告番号で意見陳述に臨んだ。その理由を、弁護団の1人である吉田悌一郎弁護士が法廷で述べた。

 「自主避難者(区域外避難者)は、政府の避難指示に拠らないことから、あたかも勝手に避難しているかのようにインターネット上で誹謗される。エセ避難者であるとの心無い攻撃を受ける。賠償金に関しても、区域内避難者と比べて差別的な扱いをされている」

 挙げ句、2017年3月末をもって住宅の無償提供が打ち切られる。小学校6年生と中学校1年生になったじいちゃんの孫たちも、自力で住まいを確保できなければ、いわき市に戻るか路頭に迷うかの理不尽な二者択一を迫られる。しかし、放射線被曝の恐れのあるいわき市には戻れない…。いつになったら、孫との楽しい日々が戻ってくるのか。じいちゃんは静かにこう、締めくくった。

 「原発事故前の幸せな生活を、国と東電は今すぐに返して欲しい」
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原告の1人である鴨下祐也さん(ひなん生活をまもる会

代表)は、報告集会で「住宅支援が打ち切られれば大

混乱になる」と国や福島県の住宅支援打ち切りを批判

した=弁護士会館


【「法廷での勇敢な姿は誇りに思う」】

 福島原発被害東京訴訟は、2013年3月11日の1次提訴からまもなく3年。今年は被害を立証するための原告本人の尋問や、専門家による証人尋問が行われる。

 証人尋問には、早大教授で、避難者1万6千人に行ったアンケートで避難者の4割にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の恐れがあると警告する辻内琢也氏や、「高木学校」の一員で、いわゆる国会事故調の委員だった崎山比早子氏。そして東芝の元社員で、福島第一原発3号機原子炉も設計した吉岡律夫氏を予定しているという。原告の本人尋問は一世帯につき1人が、弁護士との主尋問や被告代理人弁護士の反対尋問に臨む。

 この日の傍聴席には、父の姿を見守る40代の娘の姿があった。「私1人ならともかく、娘の健康を考えるといわき市に帰るなんて考えられません」と、今後も避難生活を続けていくと話した。

 「毎日、お酒を呑むのが好きな父だけど、今日はいつもの父じゃないという感じだった。法廷での勇敢な姿は、本当に誇りに思う」
 大役を果たしたじいちゃんは、少しだけほっとした表情でこう話した。

 「落ち着いて話そうと思ったが、非常に緊張した。裁判長に伝わればいいが…」

 次回期日は3月16日午前10時に開かれる。



(了)

【南相馬訴訟】「20mSvで指定解除するな」~裁判長「極めて重要な訴訟との認識」も意見陳述は拒否

空間線量が年20mSvを下回ったことを理由に「特定避難勧奨地点」の指定を一方的に解除したのは違法だとして、福島県南相馬市の住民808人が国を相手取って起こした民事訴訟の第2回口頭弁論が13日、東京地裁103号法廷で開かれた。バスで駆け付けた原告らは「汚染や被曝の現状を訴えたい」と毎回の意見陳述を求めたが、裁判長は、「原告の主張を理解しないまま判決を下すことはしない」としながらも重ねて拒否。原告らは「視察などで現状を認識してから争点を整理するべきだ」などと怒りの声をあげた。第3回口頭弁論は3月28日。



【「通学路は400万ベクレル超」】

 裁判長の語り口調はやわらかかったが、しかし、原告2人による毎回の意見陳述はきっぱりと拒んだ。

 「裁判所は、今回の訴訟を極めて重要であると認識しています」

 「原告の主張を理解しないまま判決を下すわけではありません。安心してください」

 「ぜひ信頼関係を築いていきたい」

 原告を代表して意見陳述を求めた小澤洋一さん(南相馬市原町区馬場)は「先週、通学路の土壌を測定したら、407万ベクレル/㎡もあった。毎日、被曝の脅威にさらされている私たちにしか分からないことも数多くある。私たち原告の声を十分に反映させてください。たった数分です」と訴えたが、裁判長を翻意させることはできなかった。

 小澤さんは何度も挙手して食い下がった。「この間にも不要な被曝を強いられているんですよ」。満席の傍聴席からは野次が飛び、裁判長が再三、制する場面もあった。原告席の住民らの中には、顔を真っ赤にして耐えている人もいた。しかし、裁判長は「代理人に対して十分ご説明した」、「争点整理の中で意見陳述は必須のものではないと考えている」、「今後、陳述書や本人尋問が必要になる可能性もある」と述べて、この話を打ち切った。

 原告による意見陳述を行わないという裁判所の方針は、年末の時点で弁護団に伝えられていた。280kmも離れた南相馬市から東京地裁まで駆け付ける原告らにとって、口頭弁論は現状を伝える貴重な場だ。この日もバスを借り、午前6時に出発して抗議行動や口頭弁論に臨んでいる。「弁護団が書面を交わすだけで終わらせないで欲しい」(小澤さん)と思うのも当然だ。

 支援者らは、年末年始を利用して署名活動を展開。原告や支援者らの1400筆を超える署名を添えて、今月8日には弁護団が意見陳述の継続を求める意見書を提出していた。弁護団の1人、大城聡弁護士は報告集会で「住民の声を聴かずに一方的に指定が解除されたことや南相馬市の現状を裁判所にきちんと理解してもらわなければ、この裁判の意味は無い」としたうえで「裁判長は原告の主張に耳を傾けるとは言っている。『深い関心を持っている』などと裁判長が発言することは非常に珍しい。そこまで言わせたことは意味がある。リップサービスではないと思う」と評価した。
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原告団長の菅野秀一さん(中央)ら20人が午前6時に

南相馬市をバスで出発し東京地裁に駆け付けた。

しかし、直接の意見陳述は改めて拒否された

=参議院会館


【「なぜ福島だけ年20mSvなのか」】

 住民らの主張はシンプルだ。「年20mSvを基準とした指定の解除は違法」。特定避難勧奨地点の指定は、2014年12月28日に解除されたが、その理由が「年間積算線量が20mSvを下回ることが確実になった」というものだからだ。2011年12月にまとめられた「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ報告書」では、「ICRPが提言する緊急時被ばく状況の参考レベルの範囲(年間20から100ミリシーベルト)のうち、安全性の観点から最も厳しい値をとって、年間20ミリシーベルトを採用している」と記されている。年1mSvでなく、20mSvでも十分に安全だというのが国の考え方だ。

 だが、口頭弁論の直前に行われた経産省前での抗議行動で、原告の1人、藤原保正さん(原町区大谷)は「福島県民だけ差別するのはやめて欲しい」とマイクを握った。報告集会では、次のように切実な想いを語っている。

 「私たちは何も、私利私欲のために裁判をやっているのではありません。どうして福島だけが20mSvで、他の県は1mSvなのでしょうか。こんな差別を受ける必要はありません。しかも、西側の飯舘村蕨平では仮設焼却炉で放射性廃棄物が燃やされています。バグフィルターで放射性セシウムが99.9%除去できるとは信じがたい。子どもたちに蓄積して発病したらどうするんでしょうか」

 汚染の事態を把握するため、小澤さんは「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」として土壌汚染の測定を続けている。村長が学校再開を表明している飯舘村では、学校敷地内での汚染は低い所で125万ベクレル/㎡、最高で1340万ベクレル/㎡に達した。東京都葛飾区の水元公園での測定でも、小澤さんの予想をはるかに上回る19万6000ベクレル/㎡だった。「4万ベクレル/㎡を超えたら放射線管理区域。チェルノブイリでは55万ベクレル/㎡超で強制避難とされました。首都圏でも基準値の5倍近い汚染なのだから、あとは推して知るべしでしょう。そのくらい汚染は深刻なのです」(小澤さん)。
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東京地裁前で「なぜ福島県民だけが年20mSvなのか」

と訴える南相馬の住民たち。次回期日は3月28日だ


【「経済・カネより人の命」】

 国は2020年の東京五輪を機に、福島県を含めた東北の「復興」を世界にアピールしようと躍起になっている。「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」の武藤類子さん(三春町)は「私たち被害者が、どうしてこんな思いをして裁判をしなければならないのか。どうして、東京五輪のために福島が頑張らなければならないのか」と話したが、法廷でも、福田健治弁護士が「帰還政策に最も欠けているのが、住民の話を聴くということ」、「政府が住民の意見を十分に聴かずに解除を強行したので訴訟を余儀なくされた」と語った。原発事故がなければ、汚染がなければ、国を訴える必要はなかった。これまで通りの平穏な生活が続けられたのだ。

 原告団長の菅野秀一さん(原町区高倉)は「私たちが大切にするのは、経済・カネより人の命です」と訴える。汚染が続く中で子や孫と生活しても大丈夫なのかという不安。しかし国は、住民の心配をよそに、形だけ「原発事故前の状態」に戻すことを急ぐ。
 弁護団は今後、年20mSvという基準が設定された根拠を国に問う。福田弁護士は「2011年12月16日に当時の野田佳彦首相が冷温停止状態を宣言した後も『緊急時被ばく状態』の20mSv~100mSvを採用するのはおかしい。『現存被ばく状況』の参考レベルである年1mSv~20mSvを採用するべきだ」と話す。

 次回期日は3月28日。意見陳述を拒否された小澤さんは、集会で改めて怒りをにじませた。

 「現地を見ることもせず、書面だけで争点整理などしないで欲しい」

(了)

【成人式】あの頃の中学生が語る「放射線」と「被曝」~「普通に部活やってた」「いまは意識しない」

福島県内の自治体で10日、成人式が行われた。原発事故から5回目の成人式。約3000人が〝大人の仲間入り〟をした福島市の成人式会場で、今年もあえて、放射線に関する質問を新成人にぶつけた。甲状腺がんが多発していると言われる福島。いまなお、線源が残る福島。新成人からは口々に「全く意識していない」という言葉が聞かれた。人は忘れるから生きて行かれるのか。原発事故から早5年。しかし、まだ5年。



【5年の歳月が「慣れさせた」】

 「時間が経って慣れ過ぎてしまったのでしょうね。今では放射線を意識することもなくなったし、恐怖心も薄らいでしまった。ほら、地震もそうじゃないですか。何度も揺れを経験すると、ちょっとした揺れでは驚かなくなる。それと同じなのでしょうね」

 式典に出席するために仙台市から帰省した男子大学生は苦笑まじりに言った。原発事故の翌年に福島西高校に入学。「僕もマスクをしていました。授業中、暑くても窓を開けられなかったですね」と振り返る。自宅のある蓬莱町も「放射線量が二けたの状態が続いて、洗濯物は屋外に干せなかった」。しかし、5年という歳月はそれらを忘れさせるには十分なのか。「数値も下がりましたしね」。

 甲状腺検査は、毎年受けているという。「のう胞が見つかりました。医師からは『問題ないレベル』と言われたけれど、こういうことを目の当たりにすると、少なからず影響はあったんだなあと思いますね。厄介だなと思います」。

 別の女性は専門学校生。「初めは自宅から外に出ないようにしていたけど…。テレビでも言ってましたから。でも、合格発表、入学となるにつれて全く意識しなくなりました。今?今はもう、全然です」。笑いながら大きく手を振った。色鮮やかな振袖が揺れた。
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(上)記念撮影に興じる新成人たち。「放射線?全く

意識しません」と口々に語った

=福島市・国体記念体育館

(下)16時頃、JR福島駅西口に設置されているモニタ

リングポストの数値は0.16μSv/hだった


【「普通に校庭で部活動やってた」】

 未曽有の大地震そして原発事故が起きた2011年3月、新成人たちは中学3年生。進学など、4月からの新しい生活を控えているところだった。少し振り返ってみたい。
 福島県立医科大学が公開しているデータによると、県北保健福祉事務所(福島市御山町)の放射線量は2011年3月15日までは0.05μSv/hだったが、翌16日に18.4μSv/hを計測。19日の10.3μSv/hまで二けたの数値が続いた。福島第一原発からの距離は約60km。福島市役所でも同18日に11.37μSv/hを計測し、公になっている数値だけでも尋常ならざる量の放射性物質が降り注いだことが分かる。それにもかかわらず、福島県庁は同16日に県立高校の合格発表(屋外掲示)を強行。「被曝の危険性」どころではない状況の中、中学生たちは合否の確認を強いられた。その中学生こそ、今年の新成人たちなのだ。ちなみに、合格発表から1カ月後の4月16日の福島市役所の放射線量は1.51μSv/hだった。

 しかし、被曝回避のために屋外での部活動が中止されることもなかった。会社員の女性は「福島商業高校では、夏には普通に部活動をやってましたよ。校庭の除染をした後ですけどね」と話した。「福島市は浜通りと違って原発から遠く離れているから大丈夫、みたいな? 食べ物も普通に食べて来たし、県外の人が心配するほど、中の人は気にしていないんですよ」と笑った。

 男子大学生は福島高校でサッカー部に所属していた。「サッカー部は線量の高い所で練習してたから1/3が辞めていったよ。俺みたいに気にしていない奴が残った。俺は今まで一度も放射線何て気にしたことがないから」。彼は何度も「気にしていない」、「意識していない」と繰り返した。
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(上)国体記念体育館近くの国道13号(福島西道路)。

手元の線量計は0.23μSv/hだった

(下)福島市内では除染が続く


【母親は除染作業員】

 成人式は、福島市生まれの作曲家・古関裕而氏の「栄冠は君に輝く」の演奏で始まった。市議会議長は、祝辞の中で「元気な姿を国内外に発信して」と述べた。
 体育館の後方に、わが子を抱く母親の姿があった。10代で出産した息子は2歳になった。母親は昨年まで、除染作業員をしていた。「仕事を探していたら、たまたま知り合いに誘われたから」。夫は今も除染に従事しているという。
 「それまで放射線なんてあまり気にしていなかったけど、除染に携わるようになって実際に数値を目の当たりにすると、逆に意識するようになりましたね」
 福島県立医大の甲状腺検査で、甲状腺がんが見つかっている。疫学者・津田敏秀教授は「福島県で甲状腺がんが多発している」と世界に発信した。そういった情報に接すると「この子は大丈夫だろうか」と心配になるが「過剰には心配していません」と話す。「放射線防護ですか?別に何もしていませんよ」。
 会場と福島駅を往復するシャトルバス。バスを待つ会社員の男性は少し唇を尖がらせて不服そうな表情で言った。

 「県外の人は『原発事故があったのに頑張ってる』って言うけど、地元では放射線の話なんか出ませんよ。親も別に話題にしない。意識なんかしませんよ」

(了)

【復興庁】「年20mSvで避難解除は妥当」重ねて強調。「東京五輪で世界に復興アピールを」と本音も

避難指示解除の要件となっている年20mSvの基準は高すぎる、年1mSvに引き下げて─。福島県民らが6日、東京都港区の復興庁を訪れた。担当者は「100mSv以下では発がんリスクは小さいと評価されている。20mSvではさらに小さくなる」と重ねて強調。「避難指示解除は戻りたい人のための規制緩和であって、帰還強制ではない」と繰り返した。一方で「東京五輪では福島の復興を世界にアピールする必要がある」と〝本音〟も。「故郷に戻りたい人のため」という錦の御旗の下、避難を続けたい人々が切り捨てられていく実態が垣間見えた。



【「帰還も被曝も強要していない」】

 話し合いは、福島県二本松市在住の男性がメールで送っていた複数の質問に、復興庁の「原子力被災者生活支援チーム」の課長補佐が答える形で進められた。福島市内に住む女性や静岡県内に避難している男性も出席した。

 担当者が繰り返し強調したのは「強制帰還ではない」という点。「避難指示の解除は、福島に帰りたい人のために規制を緩和するものだ。政府として帰還や被曝を強制・強要しているという事実は無い」。

 しかし、避難指示解除後も避難を続ければ、強制避難者も自主避難者となる。政府の指示に拠らない自主避難者への住宅支援は、2017年3月で打ち切られる。復興庁の担当者は「福島に戻る戻らないで支援に差はつけない」と強調したが、避難指示解除と自主避難者への支援打ち切りは結局、経済力のない避難者には帰還以外の選択肢を与えない。汚染の残る土地への帰還は、被曝のリスクを生じさせる。「帰還を強制しない。個々の判断」という言葉は、説得力に乏しい。

 福島県ではこれまで、田村市や川内村などで空間線量が下がったとして避難指示が解除されてきた。担当者は、2015年9月5日に解除された楢葉町を例に挙げ「避難指示解除の要件に『住民との十分な協議』がある。楢葉町でも住民との意見交換を20回開き、個別訪問もして一定の理解を得た上で解除したと考えている」と、一方的な解除ではないと説明。「積算線量が年50mSvを超すとみられる帰宅困難区域以外については、2017年3月までに解除したいというのが政府全体の方針」と改めて明言した。

 また、放射線に関する「放射線障害防止法」や「電離放射線障害防止規則」などは事業者や作業員に関するものであり、「原子力災害対策特別措置法によって設置された原子力災害対策本部の行為を縛るものではない」とも強調した。2011年3月11日夕に発せられた「原子力緊急事態宣言」は依然として解除されていないが、これについても「原子炉の冷温停止状態は続いており、突発的に原子炉がどうこうなるものではなくなった。宣言の継続と避難指示解除に因果関係も矛盾もない」と話した。
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昨年6月、原子力災害対策本部がまとめた改訂版

「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」でも、

避難指示解除の要件として「年20mSv」が明記され

ている


【「年20mSvは発がんリスク小さい」】

 男性らが特にこだわったのは、避難指示解除の基準が年20mSvと高く設定されていることだ。これについて、復興庁の担当者は2011年11月、内閣官房に設置された「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」(WG)がまとめた報告書の中で「100mSv以下の低線量被ばくでは、放射線による発がんリスクの増加は他の要因による発がんの影響によって隠れてしまうほど小さく、『放射線によって発がんリスクが明らかに増加すること』を証明するのは難しい。これは、国際的な合意に基づく科学的知見である」を引用。「20mSvは他の発がんリスクと比べても非常に健康リスクは小さい」と再三、説明した。

 8回にわたって開かれたWGの会合には当時、長瀧重信氏や丹羽太貫氏、前川和彦氏らが出席。ここでも、彼らを「専門家」とする復興庁側と「御用学者」とみる県民側とで意見が分かれた。ちなみに、第7回会合には〝脱除染〟に取り組む伊達市の仁志田昇司市長も出席している。

 WGの報告書では「発がんリスクは100mSvの被ばくより喫煙、肥満のほうが高い」などと記されているが、疫学者の岡山大学・津田敏秀教授は講演会などで「100mSvしきい値は、ICRP2007年勧告から生じた単なる誤解釈」で、「『100mSv以下は放射線によるがんは出ない』とは誰も言っていない」、「10mSvより低い線量でも放射線の発がん影響は確認されてきた」などと反論。著書「医学的根拠とは何か」(岩波新書)の中でも「『100ミリシーベルト』という数値は、広島・長崎の被ばく条件と観察数のもとで得られた数字であり、絶対的なものではない」と〝専門家〟らの混同を批判している。

 男性らは重ねて避難指示の解除は年1mSvを基準にするべきだと求めたが、復興庁の担当者は「年20mSvは安全と危険の境目ではないが、専門家の方々の意見で定められた。長期的に年1mSvを目指す方針に変わりはないし、田村市や楢葉町でも20mSvピッタリではなく1mSv近傍で解除されてきた」と現行の基準で問題ないと繰り返した。「チェルノブイリ原発事故では、ロシア政府の基準が過度に厳しかったと聞いている」とも。これには、福島市在住の女性から「本当に20mSvで正しいのか、ベラルーシに行って医師の話を聴いてほしい。放射線障害が出ない復興を目指して欲しい」と訴えたが、担当者は「ご意見として承る」と答えるにとどまった。

 「年20mSv」を巡っては2015年4月、500人以上の南相馬市の住民らが「年20mSvを基準とした避難指示解除は違法」として、国に特定避難勧奨地点の指定解除取り消しを求める訴えを東京地裁に起こしている。第二回口頭弁論が今月13日に開かれる予定だ。
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福島での甲状腺がん多発を世界に発信した岡山大学

の津田敏秀教授は、講演会などで「10mSvより低い

線量でも放射線の発がん影響は確認されてきた」と

繰り返し警鐘を鳴らしている


【「土壌汚染も考慮を」】

 静岡県内に自主避難した男性は「後になって『実は30年前は被曝のリスクは分からなかった』では、子どもは守れない」と静かに、しかしきっぱりと言った。「人として、年1mSvを基準にしないと動けない親の気持ちも理解して欲しい」と訴えた。

 福島市に住む別の女性は「子どもは土を触り、花や虫をつかむんです。空間線量だけでなく土壌のベクレルも考慮して欲しい」と求めた。復興庁の担当者は「モニタリングをしており、決してベクレルを軽視しているわけではない。ガラスバッジで個人線量を測りながら線量を下げ、ていねいに不安を解消する機会も設けて行きたい」と答えたが、福島県庁の職員は昨年、本紙の取材に対し「放射線防護には空間線量の測定で十分。福島県内の詳細な土壌測定の必要性も計画もない」と答えている。
 二本松市の男性は最後に、「2020年の東京五輪までに避難者も仮設住宅もゼロにしたいのではないか」と詰め寄った。これに対し、担当者は「国内外から注目を浴びる大会。復興できている点はアピールする必要がある」と否定しなかった。
 「子や孫を連れて避難指示区域に住んで欲しい。それで本当に避難指示を解除して良いか判断するべきだ。政府のやっていることは結局、帰還の強制じゃないか」と怒りをあらわにした二本松市の男性。膨れ上がった賠償の打ち切りやオリンピックでの復興アピールが絡み合い、原発事故被害者不在のまま、2016年は被害者切り捨てが加速する。話し合いは平行線で終わったが、国の強い意思だけは垣間見えた2時間だった。



(了)

【美味しんぼ】雁屋哲さんが語る福島の汚染、鼻血騒動~「低線量被曝を放置して『人間の復興』なし」

漫画「美味しんぼ」の原作者・雁屋哲さん(74)が23日、東京都国立市の一橋大学で講演を行い「低線量被曝を放っておく限り、福島での『人間の復興』はあり得ない」と語った。2014年4月28日に発売された週刊ビックコミックスピリッツ(小学館)での鼻血の描写を巡り「何万というバッシングを受けた」という雁屋さん。改めて「福島取材で鼻血は出たし、ものすごい疲労感だった」と強調。「福島では国土のさらなる破壊が進み、『人間の復興』などちっとも進んでいない」と怒りを込めて話した。



【内部被曝強いる「食べて応援」】

 今月も、2日間にわたって「チーム美味しんぼ」で相双地区を廻ったという雁屋さん。「私が見たものは復興どころではなく、国土の新たなる破壊だった」。

 飯舘村内に積み上げられたフレコンバッグ。中には、破れて雑草が生え始めているものもある。「こんな脆弱なもので放射性物質を管理できると思っていることがおかしい」。別の写真には、水田に別の場所の土を入れた様子が写し出されている。「田んぼの土をつくるのに何世代かかったか…。線量は下がり、国は『これで除染が済んだ』と言うが、これでは何にも使えない。土地は復興しないんだ」と語気を強めた。

 除染のあり方についても「広域暴力団の組長が福島にいるが、彼は除染作業員からピンハネする金でトップに上りつめた。ゼネコンやピンハネする者にとっては〝黄金の土地〟だろう」と批判した。「除染で儲けたい人がいる。帰還推進ではなく、1人2億円ずつ配って逃げてもらったら良いじゃないですか」。

 「美味しんぼ」が「食」をテーマにした作品だけに、福島取材では農家との出会いが多い。「南相馬市小高区の有機農家さんは『放射性物質が入ったものを有機野菜とは言えないだろう』と苦悶しておられる」。原発事故直後から続いている「食べて応援」についても、「言葉は美しく響くが、内部被曝を考慮していない」と批判した。さらに「土が酷く汚染してしまった。吸い込むかもしれず、農作業をするのが怖い」という農家の言葉を紹介し、「『食べて応援』は生産者を土地に縛り付け、彼らに劣悪な環境で働けと言っているのと同じですよ。それで良いんですか?」と提起。「『人間の復興』などちっとも進んでいない」と結論付けた。

 「福島県外は1mSv/年。福島の人は20mSv/年で安全とされてしまう。おかしいと思いませんか?福島の人々が周囲に気兼ねして声をあげられないなら、私たちが声をあげるべきです」と呼び掛けた雁屋さん。自宅で転倒して右足を骨折、車いす姿だったが「低線量被曝を放っておく限り、福島での『人間の復興』はあり得ないと思う」と力強く語った。

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(上)「福島では『人間の復興』など、ちっとも進んで

いない」と語った雁屋哲さん=一橋大学

(下)2014年5月、漫画「美味しんぼ」の〝鼻血騒動〟

を福島の地元紙は「新たな風評」と報じた


【バッシングの裏の「被曝隠し」】

 昨年5月以降、雁屋さんは「美味しんぼ」での鼻血の描写を巡って「何万というバッシング」を浴びた。

 問題となったのは、東京電力福島第一原発の取材から編集部に戻った主人公が、鼻血を出すというくだり。前双葉町長・井戸川克隆さんも登場し「私も鼻血が出ます」、「同じ症状の人が大勢いますよ。言わないだけですよ」、「懸念されるのは低線量被ばくの影響です」などと語っている。

 福島の地元紙は「新たな風評」と見出しを立て、漫画の影響で急きょ、数百人規模のキャンセルが温泉宿で生じたかのように派手に報じたテレビ局もあった。福島県は「作中に登場する特定の個人の見解が、あたかも福島の現状そのものであるような印象を読者に与えかねない」、「総じて本件への風評被害を助長するものとして断固容認できず、極めて遺憾」などとして、出版元の小学館に対し、2014年5月7日付で「偏らない客観的な事実を基にした表現」を強く申し入れている。

 さらに、石原伸晃環境大臣(当時)が「専門家からは被曝と鼻血の因果関係はないと評価が出ている。風評被害を引き起こすようなことがあってはならない」と批判したのをはじめ、安倍晋三首相も「根拠のない風評には国として全力を挙げて対応する必要がある」と語るなど、まさに「国を挙げて」原発事故による健康被害の否定に躍起になるほどの騒動に発展した。荒木田岳・福島大学准教授が「除染で福島を元通りにするのは難しい」などと除染の限界を語る場面についても、環境省がホームページ上で「面的な除染効果が維持されている」と反論した。

 しかし、前述した大規模キャンセルなど実際には無かったことを観光協会幹部が当惑気味に証言するなど、漫画の描写が「風評被害を助長」したと断じるには疑問が残る。事実、作品中で耳鼻咽喉科で診察を受けた主人公に、医師が「原発見学で鼻血が出るほどの線量を浴びたとは思えません」と語る場面がある。決して煽るように描いてはいない。結局、原発事故による健康被害を矮小化しようとする意図の下、大手メディアも巻き込んだ、国や行政の〝被曝隠し〟に作品が利用されたのではないか。「血が出るというのは健康被害の象徴なんでしょう。だから国も躍起になった」(雁屋さん)。

 「実際に、とめどなく鼻血が出ました。疲労感もすさまじく、2時間仕事をすると、それ以上続けられない状態だった。落ち着いたのは福島を離れてずいぶん後になってからだった」と雁屋さんは振り返る。自身も鼻血問題で叩かれた井戸川さんは「テレビや新聞が被曝問題をカットする中、雁屋さんは素直に取り上げ問題提起してくれた。やるべきことをやっていないのは福島県庁だ」と頭を下げた。
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北海道がんセンター名誉院長・西尾正道さんは

「現在の福島の放射線量は安全と言えない。今の

ままだったら必ず健康被害が出るだろう」と放射線

防護を呼びかけた


【今も浮遊する放射性微粒子】

 一橋大学の大学院生らが中心となって開かれた講演会には、北海道がんセンター名誉院長・西尾正道さんも参加。札幌市内に避難・移住してきた母親らの証言などから「明らかに鼻血が多かった」と雁屋さんの描写を支持した。「医学的に、ストレスで鼻血が出るという報告はない。鼻の粘膜にどれだけ放射線が当たったかが問題であって、全身換算の実効線量で語ってもしょうがない」と国に反論した。

 「今も、子どもたちは放射性微粒子を吸い込んでいる。身体に取り込んだら放射線を出し続けるから深刻なのに、内部被曝は過小評価されている。現実問題はいろいろとあるとは思うが、福島市や郡山市に住み続けるのは良くないと思う。今のままだったら、必ず健康被害が出るだろう。それが5年後か10年後か20年後かは分からない」と警鐘を鳴らした。中高生も参加した国道6号線の清掃活動についても「とんでもない愚行。気持ちは分かるが、60歳以上で清掃するなどの見識はないのか」と批判した。

 「ストロンチウムやトリチウムが深刻」、「今後、がんだけでなく多様な疾患が全臓器に確率的に発生する」と語った西尾さん。「甲状腺検査をしっかりと受けるなど、生じ得るリスクを考えて対応するしかない」と強調した。雁屋さんは「僕は物書きだから、目についた真実を描き続ける。今は役に立たないかも知れないが、後々、必ず役に立つ。そう愚直であって良いんだと思う」と締めくくった。


(了)

【原発PR看板】撤去された〝原発事故遺構〟~標語考案者の大沼さん「倉庫で眠らせず展示して」

福島県双葉町の双葉町体育館前に設置されていた原発PR看板が21日午前、撤去された。伊澤史朗町長が三月議会で撤去方針を表明して以来、撤去反対・現場保存を訴えてきた町民の大沼勇治さん(39)、せりなさん(40)夫妻=茨城県古河市に避難中=が見守る中、文字盤は30分ほどで外されていった。アーチそのものは24日以降に外される予定。具体的な展示方法も決まらぬまま、不都合な原発PR標語だけを真っ先に外した格好で、大沼さんは「必ず展示を」と改めて訴えた。



【「私は永遠に語り継いで行く」】

 白い防護服に身を包んだ大沼さんが見守る中、標語の書かれたアクリル板が一文字ずつ、外されていく。高さ約4メートルのアーチ。作業開始から約30分。高所作業車の作業員が最後の一文字を外すと、長年の陽射しで焼け付いたのだろう。アーチにはうっすらと標語の文字が読めていた。「僕の執念かな」。大沼さんが苦笑する。しかし、心中は虚脱感でいっぱいだった。

 「とうとう終わってしまったな…。怒りとか悔しさとかいうよりも、空虚な気持ちですね」

 一番、思い入れがあるという「明」の文字を手にしながら、大沼さんは語った。

 撤去されたPR標語「原子力 明るい未来のエネルギー」は、自身が双葉北小学校6年生だった1988年に考えたものだ。原子力発電をPRする標語を提出しなさい、と教諭から出された宿題に、大沼少年は「21世紀」や「リニアモーターカー」などの、まさに「明るい未来」をイメージした。標語は優秀賞に選ばれ、当時の町長から表彰された。誇らしかった。原子力発電で生まれ育った街が輝かしく発展すると信じて疑わなかった。だが、それが子どもの純粋な心を利用した大人たちの狡猾なPR作戦だったこと、そして原発は、明るい未来をもたらすどころか一夜にして故郷を奪う〝凶器〟になることを、後に知るのだった。

 「1日で故郷を失ったんですからね…」と大沼さん。報道陣に配布した「声明文」で、次のように綴った。

 「この看板こそ、原発遺構として最も重要な遺構です」、「二度と同じ失敗を繰り返さないための教訓にするよう、この原子力PR塔は必ず展示してください」、「私は永遠に語り継いで行く覚悟です」

 〝凶器〟に胸躍らせていた少年の日々、そして原発事故による哀しみ、痛み、反省。看板は撤去されても、大沼さんの取り組みは終わらない。
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(上)外された文字盤を手にする大沼さん。自身の

考案した標語のような「明るい未来」は、残念ながら

やって来なかった

(中)国道6号からバリケード越しに見えていたPR看板。

国の意向が働いたか?

(下)文字盤は町役場の倉庫に保管されるが、具体的

な展示方法などは全く決まっていない


【「町が復興したら展示」と町長】

 「撤去ありき」の町役場と闘い続けた1年だった。

 伊澤町長が三月議会で看板の撤去を表明、撤去費用を盛り込んだ予算案を提出すると、すぐに撤去反対と現場保存を町や町議会に申し入れた。並行して署名集めも始め、最終的に6902筆を提出するに至った。町長が「老朽化」を撤去の理由に挙げていたため、町職員に「修繕費を出すから保存して欲しい」とまで持ちかけた。だが、町長の方針は覆らなかった。

 「取材対応も含めて、現場に足を運んだのは50回を超えているでしょう。何度見ても壊れるとはとても思えない。何より、展示方法を決めてから撤去するのが通常の進め方でしょう。とにかく撤去ありき。よほどこの標語が国道6号から見えると不都合なんでしょうね」

 自身が管理していた看板横のアパートには「看板撤去絶対反対! 負の遺産として現場保存を!」と書かれた赤い垂れ幕を下げて訴えた。さらに原発事故から3年にあたり、「新たな未来へ」と題した自作の詩を掲示した。

 「双葉の悲しい青空よ かつて町は原発と共に『明るい』未来を信じた 少年の頃の僕へ その未来は『明るい』を『破滅』に ああ、原発事故さえ無ければ 時と共に朽ちて行くこの町 時代に捨てられていくようだ…」

 大沼さんの訴えも署名も全て無視して撤去に邁進してきた伊澤町長はこの日、秘書広報課を通じて木で鼻を括ったようなコメントを報道陣に出した。

 「今回看板の老朽化により原子力広報塔を撤去するが、双葉町の財産として大切に保存をする。看板については、双葉町が復興した時にあらためて復元、展示を考えている」

 しかし、双葉町がいつ「復興」するのか。どこに、どのように展示をするのか。誰も分からない。何も決まっていない。
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(上)30分ほどで外された標語。「文字がうっすら見え

るのは僕の執念かな」と大沼さん

(中)自身の所有アパートに垂れ幕を下げて撤去反対

を訴えていたが、伊澤町長の意思は変わらなかった

(下)撤去作業前、抗議の標語を掲げる大沼さん

ご夫妻。「たとえ看板がなくなっても、原発と歩んできた

歴史は消えません」


【消えぬ原発との歴史】

 撤去作業を前に、大沼さん夫妻は「撤去が復興?」、「過去は消せず」と書かれた自作の〝看板〟を掲げて最後の抵抗を試みた。「たとえ看板がなくなっても、原発と歩んできた歴史は消えません」。双葉町体育館前では、町の木で「町民の歌」でも歌われるセンダンの黄色い実がたわわに実っていた。「センダンは双葉より芳し」ということわざにかけて「双葉 看板死 過去永久に」という抗議看板も作った。しかし、標語はあっさりと外されてしまった。

 大沼さんは今後、外されたPR看板が倉庫でほこりをかぶって眠り続けることのないよう、町に働きかけていく。

 「まずは倉庫にきちんと保管されていることを確認します。その上で、絶対に展示させます。今回、私が動かなければ解体・廃棄されていたでしょう。これで終わりじゃない。私は納得していませんよ」

 国道6号から見えるPR標語を是が非でも取り外そうとした行政。過疎の町が原発による繁栄をどれだけ夢見ていたか、その想いをいかに原子力ムラが利用してきたか。大沼少年の考案した標語があまりにも的確過ぎて為政者には不都合だということの、何よりの証拠と言えよう。


(了)

【原発PR看板】「老朽化」理由に明日から撤去~標語を考案した大沼勇治さんの「現場保存」叶わず

福島県双葉町に設置されている原発PR看板の撤去作業が21日、始まる。看板を巡っては、標語を考案した大沼勇治さん(39)が現場保存を求めて署名運動を展開。6900筆を超える署名を町に提出していた。前町長・井戸川克隆さん(69)も撤去に反対。神奈川県内の高校生が学校新聞で取り上げるなど関心が高まっていたが、伊澤史朗町長の撤去方針は覆らなかった。


【無視された6902筆の署名】

 撤去作業が始められるのは21日午前10時。PR看板は町内に2カ所、設置されており、まずは国道6号や双葉体育館に面した看板から解体される。原発事故後、インターネットを通じて世界中に拡散された看板が姿を消すことになる。フリージャーナリストも含めて取材希望が殺到したため、町は送迎車両を増やして撤去作業を〝公開〟する予定だ。

 作業に伴い、町は来年1月10日まで看板周辺を通行止めにする。もう一カ所の町役場前の看板もそれまでに外されることになる。伊澤町長は外された看板を廃棄はしない意向で、将来の展示を視野に入れて保存するとしている。浪江町にまたがる土地に建設が計画されている復興祈念公園内で展示される可能性もあるが、具体的には何も決まっていない。

 PR看板の撤去が浮上したのは今年3月の町議会。老朽化、一時帰宅する町民の安全確保が理由で、議会も撤去費用を盛り込んだ予算案を承認した。

 これを受けて、看板に記載されている標語の考案者である大沼さんは、議会や町に撤去反対を申し入れる一方、署名運動を展開。6月末までに全国から集まった6902筆を伊澤町長に提出した。しかし、町長の撤去方針に変化はなく、6月議会で年内撤去方針を表明。7月発行の「広報ふたば」では、PR看板について「慎重な検討を進めてまいりましたが、老朽化が進んでいて危険な状態にある」と、撤去の理由を町民に説明していた。しかし、倒壊の危険性について、専門家の診断など客観的なデータは何一つない。

 「看板が心配で夢によく出てきます。撤去されてうなされる夢がとうとう、現実になってしまいました」。大沼さんは寂しそうに語る。
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原発事故が起きる前までは、町のシンボルだったPR

看板。小学生の時に標語を考案した大沼さんは事故

後、看板を使って脱原発を呼びかけ、「負の遺産」とし

ての現場保存を求めてきた(いずれも大沼さん提供)


【学校新聞で看板取り上げた高校生】

 神奈川県伊勢原市の向上高校。約50人の生徒が所属する新聞委員会は、10月22日発行の学校新聞「こゆるぎ」で、原発PR看板について取り上げた。同紙は2011年や2012年にも原発問題を取り上げている。

 「震災から4年以上が経ち、みんなが忘れかけていると感じていました。福島のことを調べているうちに、双葉町の被害の大きさを知って、もっと調べたいと思いました。それで、まずインターネットで話題になっていた大沼さんに連絡を取ったんです」

 記事をまとめた3年生の嶋田さんは振り返る。生徒たちの受け取った大沼さんは、原発PR看板に対する悔しさを、次のようにメールで寄せた。

 「真っ先に看板を撤去の方針を打ち出したことで、自分の育った町が、原発とともに歩んできたことが間違いだったと実感しました」

 「誰も責任が取れない原発は、双葉町のPR看板よりも邪魔なものです」

 「原発PR看板は、あった場所で保存するからこそ原発遺構としての価値がある」(原文ママ)

 嶋田さんは何より、大沼さんが小学生の頃に原発をPRする標語を考えていたということに驚かされたという。

 秋の学校行事もあり、毎年、10月に発行する紙面は20ページとボリュームが大きい。7月の編集会議で双葉町について取り上げることが決まると、夏休みを返上して下調べを進め、9月には同じく3年生の寺澤さんが顧問の教諭とともに町役場のあるいわき市を日帰りで訪れた。

 「町役場の計らいで仮設住宅に入居している方々に話を聴くことが出来ました。お年寄りは、ちょっとした環境の変化でも大きなストレスを感じていることが分かりました」
 地震だけなら、原発が爆発しなければ、今まで通り自宅でお茶をすすることができた。畑仕事もできたのだ。短い時間だったが、お年寄りたちの哀しみに接することができた。

 嶋田さんは「取材後記」で、こう綴っている。

 「過ちを二度と繰り返さないようにするため、原発再稼働などに関し再考する必要を感じた」

 そして、こう語る。

 「調べる前は、原発事故について何も知らなかった。住民の方々の声など、もっと知りたくなった」

 2011年7月、同校生徒154人を対象に実施されたアンケートでは、34%が「日本に原発は必要」と回答。「不必要」の17%を上回った(「どちらとも言えない」は49%)。若い世代に原発事故を語り継ぎ、エネルギー問題の判断材料とするためにも、原発PR看板は必要なのだ。
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PR看板を取り上げた寺澤さん(左)と嶋田さん。大沼

さんが考案した標語を軸に、双葉町の現状を学校

新聞でリポートした=向上高校


【「伊澤町長は国の傀儡」】

 「私こそ、あの看板を外したかったんですよ」

 そう話すのは双葉町の前町長、井戸川克隆さん。「もちろん、原発事故以前の話ですけどね。あの標語は原発に媚びているでしょう。原発に依存した町づくりはやめにしたかったんですよ。でも、今となっては残すべきだと思います。広島の原爆ドームのようにね」

 もちろん、町民の間にも現場保存か撤去かで意見は分かれる。「複雑だねえ。原発のおかげでこうやって避難生活を強いられている。あれを見るたびに何とも言えない気持ちになるからねえ」と語る町民もいるのは事実だ。一方で、大沼さんや井戸川さんのように〝負の遺産〟としての現場保存に賛同する町民も少なくない。

 「老朽化」を盾に押し切った伊澤町長。東京五輪までに、原発PR看板を国道6号から見えないようにしなければならない事情でもあるのか。井戸川さんの言葉に、ヒントがあるのかもしれない。

 「伊澤君は国の傀儡(かいらい)だから。言いなりだからね」

(了)